アーレフの中間派といわれているVT正悟師こと、
野田成人さんのブログにいわゆるA派といわれている人のものだと思われるコメントが公開されています。非常に興味深いですね。次のようなものです。
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本文
件名 : ほらね♪
凡夫に騙されて良い修行になったね♪
野球見たり顔文字使うなら現世に帰りなさい。
下向者と同窓会やって遊ぶなら現世に帰りなさい。
アーレフは一本の木である。
尊師は役目どうり日本国で創造・維持・破壊をした。
残された種子である上祐は、形はどうであれ尊師のDNAを隠し持ち発芽した訳だ。
↓この元サマナも発芽して個人でヨーガ教室を開いている。
http://members.goo.ne.jp/home/bodhicarya
だが君はどうだ?
A派がどうのこうのと言ったりA派は尊師尊師ばっかりとか
ここで文句たれたり。
正悟師という種子を持っておきながら。
三宝帰依出来ないのなら現世へ帰りなさい。
尊師と教団に帰依出来ないのなら現世へ帰りなさい。
中間派とか言ってどっち付かずでぬるま湯に浸かるなら現世へ帰りなさい。
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まあ、これが、本来の「正しいオウム信者」のあり方なのでしょう。
このような人たちが存在している限り、まだまだ、オウムは健在だというわけですねえ。公安調査庁は、何の後ろめたさもなく、自分たちの存在意義を高らかに主張できるわけです(笑)。
ちょっと、ここで、このような過激な書き込みを紹介させてもらったので、この内容と関連した、最近、私が読んだ刺激的な、感銘を受けた文章を紹介させてもらいます。書店で英語の参考書をいろいろパラパラとめくっていたところ、オウムのタントラヴァジラヤーナについて論じている文章に出会いました。
東進ハイスクール講師の横山雅彦さんの「大学入試横山ロジカル・リーディング講義の実況中継実践演習②」(語学春秋社)という英語の参考書の中に、本来宗教とはどうあるべきなのかを説かれている箇所があります。思想問題を論じているハイレベルな内容で、受験参考書の中だけに埋もらせておくのは、もったいないと思いましたので、ここに、紹介させてもらいます。
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宗教法人と化した現代日本の宗教
ご存じのように,オウム真理教は“タントラヴァジラヤーナ"という他人の人権を踏みにじる「仏法」を掲げたわけです。ところが、彼らは何度、「名誉段損だ」とか「信教の自由の侵害だ」といって訴訟を起こしたでしょうか。地下鉄サリン事件当時の広報部長であった上祐が刑期を終えて出所したときには、「私たちにも居住権はあるんです」と訴えていましたね。
信教の自由とか居住権とか、こうした基本的人権というのは、彼らがタントラヴァジラヤーナで真っ向から否定した現代日本の「王法」、すなわち民主主義が保障するものです。彼らはそのことすらわかってないようです。彼らは一体何を信じているんでしょうか。
「ミイラは生きている」と言ったライフスペースしかりです。「王法」、つまり人権思想に基づく民法や刑法から見れば、ミイラは死んでいるんです。民法刑法が「死」と認定するものを、認定しないと言ったわけでしょう。“定説"なる「仏法」を掲げたわけです。ところが、警察がミイラを移動させたとたん、「ミイラを殺した。殺人罪だ」と言って、刑法に訴えた(笑)。
何のことはない、オウムの信者もライフスペースの会員も、本当はタントラヴァジラヤーナなんて信じていない。定説なんて信じていない.。信じているのは人権思想であり民主主義なんです。
麻原は、1980年代に「血のイニシエーション」といって、自分の生き血をグラス1杯100万円で売って信者に飲ませました。『サンデー毎日』は、毎週キャンペーンを張って、厳しくこれを糾弾しました。そのとき、麻原は「釈尊しかり、鎌倉期の祖師たちしかり、宗教とは反社会的である」と開き直りました。確かにそうです。反社会的です。でもね、お釈迦さまも鎌倉仏教の祖師たちも、オウムとは違って、「仏法」を貫いています。
そもそもオウムは宗教法人だったんです。宗教法人ということは、「王法」、具体的には文部科学省の管轄下に入って合法的、社会的に宗教活動をしていくことを宜言した団体なんですよ。社会的なんです。だから、その見返りとして、いくらお札を売ってもお守りを売っても、祈祷をしても無課税なんでしょ。税制上の優遇措置を受けているわけで、その宗教法人が「宗教は反社会的だ」なんて、これほどバカげた矛盾はありません。
仏教の「三世の思想」
麻原に言われるまでもなく、いまの人権思想から見て、お釈迦さまは非常に反社会的なことを言っています。仏教はね、「三世の思想」なんです。ものごとを過去世、現世、未来世からとらえる。
例えばちょっと趣端な話ですが,ぼくがいま,あなたを急に空手で殴ったとしようか。血が出て、大ケガをしてしまった。理不尽です。人権侵害です。でも、三世の思想から見れば、これは有り難いことなんだよ。過去世において、あなたがぼくのことを激しく殴ったから、いまこうしてその酬いを受けた。もうこの業を未来世に持ち越さなくてすむ。こんな有り難いことはない。そう言って感謝しないといけない。
比叡山を開いた最澄がそうです。お坊さんになるためには受戒といって、守るべき戒律を受けなければなりません。かつて戒律は、「小乗戒」といって、お釈迦さま以来の二百何十もある非常に厳しいものでした。最澄はそれを捨て、「菩薩戒」という50いくつの新しい軽い戒を唱えるんですね。そして独自に比叡山でお坊さんを作ろうとする。当然,奈良の伝統仏教は激怒して、最澄を非難します。
そのとき最澄は『顕戒論』という論文を書いて、「有り難い」と書くんですよ。「私が過去世において彼らを口汚くののしった、その酬いがきてこのようにののしられているのであるから、この業がいま消えると思うと有り難い。末来世に持ち越さずにすむ。こんな有り難いことはない」。そう記しています。
名誉毀損だ、人権侵害だといって訴えてはいない(笑)。仏法を貫いているんです。
「布施」も三世の思想」から
もうちょっと例を挙げてみようか。『阿含経』という古いお経に、こんなエピソードが出てきます。お釈迦さまが弟子たちと一緒に托鉢に出かけるんです。托鉢ってわかりますか?
お坊さんというのは、生産活動は営んではならないんですね。お金を儲けてはならない。ですから在家の人から「財施」をしてもらう。お金や食べ物を施してもらう。でも、それでは単なる物乞いですね。お坊さんは在家の人にはできない修行をしていますから、代わりにその修行を通して得た法を説いてあげる。「法施」といいます。
「貧者の一灯」といって、たとえ菜っ葉1枚であっても、米粒ひと粒であっても、それが真心からの財施であるなら、お返しに何時問でも自分が悟った法を説く。財施と法施のギブ・アンド・テイクが托鉢です。ですから,オウムみたいに「お布施」に値段をつけてしまったら、それはもう財施ではない。もちろんこれは、オウムに限らず他の宗教団体でも同じですけど。
さあ、この托鉢に出かけようというときに、Aという村に行くか、それともBという村に行くか、どっちにしようかということになった。お釈迦さまはBという村に行くと言います。弟子たちは,あわててAにしましょうと言いました。Aは裕福な村ですが、Bは非常に貧しく、とても托鉢に応じることができるような状況ではないんです。
ところが,お釈迦さまはこう言うんですね。「いや、Bに行こう。なぜならB村に住む人々は業が深い。過去世に積んだ悪業の酬いで、彼らはあの村に生まれているのであるから、たとえ米粒ひと粒といえども財施をさせてあげて、末来世で救われるよう、徳を積ませてあげなければならない」。こう言って、B村に行くんです。
わかりますか?基本的には、オウムのポアの思想と同じなんです。お釈迦さまは決して人殺しなんかしませんが、「業の深い魂が罪を犯す前にポアしてあげる、悪いことをしないように殺してあげるんだ」というオウムのタントラヴァジラヤーナの教義と発想は同じ、三世の思想です。
「仏法」を説かない現代の仏教
これを突き詰めてごらん、差別肯定思想.です。不当に思える差別も、みんな過去世の業ということになる。週去世をもち出すなら、この世に不条理はなくなります。すべて過去世に原因があるのですから。
本来、仏教はこの世の不条理を説明できるはずなんです。しかし、仏教のどこかの教団が、例えば阪神淡路大震災について声明を出しましたか。あるいは脳死判定や臓器移植について、立場を明らかにしているでしょうか。
発言できるはずなんです。現世だけではない、本当に未来世があると信じているのなら。なぜ、仏教の教団はすべて固く口を閉ざしているんでしょうか。それどころか、多くの仏教教団が錦の御旗のように「人権」をスローガンに掲げていますよね。
麻原が本当にタントラヴヤジラヤーナを信じているのなら、彼は法廷で、「自分がしたことは殺人なんかじゃない。救済なんだ」と言うべきです。「人権思想などという愚かな王法から見れば殺人かもしれない。しかし、聖なるタントラヴァジラヤーナから見れば救済なんだ。ポアなんだ。王法で俺を裁けるものなら裁いてみろ。タントラヴァジラヤーナ以外、自分を裁くことなどできない」と、そう言うべきです。
上祐も他の信者たちも、貸してくれるマンションがないなら、自分たちが信じるタントラヴァジラヤーナにしたがって、有り難く野宿したらどうなんですか。それも過去世の業なんですから。他人の人権は踏みにじるだけ踏みにじっておいて、殺人というのは最大の人権侵害ですよ、それにもかかわらず自分たちの基本的人権だけは守れなんて、あまりにも虫がよすぎます。
「人権思想」による思想的画一化の危機
つまり、こういうことなんです。どんなイデオロギーよりも、どんな思想よりも、またどんな宗教的な信条よりも高いところに、普遍的な原理として人権思想がある。そして、世界中のありとあらゆる思想、イデオロギーが、その人権思想に自らを適応させようとしている。人権思想に合わない部分、仏教なら三世の思想ですね、そういうものを全部そぎ落としながら、人権思想に合わせようとしている、それがいまの世界の思想状況なのではないか。
ぼくたちは、民主主義社会において,いろんな自由を享受していると、当たり前のように信じています。自由ということは権利、人権です。言論の自由ということは、言論の権利でしょ。しかし、それは本当に自由なのか。私たちに許された自由というのは、人権思想に反しない限りにおける自由ではないのか。タング文化やネパールのクマリの文化の存続を許さないような思想は本当は不自由なんじゃないのか。
呉智英という評論家は、こうした状況を「人権真理教」と呼んでいます。タントラヴァジラヤーナを信じている、定説を信じている、と言いながら、彼らが信じているのは民主主義なんです。宗教法人でありながら、「宗教とは反杜会的なものだ」と言ってのける。その矛盾にすら気がつかない。これは人権真理教によるマインド・コントロールじゃないのか。
これこそが、トクヴィルのいうthe Gleichschaltung of the mind「思想的画一化」です。トクヴィルは、こうした思想的画一化の萌芽を、すでに200年前のアメリカに見ていたということです。
横山雅彦著『大学入試横山ロジカル・リーディング講義の実況中継実践演習②』(語学春秋社)より
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この本は英語の参考書ですが、英語の参考書とは思えないくらいに、思想的にかなり深いところまで解説している刺激的な参考書です。受験生でない一般の人にとっても勉強になりますし、英語と共に宗教や思想についても学べます。大学入試の参考書の中で、このようなオウムの思想を取り上げているのを読んだのは初めてです。やはり横山先生の問題意識がラディカル(根源的)だから、どうしてもオウム問題に行き着かざるを得ない。それで、このような内容の参考書になるんでしょう。ちなみに、横山先生は、大学院で、将来、宗教学の研究者になるべく、世界の様々な宗教を研究されていたそうです。
この講義で述べられているような、麻原教祖が自分の宗教思想を語る、ということは、無理なような気がします。何を考えているのか、本心が分からない、といったところでしょうか。というか、私がなるほどと思ったのは、やはり、ここで鋭く指摘されているように、戦後生まれの麻原教祖以下、オウム信者も、みんな、人権真理教の信者であったのではないか、ということです。必ずしも他人の生命は尊重しないが、自分の生命だけは絶対に死守するという生命尊重主義が身に染み渡っているということではないのでしょうか。かつて、三島由紀夫が、
東大全共闘から一人の自決者も出なかったことについて、結局、彼らも戦後民主主義思想の申し子だったんだなあ、というようなことを語っていたことを思い出します。
とはいうものの、この講義の中で横山先生が、「ぼくは人権思想の信奉者です」と述べられているように、私も人権思想の信奉者です。そして、オウムも人権思想の信奉者ならば、他人の人権も、自分たちの人権と同じように尊重せよ、ということを私は言いたいのです。自分たちの都合に合わせて、あるときは他人の人権を無視し、都合が悪くなったときは、自分たちの人権を主張する、その身勝手さに、怒りを感じるのです。