ニルヴァーナへの道

究極の悟りを求めて

朝生感想

2007-05-27 14:13:49 | 憲法
もう「朝生」の役割は終ったのではないかと、この前の憲法討論会を聞いていて思った。
タブーに挑戦が、この番組の売りだったが、何の知的刺激、興奮も起きない。
そもそも、憲法無効論者を登場させないなんて、この番組の意味がないではないか。
これでは、わざわざ深夜、眠い目をこすりながら、見る価値はない、と思った。
優等生の議論など、聞いていても仕方がないでないか。
アホらし、というのが率直な感想ですね。
まあ、それでも見てしまうのは(途中で寝てしまって、録画したのを見直しているのですが)、ひょっとしたら面白い議論が展開されるのではないかという期待と、以前からの惰性です。

まあ、それでも、九条真理教徒の方々の信仰告白を拝聴できたことは参考になったということが今回の収穫でしょうか。

東京大学在学中に司法試験に合格された「カリスマ法律講師」伊藤真先生の九条擁護の議論は、現在の日本人の九条擁護をする人たちの根本の考え方でしょうね。

国家権力が、自分たちを戦争の巻き込もうとするのを防ぐ最も強力な防御線、楯、が九条だという考え方ですね。
自分たちは絶対に戦争などというアホなものに巻き込まれてたまるか、という願いがこの九条によって実現されているのだから、これは絶対に手放さない、ということでしょう。

たしかに、憲法には国家権力の不当な圧力から国民の権利を擁護するという機能を持っていることは事実でしょう。

では、国家の防衛はどのようにすればいいのか。
九条の発想からは国家の防衛、ひいては国民の生命の外国の侵略者からの擁護という行為はどうしても否定的なイメージでしか捉えられなくなってくるのは確かでしう。
これでは駄目だというのが、九条改正論者の意見なのですが、
いや、それでもいいのだ、というのが九条擁護者の考えですね。

国家の防衛などというものは、将来の理想世界の到来の暁には、不要になるべきものなのだから、国民の権利の擁護よりも、一段低いところに置いておくべきなのだ、ということでしょう。

まあ、これが、九条真理教の教義の核心だと思うのですが、

しかし、果たして、これでいいのだろうか。
私はそうは思わない。

窮状を救助し世界を宮城にする九条

2007-05-17 20:35:19 | 憲法
最近、いろいろなブログやサイトで憲法九条改正論議が盛んですね。

副島隆彦氏の「学問道場」の「気軽にではなく重たい気持ちで書く掲示板」に、副島氏の憲法九条に対する考えが書かれていました。

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副島隆彦です。 国民投票法が、国会で可決しました。
これは「法のケン欠」と言って、日本国憲法が、改正されることを予定していなかったものだから、法制度自体が不足したままになっていたのです。

国民投票法(ナショナル・レファレンダム、住民投票の国家版)が出来て、これでいよいよ憲法改正論議、すなわち、憲法9条の、とりわけ「第2項」の「陸海空軍その他の戦力はこれを保持しない。交戦権はこれを認めない」の箇所を、改正して、自衛隊の存在の現状、現実に合うように、改正すべきだ、いや、すべきでない、現行のままでいい、という激しい、国民的な議論です。

私、副島隆彦は、憲法9条改正反対 (改正阻止)の立場です。その方が、長い目で見て、騙されないで済むし、日本の若者たちを戦場で死なせなくて済む、という立場です。 「騙(だま)されてたまるか。民衆は、いつの時代も権力者たちや、外国の大きな力に騙されて、そして、ひどい目に遭ってきたから」という思想に立つからです。

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副島氏の立場は、鈴木邦男氏のような民族派左派のように思えます。私の考えは、現行憲法無効論で、憲法九条だけを変えるのは反対です。この考えは、副島氏の立場に一部似通っている部分があると思いますが・・・・・・。

鈴木邦男さんは、最近、ニューヨークへ赴かれて「憲法シンポジウム」に参加されて、アメリカの学者や映画監督、日本国憲法の起草メンバーの一人であるベアテ・シロタ・ゴードンさんなどと憲法論議をされたそうです。そのときの模様が、鈴木さんの「今週の主張」に書かれています。アメリカの人たちは憲法九条を評価する人たちですから、日本でいえば左派のような考え方の立場でしょう。
鈴木さんは次のようなことを語っておられます。

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では、ニューヨークの話だ。初めの「7分間スピーチ」の時に、「この憲法は一度、見直すべきだ」と私は言った。他のパネラーや司会者は全員、護憲派だ。1対4だ。でも、自民党のような、ただ「現実に引き戻す」ためだけの改憲には反対だ。そうも言った。
 60年前、この憲法を作った時は、それなりに理想や夢を持って作った。アメリカの押しつけだし、アメリカは日本で〈実験〉をしようとした。軍備のない〈平和国家〉を作ろうとした。「二度とアメリカに牙をむかないように」という意図はあっただろう。それと共に、もしかしたら、世界から軍備、戦争をなくせるかもしれない。そう思ったのではないか。ドイツ、イタリア、日本という「悪の枢軸国」が滅んだんだ。「戦争愛好国」がなくなったのだ。「平和勢力」が勝った。だからもう二度と戦争は起こらないし、軍備を捨ててもいい。もし紛争があっても国連が治めてくれる。
 …そう思ったのだろう。そういう夢や理想を持てた時代だった。だから、まず日本に「平和憲法」を与えた。この「偉大な実験」にならって、世界も見習うだろう。そう思ったのだろう。
 その現実や夢は分かる。だったら、アメリカ国民にもよく知らせ、納得させるべきだった。そして、「こんな素晴らしい実験をやった。よし、我が国も続こう!」と言えばよかった。少なくとも、核は廃棄しよう!そう言えばよかった。そうしたら、日本はこの「平和憲法」を素晴らしいものとして、永久に大事にしただろう。改憲運動なんか起きやしない。ところが、アメリカは強大な軍備を持ち、さらに拡張し、国連を無視して自国の利益を無理押ししている。これではいかんだろう。

 それに、こんなに素晴らしい「平和憲法」だというが、じゃ、アメリカで知られているのか。世界中で知られているのか。シンポジウムの時に聞いてみたが、ほとんど知られてないという。
 「いや、9条があるから、日本は軍隊を外国に出せない。立派なことだ、と支援している外国の人々が多い」と日本の左翼は言う。しかし、嘘だ。現実にはそんな声は、ほとんど聞かない。
 もし、そんな声があるなら、「私たちが出来ない理想を日本は実現した。どんなことがあっても軍隊を持つな。改憲するな!」という声が全世界で起こるはずだ。「アメリカの最大のプレゼント=憲法を改正するなら、もう日本とは国交断絶だ!」とアメリカ中の人民が言ってもいい。「せっかく持っている平和主義の理想を捨てるなんて許せない。戦前の軍国主義に戻るのなら阻止する!経済封鎖だ!」
 …という声が、アメリカだけでなく、世界に満ち満ちるはずだ。ところが、そんなことはない。当のアメリカでも、9条や日本国憲法は知られてない。これではいかんだろう。もしかしたら、日本に憲法があることもロクに知らんのじゃないだろうか。世界は日本の「夢」を知らない。「理想」を理解していない。 だからといって、日本が理想や夢を全て捨てていいとはならない。60年前は、理想や夢をもって憲法を作った。今、改憲するというのなら、それ以上の理想や夢があってやるべきだ。ないのならば、やっても仕方はない。又、自民党のような、理想や夢を忘れ、「現実」を追認するだけの改憲では意味がない。そう思う。

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鈴木さんのこの理想主義的な考え方は好きです。やはり、鈴木さんも生長の家の出身だけあって、どこかに、政治的な考え方を超えた、宗教的な理想が現れてきますね。まあ、そこに、理論的な荒さが出てきて、民族派陣営から批判されるのでしょうが、左の人たちとの論争を通じて、ご自分と相手の人たちとの違い、同じところもわかってきて、共闘できるところは共闘出来るし、共有できない考え方もある、という是々非々的なスタンスという柔軟な考えになってこられているようです。思想的にちょっとでも異なると、もうその人たちとは、絶縁してしまうというような硬直した姿勢はとらないということですね。学ぶべきところは学ぼうではないか、ということですね。私たちも、こういう寛容な心の養成は必要だと思います。このような相手の立場も認めていこうという寛容な柔軟な心、考え方こそが、この世界をより住みやすい世界にしていくことができるのではないかと思うのですけれども、なかなか人間は煩悩的な存在なだけに、どうしても暴力主義的になりやすい、ということでしょう。ブッダやキリストが現れて、三千年近く経とうとしているけれども、いまだに、世界から戦争が止む気配がない。いったい、これはどうしたことだろうか。生長の家創始者谷口雅春先生は、よく、こう言っておられたように思います。この地球上に生まれてくる魂というのは、ほとんどが、まだまだ霊的に幼い存在だから、この地球上で魂を磨く必要があるのだ。そのような霊的に幼い存在だから、そのような存在同士は、どうしても、ブッダのような非暴力的な高い境地に至ることはできない。だから、どうしても摩擦が起きるのだ。そのような経験を通して、霊的な学びが出来るのだ、そして、高い境地に達した魂は、もうこの地上には生まれてこない、特別な使命がある魂を除いては。・・・・・というようなことを語っておられたようです。なるほど、そういうことだろうな、と今現在も思っています。

鈴木さんは、「当のアメリカでも、9条や日本国憲法は知られてない。」と語っておられますが、アメリカでもこの九条の考え方に共鳴する人はいるんですね。大分前に、チャールズ M.オーバビー著『対訳地球憲法第九条』(たちばな出版)というアメリカ人で九条に心酔している人の本を購入したことがあります。翻訳者は同時通訳でも有名な人である国弘正雄氏です。この人は憲法九条をアメリカの憲法にも採用すべきだと、アメリカ憲法修正案を提示しています。たしかに、アメリカがこの九条を採用すれば画期的なことでしょう。が、それは、まだまだ先のことでしょう。アメリカはいまだに銃規制もできない国であり、建国の精神は自分の身は自分の身で守るという考えであるので、憲法九条の思想はとてもではないが、想像もできない、というのがアメリカの現状ではないかなと思います。憲法九条の考え方にたどり着くには、幾多の修羅場を体験していかなければならないということでしょうか。

たしかに、この憲法九条の思想は革命的なものであり、理想主義的な人ほど、この思想に感銘を受けるのでしょう。
鈴木邦男さんは『天皇制の論じ方』(IPC)の中で、「・・・・しかし、一般の国民にしてみたらそんな国際政治の現実を憲法に書いてもらってもしかたがない。そう思うのではないだろうか。もっと夢や希望や、世界に対して指標になる理想を高らかにうたいあげるべきだ・・・・・・そういう思いがあるのではないだろうか。それがあるから、「押し付け論」や「現実論」でもってしても「平和憲法論」に勝てないのだろう。最近ではどうもそんな気がする。」と述べられているのを読んで、長年、民族派として憲法改正論を訴えてこられた人の諦念といったものを感じました。普通の国民にすれば、戦争など無いにこしたことはないし、もし起こったとしてもそれには巻き込まれたくない、というのが本音でしょう。こういう率直な本音に憲法九条は合致しているから、これは手放したくない、ということでしょうか。つまり、こういうことではないでしょうか。憲法九条は戦争廃絶という理想主義にも合致しているし、戦争は嫌いだという普通の人たちの気持ちにも答えてくれていると。だから、なかなか憲法九条改正は出来ないのでしょう。

この憲法九条の非暴力主義は確かに、仏教の非暴力を彷彿とさせる宗教的文書という感じですね。
この非暴力主義を盛り込んだ憲法で最も格調高い憲法は、やはり「TIBET: A FUTURE VISION (チベット:未来へのヴィジョン) 」というチベット亡命政府のサンドン・リンポチェが書いた小冊子の中で政治理念が描かれている箇所ではないかと思っています。

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<政治について>
政治はいかなるものであるべきか。
まず、大事なのは、政治とは慈悲に導かれるものでなくてはならないということである。
仏陀の縁起の思想(一切のものは相互に深く関わり依存しあっているという哲学;相依生ともいう)から、一切の人は互いに無関心であってはならない、宇宙に生起するすべてのことに責任感をもたなくてはならないという理念が生まれる。
この理念を Universal Responsibility 宇宙的責任(人類各自が全世界に起こることに対して責任感をもつこと)という。
例えば地球の裏側で或る人々が苦しんでいるのは自分に全く関係のないことではない。因果の連鎖を見てゆくと、自分がその責任の一部を負っていることがわかる。
この宇宙的責任感から人は行動を起こさなくてはならない。人の不幸に無関心でありつづけることは許されない。
宇宙的責任感と慈悲の心とは表裏一体である。
慈悲とは「仲間の不幸を黙って見過ごせない気持ち」である。すべての人間が苦しむ生き物すべてに対して慈悲のこころを持たなくてはならない。
政治とは人々の慈悲の心によって、宇宙的責任感によって、指導され動かされるものでなくてはならない。

未来の政治は三つの主要な原則に支えられる:
1)真実
2)非暴力
3)真の民主主義
真実を歪めたり隠したりするような国家であってはならない。暴力を肯定するような国家であってはならない。真の民主主義が実現するような国家でなくてはならない。

政治の目的は、永遠の宇宙の法(ダルマ)に導かれて、公正で・人間的な暖かみのある・繁栄する社会を建設することにある。
理想の国チベットは、戦争に対して、平和のサンクチュアリー(保護区)でなくてはならない。
理想の国チベットは(唯物論的刹那的享楽主義つまり卑俗な物質主義に対して)精神主義 spirituality のサンクチュアリー(保護区)でなくてはならない。
理想の国チベットは、環境の清らかさのサンクチュアリー(保護区)でなくてはならない。
政治の目的は、そのような三重のサンクチュアリー(保護区)たる理想国家を作り、守ることにある。
政治の目的は、また、人間の永遠の理想である自由・平等・愛・美・慈悲・正義・非暴力・真実を体現する法律と体制を作り、守ることにある。

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やはり、憲法を創るなら、このような格調高い、読むだけで気持ちが引き締まってしまう(笑)理想主義的な文章でなければならないですね。

宮崎正弘の国際ニュース・早読み(読者の声)より

2007-05-13 21:41:31 | 東京裁判
「宮崎正弘の国際ニュース・早読み」 
平成19年(2007年) 5月14日(月曜日)   
通巻第1796号より

(読者の声3) 村松剛氏の『大量殺人の思想』を遅ればせながら手に取りました。
昭和36年(1961年)刊行されたこの書は、村松氏が同年イスラエルへ出掛けて、そこで行われたアイヒマン裁判の傍聴記がメインとなっています。
最終章の「アイヒマンの人間像」の中に、アイヒマンについて次のように記されている次の箇所があります。
(引用開始)
「ドイツにはジークフリート以来の破滅のロマンティスムがある。ニヒリズムにいろどられた力への意志と陶酔がある。 これとプロイセン風の服従精神を結びつけたのがナチスだった、という分析を、まえに僕は読んだことがあった。 両者の結合の象徴的舞台は、いうまでもなくニュールンベルクの党大会だろう。 鉤十字の旗に飾られた、あの古代ローマ帝国式の舞台装置。 ナチスをひきいる凶暴なニヒリストたちは、鉄の規律を奉じる党員たちをまえに、ここでチュートン騎士団以来の光栄ある伝統を説いたのである。・・・ 共同体のロマンティスムへの憧れは彼(アイヒマン)の中につよかった。しかしその凶暴なロマンティスムが、服従精神の枠をこえるほどのものではなかったことは、法廷における弁解、言い逃れの態度をもってしてもわかるだろう。
彼にはヒトラー、ゲッペルス、ゲーリングの、あの決断と自信と倣岸さはない。彼は自分の情熱と行為との、責任をとることさえできない。
つまり・・・指導者たちの要求した二つの要素は、彼においてまさに要求どおり、過不足なく現れていたということができる。 アイヒマンをナチスの生んだ『代表作』と呼ぶゆえんなのである。」
(引用止め)

ドイツ民族のロマンティスム(ニヒリズムにいろどられた力への意志と陶酔)は日本の「たおやめぶり」と違いますし、プロイセン風の服従精神は「ますらおぶり」ともまったく異なります。
ドイツ民族と心性の大いに異なる日本民族に、「ナチス」のような集団が生まれる訳はなく、ホロコーストのような大虐殺が歴史上自国内で発生したことはなく、海外で他民族になしたこともありません。
近代に入って、欧米民族やシナ人との交わりを濃くして以降、彼らから日本民族も彼らと同様の所業をしたと云い募られるようになりました。
そう言い募られた体験の無い日本人はあまりに無防備でした。未だに対処の仕方を心得ていません。

組織性、違法性、大量性の3つの条件に鑑みれば、米の広島・長崎への原爆投下はナチスのホロコーストと同じ”大虐殺”で、爆心直下にいた者はコンマ以下の秒数で一瞬にして頭髪皮膚内蔵骨肉すべて蒸発揮化し灰化させられました。
米が投下した原爆は、ホロコーストの行われたアウシュビッツのガス室の”死体「生産」能力”をはるかに優る巨大な ”人間焼却炉” を広島・長崎に現出しました。
ならば日本はイスラエルのヒソミに倣い、まず『原爆投下者処罰法』という仮想遡及法をつくり、彼らがアルゼンチンからアイヒマンを拉致したように原爆投下決定の最高責任者米大統領トルーマンと国務長官バーンズを日本へ連行し、戦犯法廷を開きたいところです。しかしそれはもう叶いません。
残念ながら死んだ被告たちをアイヒマンのように吊すことはできませんが、被告死亡として、仮想戦犯法廷を開き、「平和への罪」(所謂A級戦犯)と人道への罪(C級戦犯)で裁き、罪科を厳しく問うことにします。
 第三国は日米離間とほくそ笑むでしょう。
しかし米国議員たちが慰安婦問題で日本政府に謝罪させようと、在米華僑やその背後にいる第三国の資金に後押しされて、しつこく決議案を繰り返し議会に上程し、その成立に蠢くなら、それを喜ぶ民度の低さを米国民が示すなら、これに対して反証を挙げ防御に努めるだけでなく、アメリカの原爆投下の罪を糾問するパンチを繰り出すべきでしょう。

判決は次のようにします。
「核、そのものは善でも悪でもない。これを自存自衛の為でなく、何が何でも日本に原爆を落とそうと決意し冷酷にも実行したトルーマンとバーンズには、由々しい罪と重大な道義的・反人類的の負うべき責めがあり、厳粛な罰が課されるべきである。しかしこの両者に今から罪を償わせることはできない。 日本人には死者の墓を暴き、鞭死の恥辱を与える習慣はない。 広島・長崎の原爆被害者は、自分らの子どもたち、子孫の日本人が同じ苦しみ同じ悲惨な目に遭うことを望んではいない。
 今後、日本に核を投下しようとする、公正も信義も無い、邪悪な国家又は集団から日本を守るために、日本民族は核を保有することを決意した。この決意が世界で唯一の原爆被害者への鎮魂となるとともに、今と将来の日本の自存自衛に資すると確信するものである。日本は自存自衛以外に核を行使しないことを世界に向け、ここに宣言する」
     (しなの六文銭)


(宮崎正弘のコメント) 是非、これも英訳してください。片っ端から米国に発信する必要がありますから。
ところで村松剛さんの当該書籍は昭和三十六年刊行ですか。どうやって入手されました?
小生は学生時代にたしかに持っていて読んだ記憶もありますが、その後、人に貸したり、事務所移転が重なる裡に本棚それ自体も行方不明となってしまいました。 最近は二年前、三年前の書籍を買おうとおもっても本屋さんにおいておりませんね。この流通の速さも驚きながら、古い本の流出スピードもまた劇的です。

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松本道弘氏は、「極東裁判無効論」(歴史読本臨時増刊)において、「まず極東裁判の判決を無効として、戦後のけじめをつけ、民族的プライドに支えられた健全な愛国意識を取り戻し、経済大国としての責任感を自覚することだ。」と述べられていますが、やはり、国際社会(インターナショナル・コミュニティー)では、攻撃こそ、最大の防御でしょう。過去の歴史認識でネチネチ難癖をつけられ続けるのは、気持ちが悪いことこの上ないですね。相手からの理不尽な攻撃に対しては、沈黙や謝罪ではなく、正当な攻撃で答えなければならない。上記のような、思い切った措置も、日本人のマインドコントロールを解き、相手の頭を冷やすためには、必要な時があるということですね。結局は、そのような行為を行うガッツがあるかないかの問題になるということでしょう。果たして、日本人にそのガッツが有るや無しや?
あるインド人は、なぜ日本は核を持たないのだ、核を持っていないから落とされたのは自明の理であるのに、核を持とうとしない日本人の考えが理解できない、と語ったそうですが、確かに、この日本人の心理は不可解でしょうね。三発目を落とされて、ようやく重い腰を上げようとするのだろうか?確かに、核にはリスクがつきものだが、そのリスクを恐れては、結局、最後は、相手の理不尽な要求も呑まなければならない、ということになってくる。それでもいいのだ、というのが国民のコンセンサスであるのならそれは仕方がない。
アメリカと中国の間には、日本に核を持たせない、という密約があるという説がある。この説は非常に信憑性が高いのではないかと思います。
さあ、どうする日本!?

現代人のための「チベット死者の書」

2007-05-09 06:19:20 | 仏教


この前の連休に、NHKのBSで、五木寛之さんの21世紀仏教への旅というのをやっていましたが、最終回のアメリカの取材では、コロンビア大学のロバート・サーマン教授を訪問し、いろいろお話されていました。
このアメリカの有名なチベット仏教学者の「チベット死者の書」の翻訳が朝日新聞社から発売されているようですね。
中沢新一先生のまえがきもあるようですし、これは読んでみたいです。
英語版は持っているんですが、今まであんまり「死者の書」には興味がなかったので、英語版のほうは、前半の仏教の歴史とか、死とは何か、の部分をを読んだぐらいだったのですが、今度翻訳が出たので、チベット死者の書について学んでいきたいと思っています。
英語版のアマゾンの読者の書評では、前半の簡潔な仏教の歴史や死についての解説が素晴らしいというのもあります。「The introductory essays concerning Tibetan Buddhism, living and dying in Tibetan and modern traditions, and the nature of death, are in fact worth much more than his translation.」 たしかに、これは同感です。
 
現代人のための「チベット死者の書

ロバート・A・F・サーマン著 鷲尾 翠訳

9784022502889
2300円(本体価格)/ 2415円(税込価格)
2007年05月08日発売
四六判並製■448ページ

チベット仏教がしめす「人類3万年の死の教え」とは何か? 現代人は死を遠ざけようとするあまり、逆に生の意味を見失っている。ゲールク派で修業、欧米人で初めて得度を受けたコロンビア大学教授が、根強く人気の、生きる指針の書を現代人のために解説した話題作。チベット文化・仏教の歴史的背景をふくめて、わかりやすく紹介する最適の入門書。ダライ・ラマ14世の序文、宗教人類学者の中沢新一氏による入魂の「まえがき」付き。

大リーグ雑感

2007-05-07 02:16:14 | 野球
いろいろ批判されているNHKですが、BSでの大リーグ中継にかける意気込みは素晴らしいと思います。
1995年は阪神大震災やオウム事件の年であったが、私にとっては、大リーグ元年ともいうべき年でした。野茂の大リーグでのデビュー、そして、フォークを武器にしてのその後の快進撃は、野球の面白さを再認識させてくれました。

日本の野球とは、一味も二味も違う、メジャーの野球は、それまで日本の野球しか知らなかった人間にとっては、まさに、文化的衝撃ともいうべきものでした。
特に、七回のセブンイニングズストレッチなどは、アメリカ野球の文化の「成熟度」を感じさせられたものです。そうなんだ、プロ野球とは、日本の野球のような勝ち負けに極端にこだわるものではなくて、選手のそれぞれのプレーを楽しみながら、そのゲーム全体を観客にも一緒に楽しんでもらおう、という哲学がなければならないんだなあ、この考え方が日本のプロ野球には欠けていたんだなあ、というのが、そのときに感じたことです。遊び心の存在ですかね。それと、やはり、体力の違いでしょうか。あの力強さ、豪快さに慣れてくると、どうも、日本のほうは、なんだか物足りなさを感じてしまう。あの迫力を見慣れてくると、もう日本のプロ野球なんて見る気がしなくなるのではないかなあ。ともかく、大リーグには、世界中から、イチローや松井や松坂のような、その国では「天才」「怪物」と称されている人たちが集まってくるのである。大リーグの最後の戦いが「ワールドシリーズ」と称されるのもなるほどと思えてくる。日本で活躍している選手も最終目標を大リーグに置くのも仕方がないように思う。

ところで、松坂は、前評判とは裏腹に、かなり打ち込まれていますね。
まあ、メジャーの人間にとっては、あれだけ騒がれれば、どうしても意識しますから、松坂をかなり研究していると思う。最初の試合は、かなり抑えられたが、それからは、だいぶ打ち込まれている。やはり、メジャーをなめるなよ、というところでしょうな(笑い)。今後の予測としては、今年一年は試行錯誤の一年になるような気がしています。松坂は日本では「怪物」かもしれないが、あの位のスピードの投手などはゴロゴロいるし、もっと変化球のコントロールを身に着けていかなければ、今後も苦戦するのではないかと感じる。果たして、松坂はこの「試練」をどのように乗り越えていくのだろうか?

それに反して、岡島はやりますなあ。(笑い)
やはり、あの大きな鋭いカーブとチェンジアップですかね。
大リーグで活躍できる秘訣は、やはり、野茂のフォークのように、一つ群を抜く決め球を持っておかなければならない、ということでしょう。
今後、楽しみです。

井川? うーーん、といったところ(笑い)。

日本国憲法無効宣言

2007-05-04 16:47:24 | 憲法
ユーチューブに、憲法無効関連の映像が新しくアップされています。
渡部昇一先生の、「憲法改正という行為は、占領憲法に正統性(レジティマシー)を与えるから、駄目である」、というアピールは、日本国憲法の成立の秘密を知った、自主憲法制定の立場の日本人には、共通の考えになりつつあるのではないかと思います。この立場が、本来のあるべきスタンスだと思います。最も、「正統的」でしょう。まあ、クール(カッコイイ)なスタンスということです(笑い)。やはり、何をやるにしても、物事は、ラディカル(根源的)に、ということです。

そもそも、憲法原文が英文なんてものは、日本国憲法として「ニセモノ」である、と考えるのは、普通の日本人の感覚として当たり前だと思うのですが、そういう「当たり前」の感覚さえ、反動だ、右翼だ、などとと排斥されてきた戦後日本の言語空間は、まさに、洗脳された「閉ざされた思考空間」であったというべきでしょう。

昨日五月三日は憲法記念日であったので、憲法関連のニュースが報道されていたが、筑紫哲也のニュース23では、憲法特集として、憲法改正の問題点を、名古屋大学の憲法学者などが論じていた。この名古屋大学の研究者は、憲法成立過程に問題があったとしても、憲法の内容さえよければそれでいいではないか、と語っていたが、このような考え方の人は、改正派の立場の人たちの中にもいます。例えば、慶応大学の小林節教授。以前、小林先生の『憲法守って国滅ぶ』(KKベストセラーズ)という改憲の本がベストセラーになったことがあったが、この人の基本的な姿勢は、たとえ憲法制定過程に問題があったとしても、現憲法のほうが内容的に旧憲法よりも優れているから、手続的正当性よりも価値的正当性を強調する、というものだ。確かに、この考え方は、かなりの説得力を持っており、私も一時期、この考え方に影響を受けていた。

が、現行憲法には、やはり、占領軍が作ったものだけに、日本の国体が語られていない、という致命的欠陥がある。日本のあるべき国家像が明確に語られていない。この憲法の根幹部分を語るには、部分的修正では、どうにもならないのだ。第一、外国人の書いた憲法など気持ちが悪いではないか。私はこの当たり前の感覚を大切にしたい。日本の憲法は、日本の歴史、伝統を踏まえた日本人自身によって、占領憲法を一度ゼロにして、最初から、格調高い日本語で書かれるべきなのである。それが、真の保守の立場だろうと思います。

憲法無効論 渡部昇一・稲田朋美

改正反対・憲法廃棄論・藤原正彦

憲法「改正」とは言わないほうがいい

上祐派の名前

2007-05-02 14:42:40 | カルト

どうやら、上祐派の名前が決まったようですね。
「ひかりの輪」だそうです。
これを知ったときの第一印象は、「うーーん」ですね(笑い)。
他になかったのかなあ・・・・・という感じ。
ネット上のいろんなところで感想が語られていますが、あまりいい印象を与えてはいないようです。
でも、あんまり、カッコイイ名前をつけても、名前負けしてしまう可能性もありますからねえ。
まあ、こんな名前が、前途多難な上祐派にとっては、無難なところか。

ところで、宗教評論家アベルさんの掲示板で、このM派の名前当てのアンケートをやっていて、
私も自分の推測名を書き込んだのですが、それは「ブッディスト・サイエンス」でした。
アメリカのキリスト教系の団体で、クリスチャンサイエンスモニターという新聞も出している、クリスチャンサイエンスという名前からヒントを得て、ブッディストサイエンスという名前が浮かんだからでした。このクリスチャンサイエンスは、キリスト教関連の団体の中では、私の好きな教団で、サンデー・サービスなどをよくウェブ上で聞いています。なんといっても、この番組の宗教的雰囲気が魅力的です。
このブッディストサイエンスという名前に込めた思いは、科学的思考と共に、仏教的真理を探究していく、というものです。
ダライラマの「The Univerese in Single Atom」という本の中に、次のような一節があります。

「Spirituality must be tempered by the insights and discoveries of science.」
霊性というものは、科学の洞察と発見によって、鍛えられなければならない。

If as spiritual practitioners we ignore the discoveries of science , our practice is also impoverished, as this mind-set can lead to fundamentalism.
もし、霊的修行者として、われわれが科学の発見を無視するならば、このような思考態度が原理主義に導いてしまいいかねないように、われわれの修行もまた 貧弱になってしまうのだ。

This is one of the reasons I encourage my Buddhist colleagues to undertake the study of science, so that its insights can be integrated into the Buddhist worldview.
これが、私が仏教徒の仲間に、科学の研究に取り組むよう奨励している理由のひとつなのです。そして、科学の洞察が、仏教の世界観の中に統合されることが可能になるのです。」

この本のテーマは、「科学と霊性の合致(収束)The Convergence of Science and Spirituality 」ということですが、21世紀の宗教のあるべき姿として、ダライラマ法王は、宗教の思い込みを無くしながらが、より客観的な科学的な発見、洞察、データを、宗教の教義の中に盛り込むべきではないかと語っています。
それで、科学を重視する上祐派としても、このダライラマの考え方に賛同するのではないかと思って、ブッディストサイエンスという名前を提示させてもらったというわけです。