最近、いろいろなブログやサイトで憲法九条改正論議が盛んですね。
副島隆彦氏の
「学問道場」の「気軽にではなく重たい気持ちで書く掲示板」に、副島氏の憲法九条に対する考えが書かれていました。
ーーーーーーーーーーーーーー
副島隆彦です。 国民投票法が、国会で可決しました。
これは「法のケン欠」と言って、日本国憲法が、改正されることを予定していなかったものだから、法制度自体が不足したままになっていたのです。
国民投票法(ナショナル・レファレンダム、住民投票の国家版)が出来て、これでいよいよ憲法改正論議、すなわち、憲法9条の、とりわけ「第2項」の「陸海空軍その他の戦力はこれを保持しない。交戦権はこれを認めない」の箇所を、改正して、自衛隊の存在の現状、現実に合うように、改正すべきだ、いや、すべきでない、現行のままでいい、という激しい、国民的な議論です。
私、副島隆彦は、憲法9条改正反対 (改正阻止)の立場です。その方が、長い目で見て、騙されないで済むし、日本の若者たちを戦場で死なせなくて済む、という立場です。 「騙(だま)されてたまるか。民衆は、いつの時代も権力者たちや、外国の大きな力に騙されて、そして、ひどい目に遭ってきたから」という思想に立つからです。
ーーーーーーーーーーーーーーー
副島氏の立場は、鈴木邦男氏のような民族派左派のように思えます。私の考えは、現行憲法無効論で、憲法九条だけを変えるのは反対です。この考えは、副島氏の立場に一部似通っている部分があると思いますが・・・・・・。
鈴木邦男さんは、最近、ニューヨークへ赴かれて「憲法シンポジウム」に参加されて、アメリカの学者や映画監督、日本国憲法の起草メンバーの一人であるベアテ・シロタ・ゴードンさんなどと憲法論議をされたそうです。そのときの模様が、鈴木さんの
「今週の主張」に書かれています。アメリカの人たちは憲法九条を評価する人たちですから、日本でいえば左派のような考え方の立場でしょう。
鈴木さんは次のようなことを語っておられます。
ーーーーーーーーーーーーーーーーー
では、ニューヨークの話だ。初めの「7分間スピーチ」の時に、「この憲法は一度、見直すべきだ」と私は言った。他のパネラーや司会者は全員、護憲派だ。1対4だ。でも、自民党のような、ただ「現実に引き戻す」ためだけの改憲には反対だ。そうも言った。
60年前、この憲法を作った時は、それなりに理想や夢を持って作った。アメリカの押しつけだし、アメリカは日本で〈実験〉をしようとした。軍備のない〈平和国家〉を作ろうとした。「二度とアメリカに牙をむかないように」という意図はあっただろう。それと共に、もしかしたら、世界から軍備、戦争をなくせるかもしれない。そう思ったのではないか。ドイツ、イタリア、日本という「悪の枢軸国」が滅んだんだ。「戦争愛好国」がなくなったのだ。「平和勢力」が勝った。だからもう二度と戦争は起こらないし、軍備を捨ててもいい。もし紛争があっても国連が治めてくれる。
…そう思ったのだろう。そういう夢や理想を持てた時代だった。だから、まず日本に「平和憲法」を与えた。この「偉大な実験」にならって、世界も見習うだろう。そう思ったのだろう。
その現実や夢は分かる。だったら、アメリカ国民にもよく知らせ、納得させるべきだった。そして、「こんな素晴らしい実験をやった。よし、我が国も続こう!」と言えばよかった。少なくとも、核は廃棄しよう!そう言えばよかった。そうしたら、日本はこの「平和憲法」を素晴らしいものとして、永久に大事にしただろう。改憲運動なんか起きやしない。ところが、アメリカは強大な軍備を持ち、さらに拡張し、国連を無視して自国の利益を無理押ししている。これではいかんだろう。
それに、こんなに素晴らしい「平和憲法」だというが、じゃ、アメリカで知られているのか。世界中で知られているのか。シンポジウムの時に聞いてみたが、ほとんど知られてないという。
「いや、9条があるから、日本は軍隊を外国に出せない。立派なことだ、と支援している外国の人々が多い」と日本の左翼は言う。しかし、嘘だ。現実にはそんな声は、ほとんど聞かない。
もし、そんな声があるなら、「私たちが出来ない理想を日本は実現した。どんなことがあっても軍隊を持つな。改憲するな!」という声が全世界で起こるはずだ。「アメリカの最大のプレゼント=憲法を改正するなら、もう日本とは国交断絶だ!」とアメリカ中の人民が言ってもいい。「せっかく持っている平和主義の理想を捨てるなんて許せない。戦前の軍国主義に戻るのなら阻止する!経済封鎖だ!」
…という声が、アメリカだけでなく、世界に満ち満ちるはずだ。ところが、そんなことはない。当のアメリカでも、9条や日本国憲法は知られてない。これではいかんだろう。もしかしたら、日本に憲法があることもロクに知らんのじゃないだろうか。世界は日本の「夢」を知らない。「理想」を理解していない。 だからといって、日本が理想や夢を全て捨てていいとはならない。60年前は、理想や夢をもって憲法を作った。今、改憲するというのなら、それ以上の理想や夢があってやるべきだ。ないのならば、やっても仕方はない。又、自民党のような、理想や夢を忘れ、「現実」を追認するだけの改憲では意味がない。そう思う。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
鈴木さんのこの理想主義的な考え方は好きです。やはり、鈴木さんも生長の家の出身だけあって、どこかに、政治的な考え方を超えた、宗教的な理想が現れてきますね。まあ、そこに、理論的な荒さが出てきて、民族派陣営から批判されるのでしょうが、左の人たちとの論争を通じて、ご自分と相手の人たちとの違い、同じところもわかってきて、共闘できるところは共闘出来るし、共有できない考え方もある、という是々非々的なスタンスという柔軟な考えになってこられているようです。思想的にちょっとでも異なると、もうその人たちとは、絶縁してしまうというような硬直した姿勢はとらないということですね。学ぶべきところは学ぼうではないか、ということですね。私たちも、こういう寛容な心の養成は必要だと思います。このような相手の立場も認めていこうという寛容な柔軟な心、考え方こそが、この世界をより住みやすい世界にしていくことができるのではないかと思うのですけれども、なかなか人間は煩悩的な存在なだけに、どうしても暴力主義的になりやすい、ということでしょう。ブッダやキリストが現れて、三千年近く経とうとしているけれども、いまだに、世界から戦争が止む気配がない。いったい、これはどうしたことだろうか。生長の家創始者谷口雅春先生は、よく、こう言っておられたように思います。この地球上に生まれてくる魂というのは、ほとんどが、まだまだ霊的に幼い存在だから、この地球上で魂を磨く必要があるのだ。そのような霊的に幼い存在だから、そのような存在同士は、どうしても、ブッダのような非暴力的な高い境地に至ることはできない。だから、どうしても摩擦が起きるのだ。そのような経験を通して、霊的な学びが出来るのだ、そして、高い境地に達した魂は、もうこの地上には生まれてこない、特別な使命がある魂を除いては。・・・・・というようなことを語っておられたようです。なるほど、そういうことだろうな、と今現在も思っています。
鈴木さんは、「当のアメリカでも、9条や日本国憲法は知られてない。」と語っておられますが、アメリカでもこの九条の考え方に共鳴する人はいるんですね。大分前に、チャールズ M.オーバビー著『
対訳地球憲法第九条』(たちばな出版)というアメリカ人で九条に心酔している人の本を購入したことがあります。翻訳者は同時通訳でも有名な人である国弘正雄氏です。この人は憲法九条をアメリカの憲法にも採用すべきだと、アメリカ憲法修正案を提示しています。たしかに、アメリカがこの九条を採用すれば画期的なことでしょう。が、それは、まだまだ先のことでしょう。アメリカはいまだに銃規制もできない国であり、建国の精神は自分の身は自分の身で守るという考えであるので、憲法九条の思想はとてもではないが、想像もできない、というのがアメリカの現状ではないかなと思います。憲法九条の考え方にたどり着くには、幾多の修羅場を体験していかなければならないということでしょうか。
たしかに、この憲法九条の思想は革命的なものであり、理想主義的な人ほど、この思想に感銘を受けるのでしょう。
鈴木邦男さんは『天皇制の論じ方』(IPC)の中で、「・・・・しかし、一般の国民にしてみたらそんな国際政治の現実を憲法に書いてもらってもしかたがない。そう思うのではないだろうか。もっと夢や希望や、世界に対して指標になる理想を高らかにうたいあげるべきだ・・・・・・そういう思いがあるのではないだろうか。それがあるから、「押し付け論」や「現実論」でもってしても「平和憲法論」に勝てないのだろう。最近ではどうもそんな気がする。」と述べられているのを読んで、長年、民族派として憲法改正論を訴えてこられた人の諦念といったものを感じました。普通の国民にすれば、戦争など無いにこしたことはないし、もし起こったとしてもそれには巻き込まれたくない、というのが本音でしょう。こういう率直な本音に憲法九条は合致しているから、これは手放したくない、ということでしょうか。つまり、こういうことではないでしょうか。憲法九条は戦争廃絶という理想主義にも合致しているし、戦争は嫌いだという普通の人たちの気持ちにも答えてくれていると。だから、なかなか憲法九条改正は出来ないのでしょう。
この憲法九条の非暴力主義は確かに、仏教の非暴力を彷彿とさせる宗教的文書という感じですね。
この非暴力主義を盛り込んだ憲法で最も格調高い憲法は、やはり
「TIBET: A FUTURE VISION (チベット:未来へのヴィジョン) 」というチベット亡命政府のサンドン・リンポチェが書いた小冊子の中で政治理念が描かれている箇所ではないかと思っています。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
<政治について>
政治はいかなるものであるべきか。
まず、大事なのは、政治とは慈悲に導かれるものでなくてはならないということである。
仏陀の縁起の思想(一切のものは相互に深く関わり依存しあっているという哲学;相依生ともいう)から、一切の人は互いに無関心であってはならない、宇宙に生起するすべてのことに責任感をもたなくてはならないという理念が生まれる。
この理念を Universal Responsibility 宇宙的責任(人類各自が全世界に起こることに対して責任感をもつこと)という。
例えば地球の裏側で或る人々が苦しんでいるのは自分に全く関係のないことではない。因果の連鎖を見てゆくと、自分がその責任の一部を負っていることがわかる。
この宇宙的責任感から人は行動を起こさなくてはならない。人の不幸に無関心でありつづけることは許されない。
宇宙的責任感と慈悲の心とは表裏一体である。
慈悲とは「仲間の不幸を黙って見過ごせない気持ち」である。すべての人間が苦しむ生き物すべてに対して慈悲のこころを持たなくてはならない。
政治とは人々の慈悲の心によって、宇宙的責任感によって、指導され動かされるものでなくてはならない。
未来の政治は三つの主要な原則に支えられる:
1)真実
2)非暴力
3)真の民主主義
真実を歪めたり隠したりするような国家であってはならない。暴力を肯定するような国家であってはならない。真の民主主義が実現するような国家でなくてはならない。
政治の目的は、永遠の宇宙の法(ダルマ)に導かれて、公正で・人間的な暖かみのある・繁栄する社会を建設することにある。
理想の国チベットは、戦争に対して、平和のサンクチュアリー(保護区)でなくてはならない。
理想の国チベットは(唯物論的刹那的享楽主義つまり卑俗な物質主義に対して)精神主義 spirituality のサンクチュアリー(保護区)でなくてはならない。
理想の国チベットは、環境の清らかさのサンクチュアリー(保護区)でなくてはならない。
政治の目的は、そのような三重のサンクチュアリー(保護区)たる理想国家を作り、守ることにある。
政治の目的は、また、人間の永遠の理想である自由・平等・愛・美・慈悲・正義・非暴力・真実を体現する法律と体制を作り、守ることにある。
--------------------------------
やはり、憲法を創るなら、このような格調高い、読むだけで気持ちが引き締まってしまう(笑)理想主義的な文章でなければならないですね。