理念と方法論を備えた経済活動を駆使して、理想世界を創造する!!@和井恵流

世界を変えるのは、宗教活動などではなく、正しい理念と方法論を持った経済活動なのだ。

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釈尊は、何を教え、そして何を実践していたのか(・・? その②

2014年03月23日 22時49分53秒 | 釈尊は何を教えたのか?
 
  王子よ、そこで、私は、このように思いました。
  〈 過去のいかなる沙門、あるいはバラモンが、急激な烈しい苛酷な苦を感受したとしても、これこそ最高であり、これ以上のものはない。
  また、未来のいかなる沙門、あるいはバラモンが、急激な烈しい苛酷な苦を感受するにしても、これこそ最高であり、これ以上のものはない。
  また、現在のいかなる沙門、あるいはバラモンが、発奮による烈しい苛酷な苦を感受するにしても、これこそ最高であり、これ以上のものはない。
  しかし、この苛酷な難行によっても、私は人法を超えた 最勝智見 を得ることがない。覚りへの道が他にあるのではないか 〉 と。


  ( 片山一良・訳 中部経典85経「ボーディ王子経」 / 大蔵出版 以下同じ )


この「 最勝智見 」 とは 「 四聖諦 」 のことを指しているのですが、釈尊は、何故これを 最終目標 にしていたのでしょうか (・・?


  


例えば、ある 問題 を抱えていた人が、色々な 方法 ( メソッド・実践法 ) を試すことによって 「 求める結果 」 を得たとします。
── しかしそれは、喩えて言うならば、腹痛 で苦しむ人が、頭痛薬 や 心臓病などに効く 諸々の薬 を色々試した挙句、
たまたま運よく、偶然に、とても効果のある 「 胃腸薬 」 と出会うことが出来たただけのこと、なのかも知れないのです。
そしてその 効果 ( 結果 ) が、果たして一時的なものなのか、永続的なものなのかも、それだけでは知ることが出来ません。

  ※この「一時的な」とは、例えば「非想非非想処」への転生という遥かに長い生命を得たとしても「一時的」なのです。

だからこそ釈尊は、それらの 問題 を全て 解決 ( クリアー ) できるような本当の 「 最勝智見 」 を求めていたのです。


「 苦しみ 」「 苦しみの原因 」「 苦しみの消滅 」 とその 「 苦しみを消滅させる方法 」 という、四聖諦 を一言で表現するならば、
それは 「 苦しみが生起 ( 成立 ) する仕組み ( システム ) を、完全に証知 ( 把握・理解 ) する 」 と言うことが出来るのです。
これが解るならば、その 「 苦が生起する循環システム 」 を破壊して、二度と 「 苦が生起しなくなる 」 ようにすることも可能になるのです。

── これについて 経典 では、次のように 説示 されています。


  アッギヴェッサナよ、如来には、汚れのある、再生に導き、恐れを伴い、苦しみの果報のある、未来に生まれと老いと死のある、
  もろもろの煩悩が断たれ、根絶され、根底を失ったターラ樹のようにされ、存在しないものにされ、未来に生じないものにされています。
  たとえば、アッギヴェッサナよ、頂上を切られ、もはや成長することができないターラ樹のようなものです。
  ちょうどそのように、アッギヴェッサナよ、如来には、汚れのある、再生に導き、恐れを伴い、苦しみの果報のある、未来に生まれと老いと死のある、
  もろもろの煩悩が断たれ、根絶され、根底を失ったターラ樹のようにされ、存在しないものにされ、未来に生じないものにされています 」 と。


  ( 片山一良・訳 中部経典36経「大サッチャカ経」 P222 / 大蔵出版 ) 


例えば、いくら 「 雑草 」 を刈り取ったとしても 「 根 」 が残っているのならば、いずれ時と共に、再び 「 雑草 」 は生い茂ります。
しかし、その 「 根 ( 再生を促すシステム ) までをも 「 根腐れ ( 破壊・根絶 )にするならば、雑草は二度と再生しないのです。

そして、これと深く関わる 「 教え 」 が、あまり注目されていませんが 「 食 ( 四食・煩悩の存続を補給する行為 ) に関わる教えなのです。

  友らよ、聖なる弟子が、食を知り、食の生起を知り、
  食の滅尽を知り、食の滅尽に至る行道を知るとき、
  友らよ、これだけをもって、聖なる弟子は、正見ある者になり、その見は真直ぐになり、
  法に対して絶対的な信をそなえる者になり、この正法に到達する者になります。


  ( 中部経典9経 「正見経(正しく見る)」 )


── ふたたび、「 ボーディ王子経 」 に戻ります。


  すると、王子よ、その私にこのような思いが生じました。
  〈 しかし、私は、釈迦族の父が儀式を行なっているとき、涼しいジャンプ樹の木陰に坐り、もろもろの欲を確かに離れ、
  大まかな考察のある、細かな考察のある、遠離 から生じた喜びと楽のある、第一の禅に達して住んだことを憶えている。
  これこそが覚りへの道に違いない 〉 と。
  王子よ、その私に、〈 これこそが覚りへの道である 〉 との念に引き続いて意識が現われました。
  王子よ、そこで私はこのように思いました。
  〈 いったいなぜ私はその楽、すなわち、もろもろの欲の確かにない、もろもろの不善の法のない楽を恐れるのか 〉 と。
  王子よ、その私はこのように思いました。
  〈 私は、その楽、すなわち、もろもろの欲の確かにない、もろもろの不善の法のない楽を恐れない 〉 と。  

  王子よ、そこで、私はこのように思いました。
  〈 このように極度に痩せ細った身体では、その楽を得ることは容易ではない。
  私は、粗食として米飯・麦パンを摂ってみてはどうであろうか 〉 と。
  王子よ、そこで私は、粗食として米飯・麦パンを摂りました。

  王子よ、ちょうどそのとき、〈 沙門ゴータマは、法を証知したならば、われわれにそれを告げてくれるであろう 〉 ということで
  私に奉仕する五人の比丘衆がいました。しかし、王子よ、私が粗食として米飯・麦パンを摂ると、かれら五人の比丘衆は
  『 沙門ゴータマは贅沢で、精進を捨て、奢侈(しゃし)に流れている 』 と私を嫌い、去って行きました。

  王子よ、そこで私は、粗食を摂り、力を得ると、もろもろの欲を確かに離れ、
  大まかな考察のある、細かな考察のある、遠離 から生じた喜びと楽のある、第一の禅 に達して住みました。
  大まかな考察、細かな考察が消え、内心が清浄の、心の統一された、
  大まかな考察、細かな考察のない、心の安定より生じた喜びと楽のある、第二の禅 に達して住みました。
  喜びをまた離れていることから、平静をそなえ、念をそなえ、正知をそなえて住み、楽を身体で感じ、
  聖者たちが 『 平静をそなえ、念をそなえ、楽に住む 』 と語る、第三の禅 に達して住みました。
  楽を断ち、苦を断ち、以前にすでに喜びと憂いが消滅していることから、
  苦もなく楽もない、平静による念の清浄のある、第四の禅 に達して住みました。



これまでの プロセス を読んで解るように、釈尊は 「 四念処 」 ではなく、烈しい 「 苦行 」 によって自身の 「 五蓋 」 を滅したのです。
── しかし、釈尊が実践した 「 烈しい苦行 」 は、誰もがそれを真似できるような生易しいものではありませんでした。
ですから、「 最勝智見 ( 四聖諦 ) を覚った釈尊は、それよりも簡単で合理的な 「 四念処 」 を弟子たちに教えることにしたのです。
このような事情が掴めないと、ある経典では 苦行 を肯定し、また他の経典では 苦行 を否定しているということに矛盾を感じてしまい、
多くの人々の間で、苦行 への 「 賛否両論が争われる 」 という 愚かな議論 がいつまでも、果てしなく続くことになってしまうのです。





修行者が 「 苦もなく楽もない、平静による念の清浄のある、第四の禅 」 に達して、さらに 不苦不楽の境地 からも 離脱 するならば、
「 八正道 」 の修行は、「 貪 ( 楽受に付随 )「 瞋 ( 苦受に付随 )「 痴 ( 不苦不楽受に付随 ) を滅したことで終了します。

── しかし釈尊の場合は、「 八正道 」 を実践していたわけではありません。
何故ならば、八正道 に一番大切な 「 正見解 ( 四聖諦の理解 )「 正思惟 ( 如理作意 )二つ が欠落していたからです。
そして、これら 二つ ( = 最勝智見 ) を得るために、この後で実践した修行が 「 四如意足 ( 四神足 ) なのです。
そしてこの プロセス は、前回記事で紹介した 「 三つの喩え ( インスピレーション ) の内容にそのまま当てはまるのです。
つまり、「 濡れた木を乾かす 」 作業が 「 四禅定 」 までのプロセスで、「 乾いた木に火をつけて炎を出す 」 作業が 「 四如意足 」 なのです。

── これを、経典 を引用して、具体的に 説明 してみましょう。




「苦・楽・不苦不楽」の三つを離れ、消滅させ、静めると、心の平静さが残ります。


  さらに、残っているのは、心の平静さ ( 捨 ) である。
  それは、清らかで完全に浄化され、柔軟で、適応性があり、まばゆく輝くものである。
  
  例えば、比丘よ、
  熟練した金細工師あるいは金細工師の弟子が、溶炉を準備し、溶炉を準備した後で、
  坩堝 ( るつぼ ) に点火し、坩堝に点火した後、火箸で金をつかんで、坩堝に入れるとしよう。
  彼はときどき、それに風を吹き送ったり、水を振りかけたり、それを観察したりするだろう。
  その金は、よく吹かれ、十分に吹き溶かされて、浄らかな、汚れのない、
  不純物の取り除かれた、柔軟で、細工しやすい、まばゆく輝く金となる。

  人が欲しいと思う様々な装飾品、例えば、腕輪や、イヤリング、
  ネックレス、金の花輪など、そのどれを作ろうとしても、よくその目的に適う。
  ちょうどそのように、比丘よ、残っている心の平静さは、
  清らかで完全に浄化され、柔軟で、適応性があり、まばゆく輝くものである。


  ( 中部経典140経 「 界分別経 」 )


その 「 心の平静さ 」 は、清らかで完全に浄化され、柔軟で、適応性があり、眩く輝く 「金 」 として喩えられます。

良く精錬された 「 金 」 は、人が欲しいと思う様々な装飾品、例えば、腕輪や、イヤリング、ネックレス、金の花輪など、
そのどれを作ろうとしても、良くその目的に適う、不純物の取り除かれた、柔軟で、細工しやすい 「 材料・材質 」 になります。

「 心の平静さ 」 もまた、不純物が完全に取り除かれた、柔軟で、細工しやすい金のような、まばゆく輝くものになるのです。

そして、これと同じ内容を 別の経典 説明 で説示すると、次のようになるのです。


  比丘たちよ、誰であれ、身に至る念が修習され、復習されている場合、
  通智による現証のために、それぞれの通智による現証可能な法に心が傾くならば、
  かれはそれぞれの所において、念の処があるとき、目のあたりに見ることができる状態に達します。

  比丘たちよ、たとえば、水瓶が台の上に置かれており、水が縁まで等しく、鳥が飲めるほどに満ちているとします。
  そこで、力のある男性がそれぞれの所から揺り動かすとした場合、水は溢れ出るでしょうか 」
  「 はい、尊師よ 」
  「 比丘たちよ、ちょうどそのように、誰であれ、身に至る念が修習され、復習されている場合、
  通智による現証のために、それぞれの通智による現証可能な法に心が傾くならば、
  かれはそれぞれの所において、念の処があるとき、目のあたりに見ることができる状態に達します。

  比丘たちよ、たとえば、平らな地域に、四角い蓮池があり、堤防が結ばれ、水が縁まで等しく、鳥が飲めるほどに満ちているとします。
  そこで、力のある男性がそれぞれの所から堤防を解き放つとした場合、水は溢れ出るでしょうか 」
  「 はい、尊師よ 」
  「 比丘たちよ、ちょうどそのように、誰であれ、身に至る念が修習され、復習されている場合、
  通智による現証のために、それぞれの通智による現証可能な法に心が傾くならば、
  かれはそれぞれの所において、念の処があるとき、目のあたりに見ることができる状態に達します。

  比丘たちよ、たとえば、平坦な地の四大路によく訓練された車が用意され、鞭が置かれ、止まっているとし、
  そこで、熟練した馬術師である馬の調御師が乗り、左手に手綱をもち、右手に鞭を持って、
  望むところから望むところへ往かせたり、還らせたりするようなものです。
  比丘たちよ、ちょうどそのように、誰であれ、身に至る念が修習され、復習されている場合、
  通智による現証のために、それぞれの通智による現証可能な法に心が傾くならば、
  かれはそれぞれの所において、念の処があるとき、目のあたりに見ることができる状態に達します。


  ( 片山一良・訳 中部経典119経 「身至念経」 / 大蔵出版 )


わたしが調べた限りでは、「 四如意足 」原理 について具体的に 説明 している経典は、この経典だけになります。


















































〈 編集中、まだ続きます。 〉















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