ニルヴァーナへの道

究極の悟りを求めて

古本探索

2008-01-30 19:33:44 | 




この前の日曜日、久しぶりに愛車オプティーで(笑)、自宅から100キロほど離れている町へ古本探索に出かけた。
半分ほどの距離が海岸線を走るので、海の眺めもなんともいえず気分転換になりますね。
この海岸線を走るときは、米軍放送のAFNが入るので、それをずっと聴いている。
最近は、大統領予備選挙のニュースがメインだ。
ヒラリーとオバマの戦いだが、さて、どちらが、民主党の代表候補となるのだろうか。
共和党はどうもパットした人がいませんねえ。
ハッカビーなんていいと思うんですが・・・・。
やはりなんといっても、アメリカの最近のヒット曲や過去のヒットした曲を聴きながらドライブするというのはわたしにとっては至福の時だ。

ネット上で古本を探すのもいいが、やはり、古書店巡りも、いいものだ。
それぞれの古書店には、独特の雰囲気があり、その雰囲気に触れるだけでも、古書店を訪れた甲斐があったというべきではなかろうか。
ネット上では味わえない雰囲気や感覚を味わえるということですね。

主なものとして、

中沢新一著「虹の理論」(新潮社)
沼田建哉著「宗教と科学のネオパラダイムーー新新宗教を中心としてーー」(創元社)
岸根卓郎著「宇宙の意思」(東洋経済新報社)
コリンウィルソン著「世界超能力百科上、下」(青土社)
中村元著「インド人の思惟方法」(春秋社)

などを買ってきた。
中沢さんの「虹の理論」は、吉本隆明さんの本の中で、この本はオウム信者のバイブル的存在であると語っていたので、オウム問題に関心を持っている者として、今回購入したわけです。まだ読んでいません。これから読んでみます。
沼田さんの本は本屋で立ち読みしたことがあったが、ちょっと高かったので買わなかったが、今回、案外安かったので、宗教学者が新新宗教をどのように描いているのか、じっくりと読んでみようと考えて購入しました。取り上げている教団は、ESP科学研究所、白光真宏会、GLA、幸福の科学、コスモメイト、大山ねず命神示教会、真如苑、などです。最近、島田裕巳さんの「日本の10大新宗教」が、爆発的に売れているようなので、沼田さんと島田さんの描き方、分析の仕方の差異などにも興味があったからです。どうして、沼田さんの本はそんなに売れなくて、島田さんの本は売れるのか。まあ、島田さんのほうは新書であるので手軽に買えるということもあるのでしょうが、最近の読者は耐久力がなくなったのか、あまり長くて、ちょっと難しい感じがするものは敬遠するためでしょうか。島田さんの本は忙しい現代人にとって対象の教団の特徴、問題点が一読で理解できるように簡潔に描いていますから、売れるのでしょう。この買わせる技術というものは、オウム真理教や創価学会などの問題宗教を根本から分析するなかで磨かれてきたのではないかなと思っています。それとやはり、取り上げる対象の違いということもあるのでしょう。新新宗教は話題になることはあるが、そんなに日本には根付いてはいないということか。新宗教はその点、規模も大きいですし、日本の土壌に着実に根を下ろしているという感じがする。あと、この本の中に取り上げられた10大新宗教に関係しているか、興味のある人はどうしても中身が知りたいですから、買うのかも知れません。
岸根さんの本はかなり分厚いです。かつて岸根さんの「文明論」という本は、オウムの青山弁護士の本の中でも紹介されていて、記憶に残っていました(笑)。
コリンウィルソンの翻訳本はかなり高いので、買いそびれていたものがかなりあるが、今回、そんなに高くなかったし、本がきれいだったので、躊躇なく買ったというわけです。
中村元先生の本、はインド哲学に興味を持つ者として、できるだけ手元に揃えたいと思っています。

この時期は一番寒い時ですので、読者の皆さんも体調にはくれぐれも気をつけてください。このエントリーの最後に「冬のリヴィエラ」を貼り付けておきます。この歌でも聞きながら、夜は暖かくして、ゆっくりお休み下さいませ。

Mori Shinichi - Fuyuno Riviera 冬のリヴィエラ






ケイティ・メルアが歌う「風に吹かれて」

2008-01-20 12:32:16 | 英語




「今、世界をいやせるのは、この歌詞で、この歌声かもしれない。」
そんな思いにさせてくれたのが、グルジア出身のイギリスのアーティスト、ケイティ・メルアが歌う、ボブ・ディランの不朽の名曲「風に吹かれて」です。最近、ユーチューブで見つけて、暇があれば聞いています。さすがに、何か、心の深くにまで響いてきて、訴えかけるものがありますね。ジョン・レノンのイマジンもいいが、このケイティ・メルアの「風に吹かれて」もいいです。

Katie Melua singt blowing in the wind (von Bob Dylan)



How many roads must a man walk down
Before you can call him a man?
Yes, 'n' how many seas must a white dove sail
Before she sleeps in the sand?
Yes, 'n' how many times must the cannon balls fly
Before they're forever banned?

どれだけ道を歩いたら
人間と呼ばれるのだろう

いくつの海を渡ったら
白いハトは砂浜で休めるのだろう

どれだけ弾丸が飛んだら
闘いは永遠に終わるのだろう

The answer, my friend, is blowin' in the blowing,
The answer is blowin' in the wind.

友よ、答えは舞う風の中
答えは風に舞っている

Yes 'n' how many times must a man look up
Before he can see the sky?
Yes, 'n' how many ears must one man have
Before he can hear people cry?
Yes, 'n' how many deaths will it take till he knows
That too many people have died?

幾度見あげたら
青空が見えるのだろう

どれだけ耳があったなら彼らに
人々のすすり泣きが聞こえるのだろう

どれだけ人が死んだら、もうたくさんだと
分かるのだろう

The answer, my friend, is blowin' in the blowing,
The answer is blowin' in the wind.

友よ、答えは、舞う風の中
答えは風に舞っている

How many years can a mountain exist
Before it's washed to the sea?
Yes, 'n' how many years can some people exist
Before they're allowed to be free?
Yes, 'n' how many times can a man turn his head,
Pretending he just doesn't see?

どれだけ山は海に押し流されずに
いるのだろう

どれだけ人は自由を奪われたまま
生きることができるのだろう

どれだけ人は顔を背け
見て見ぬ振りをできるのだろう

The answer, my friend, is blowin' in the blowing,
The answer is blowin' in the wind.

友よ、答えは、舞う風の中
答えは風に舞っている

The answer, my friend, is blowin' in the blowing,
The answer is blowin' in the wind.

友よ、答えは、舞う風の中
答えは風に舞っている










江川紹子さんの「オウム事件はなぜ起きたか 魂の虜囚上、下」(新風舎文庫)を読む(1)

2008-01-13 16:53:26 | 






最近、江川さんのオウム裁判傍聴記を文庫版で読んだので、この本に触発されて、オウムなどいろいろ読みながら感じたことなど、気楽に書いてみたいと思います。
江川さんは、オウムウォッチャーとして有名である。タイム誌の1997年5月の日本特集号においても、「日本の未来の顔」の一人として選ばれている。
わたしが江川さんの本で最初に読んだのが、「救世主の野望」(教育資料出版会)であった。
そのころ、1992年ごろ、ある大学の学園祭でオウムの講演会が開催されることを知った。
その当時、その大学の近くに住んでおり、大学祭を見物にいったというわけである。
オウムはそのときまで、テレビの報道だけでしか知らず、あまりいい印象はなかった。
特に、坂本弁護士一家失踪事件が解決されておらず、オウムが犯人ではないのか、という思いを多くの人が持っていたのではないかと思う。
わたしも、オウムが犯人だとしたら、恐いな、という思いを持っていた。
しかし、1991年の朝ナマで幸福の科学と宗教討論会をやり、案外まともなことを語っていたので、関心はあった。
特に、上祐氏の語り口には、何か、日本人離れした論理性を感じた。
あとで分かったことだが、上祐氏は大学時代、今脳機能学者として有名になっている苫米地氏からディベートの指導を受けていたということだ。

そのとき、はじめてオウム教祖を間近で見たのであるが、第一印象はかなり太っているなあ、という感じだった。
宗教家という感じはしなかった。
その講演会で、教祖は1997年ハルマゲドン説をぶち上げた。
宗教家生命をかけるとも言っていた。
そのころは、まだまだ、ノストラダムスの大予言が影響力を持っており、ノストラダムスは1999年に大いなる艱難が人類に降りかかると予言していると五島勉氏らが、盛んに恐怖心を振りまいていた。
わたしも、五島氏の予言の本は出版されるたびに買い求め、ノストラダムスの予言は、ひょっとしたら当たるのではないか、という気持ちもないではなかった。しかし、それも、確固とした確信ではなく、心の奥深くにかすかにくすぶっていたという程度ではあるが・・・・。

それで、大学の講演会で教祖のハッキリとハルマゲドンの時期を確定した講演を聞いたとき、うーーん、教祖はまた思い切ったことを言うもんだなあ。
ほんまに、そんなヴィジョンを見たのかいな、それが当たるとしたら凄いし、恐いな、という思いも湧いてきた。
が、やっぱり、まあ、何というのか、宗教家特有の教祖のハッタリだろうな、と思い直すのであった(笑)。
その講演会で直接オウム信者と接したのであるが、案外、外部の人間とも冷静に論理的に会話ができるな、という感じを持った。
そんなに悪い印象ではなかった。
第一印象は良かったのである。
それで、オウムに興味関心が湧いてきて、その会場でもらった本、機関誌などを読み始めたのであった。
この教団の特徴は瞑想などの修行を全面的に打ち出していることだった。
結果の出ない宗教などやってもしかたがないではないかというのだ。
これは確かに訴えかけるものを持っている。
そして、人生の目標として、ハッキリと解脱悟りを置いていた。
こういう教団は初めて見た。
ハッと目が覚める思いがした。
現代日本人の平均的な考え方とはかなり異なる。
人間はいつかは必ず死ぬのであるから、死後も持っていくことができるものを身につけるほうが、価値があるのだ、というスタンスなのである。
たしかに、この姿勢は輪廻転生を前提とした場合、論理的だし正しいと思う。
随分、マスコミの報道とは違うなと思った。
そして、もう一つのこの教団の売りとして、自分たちは仏教の本当の教えを現代に甦らせているのだ、という主張であった。
わたしには、こちらのほうに魅力を感じたものだ。
それ以前に、阿含宗の桐山靖雄氏の本で日本仏教の堕落した姿に絶望的な感じを抱くようになっていたので、このオウムの正統的な仏教開祖ブッダの教えを求めていくのだという姿勢に大いなる共感を抱いた。

オウムは、また、布教活動の一環として、ロシアから日本向けのために日本語放送を、世界に向けて英語放送を行っていた。
わたしは、このオウムのラジオの宗教放送が面白くてたまらなかった。
教祖の説法も面白かったし、カンカーレーヴァタ師(杉浦実氏)のステップアップ真理というコーナーは、仏教の基本的な教義を実に分かりやすく説いていると思ったし、信者の体験談やオウムの音楽などもあり、いろいろバラエティーに富んでいて、三時間はそんなに長くは感じなかった。このときに録音しているテープはいまも持っている。

その講演会のときに、こちらの住所を教えていたので、道場から、近くで行われる説法会の案内が来たとき、好奇心から説法会にも行った。当然、入信を勧められたが、丁重にお断りした。その理由の一つとして、教団の本と同時に、江川紹子さんの「救世主の野望」という本も読み始めており、この本により、こちらが信者に接して受けた印象とはかなり違うので、おやおや、教団の実態とは、そんなにキレイナものではないな、と思い始めていたからである。やはり、外部の人間には、教団の内部の実態は、元信者などに取材しているジャーナリストなどの本も読まなければ分からないな、と思った。入信はしなかったが、ラジオ放送を聞いたり、オウムの本を読むことは続けていた。大体1993年はそんな感じだったが、1994年になると、ラジオは聞かなくなったが、オウムの本では、教団が出していたヴァジラヤーナサッチャという一般向けの雑誌を読んでいた。それは、宗教書というよりかなり時事的な、政治的な問題が語られていた。そんな時に起こったのが地下鉄サリン事件だった。1995年3月22日の強制捜査の模様がテレビ中継されていたとき、ヘリコプターから、教団の第七サティアンが映されたとき、ああ、そうだったのか、教団が警告を発していたハルマゲドンとは、自分たちでサリンを作って、それで自分たちが発火点となって、引き起こそうとしていたものだったのか、と、直観的に思った。この直観は事件の本質をかなり深く衝いているのではないかと今でも思っている。
(続きます)


宮元啓一先生のインド哲学五部作

2008-01-10 13:41:04 | インド哲学



宮元啓一先生の掲示板によれば、
インド哲学者の宮元啓一先生の本が、今年の前半に五冊でるそうです。
インド哲学五部作ということだそうです。

2月の上旬に『インド人の考えたこと----インド哲学思想史講義』
3月には『インドの「一元論哲学」を読む----シャンカラ『ウパデーシャサーハスリー散文篇』』
続いては『インドの「二元論哲学」を読む----イーシュヴァラクリシュナ『サーンキヤ・カーリカー』』、
『インドの「多元論哲学」を読む----プラシャスタパーダ『パダールタダルマ・サングラハ』』、
『インド哲学の教室----哲学することの試み』

がすべて春秋社から出版されるそうです。

インド哲学に興味を持ち出したのは、オウムの本を読み始めてからでした。
それまでは、まったくといっていいほどインド哲学には興味は湧かなかったですね。
仏教関係の本は読んでいましたが。
まあ、仏教もインド哲学の中に含まれるのですが・・・・。
仏教以外のインド哲学全般には興味は湧かなかったということです。
しかし、オウムの本を読み始めてから、俄然、インド哲学に興味が出てきた(笑)。
やはり、サーンキヤ的な真我論がオウムの本の中で論じられていたからではないかなと思っています。
オウムの説法によって、頭の中がインド哲学を受け入れる環境ーーインド哲学モードーーになってきたのでしょう。
かつて、鈴木邦男さんは、本格的な活字の読書をする前の準備体操として、マンガを読むのだ、と語っていたときがありました。
オウムの本も、鈴木邦男さんの言葉を借りていえば、本格的なインド哲学の世界へ没入するための準備体操としての刺激剤、あるいは触媒の役割を果たしていたのかもしれません。
そういう意味では、オウムに感謝ですかね。

宮元先生の今年前半に出るインド哲学の本のなかで、最も興味があるのは、やはり、インドの二元論哲学サーンキヤ・カーリカーをどのように解釈しているのかな、というところですね。
サーンキヤ哲学の解脱論は非常に面白い。
本来、プルシャは独存の状態にあった。
しかし、何かの原因によって、プルシャ(真我)は、物質原理であるプラクリティーが開展したところの現象世界に魅惑されて、この現象世界に巻き込まれて輪廻転生を続けている。
それが、現実のわれわれの姿というわけですね。
しかし、正しい知識によって、プルシャが自分自身の本来の姿を見出すとき、そのとき、その「正しい知識」によって解脱するというのです。
わたしが、サーンキヤ哲学に惹かれるところが、まさに、ここなんです。

中村元先生の「ヨーガとサーンキヤの思想」(春秋社)という本中では、次のように訳されています。





「この清浄な純粋の知によって、(根源的思惟機能・自我意識などの諸原理を)生み出すことを停止し、目的の力によって、七つのすがたを停止した根本原質を、プルシャは、安住し、寛いで、観覧者のごとくに眺める。
一方のもの(プルシャ)は、「わたしは見た」といって無関心となる。
他のもの(根本原質)は、「わたしは見られた」、と思って活動を休止する。
たとえ両者が結びつくことがあったとしても、これからさらに世界創造をなすための動機は存在しない。
完全知を証得することによって、功徳などがもはや原因として作用することがなくなったときにも、潜勢力(業の力)によって、なお身体を持続する。ーーあたかも陶工の輪が材料としての粘土を取り去ったあとでも回転し続けるように。
身体が壊滅したときに、目的がすでに達成されたのであるから、根本原質は活動を休止する。
そのときに、プルシャは確定的であり、また究極的であるという両者の特質をそなえた独存(kaivalya=解脱)を達成する。」


この箇所は、何回読んでも、感銘を受けます。
プルシャ側の、「無関心」、ここらあたりが、解脱のキーポイントでしょうか・・・・・。

ところで、バグワン・シュリ・ラジニーシ(OSHO)は、「瞑想」(めるくまーる)の中で、サーンキヤについて語っているところがありますので、ここに紹介しておきます。さすが、和尚、なかなか鋭い。



「実際、この世には宗教はただ二つしかない。ヨーガとサーンキヤだ。しかしサーンキヤはごくたまに少数の人たちの興味しかひかなかった。だから、あまり多く語られることはない。クリシュナムルティが新しく独創的にみえるのはそのためだ。が、彼はべつに独創的ではない。サーンキヤがあまり知られていないからそうみえるだけのことだ。
 ヨーガだけが知られている。世界中にヨーガのアシュラムやトレーニング・センターがあり、ヨーガ行者たちがいる。努力の伝統たるヨーガは知られている。一方、サーンキヤは全然知られていない。クリシュナムルティは新しい言葉などただの一言も言ってはいない。だが、私たちが、サーンキヤの伝統になじんでいないためにそれは新しくみえる。私たちのおめでたい無知のおかげで「革命家」が存在しているという次第だ。
 サーンキヤ(Samkhya)というのは、<知>のこと。知ることだ。サーンキヤはこう言う、
「知ることだけで充分。覚醒だけでことは足りる。」
 しかし、これら二つの伝統はまさに弁証法的なのだ。私にとってそれらは対立するものではない。私にとってはそれらは弁証法的で、「統合」が可能なものだ。その「統合」を私は「努力を通しての無努力」と呼ぶ。サーンキヤを通してのヨーガ、ヨーガを通してのサーンキヤ、行為を通しての無為だ。現代ではこれら二つの対極、弁証法的伝統はそれぞれひとつだけでは役に立たない。あなたはサーンキヤを達成するためにヨーガを活用することができる。そして、サーンキヤを達成するためにはヨーガを活用しなければならないのだ。」

なるほど、クリシュナムルティーはサーンキヤを語っていたのか・・・・・。いまも、精神世界に大きな影響力を持ち、たくさんの信奉者を抱えているクリシュナムルティー。彼は、サーンキヤの哲学を現代的にアレンジにして語っていたというわけですか。それであれだけの影響力を及ぼすことができるのか。人間の精神の深層に訴えかける思想、哲学というものの力を再認識した思いです。
そしてまたなるほどなあー、と思ったのは、サーンキヤだけでは駄目だ、と語っているところですね。さすが、和尚と呼ばれるだけのことはある(笑)。サーンキヤとヨーガを二つ取り入れなければ独存へは至らないということですね。哲学的思索と瞑想の二つが独存への道には、必要不可欠だということですね。

宮元先生は、掲示板で、

「わたくしは自己(アートマン、プルシャ、self)の実在を確信しておりますので、自己の実在をかたくなに拒否されておられる方々(無我説肯定論者)には以上の書籍はお薦めいたしません」

と書かれていますが、わたしの立場は、宮元先生とは、ちょっと違うかな、と思っています。
現在、ロバート・サーマン教授の本にかなり影響を受けており、仏教的な考え方になっています。

【手軽に入手できるインド哲学参考書】

このブログを読んでいただいている方の中には、インド哲学にはあまりなじみがないが、もっと学んでみたいと思われる人もおられるのではないかと思い、その方々ののために、分かりやすい参考書を紹介させてきらいます。

「はじめてのインド哲学」立川武蔵著(講談社現代新書)




わたしがはじめて読んだインド哲学入門書です。
インド哲学の源泉であるヴェーダとウパニシャッドの世界から、仏教誕生を経て、インド哲学の主要学派であるインド六派哲学の出現、そして大乗仏教、密教までの、それぞれの学派の理論の基本的考え方を、非常に分かりやすく、懇切丁寧に教示してくれている。インド思想、哲学の中で、仏教はどのような位置を占めているのか、又、他のインド哲学諸派との思想的差異などが説明されており、仏教をインド哲学全体の中で眺めることができる。
現在でも、インド哲学の入門書として、第一位に挙げたい。
この本は、以前やっていた掲示板で、インド哲学の参考書として紹介したとき、その当時掲示板に書き込んでくれていたオリーブの栄光さんから感謝された本でもあるのです(笑)。

「ヨーガの哲学」立川武蔵著(講談社現代新書)




著者の立川先生は、アメリカ留学中にヨーガの魅力に目覚められ、帰国してから、エリアーデの「ヨーガ」(せりか書房)を翻訳された。
この本の中で、古典ヨーガの考え方、世界観、そして目的や、この思想的背景ともいうべきサーンキヤ哲学の理論を解説している。さらに、古典ヨーガの根本経典である「ヨーガ・スートラ」の哲学を解説している。そして、現在のヨーガブームの背景になっている、心の統御よりもむしろ身体の統御をメインにおいているハタ・ヨーガの基本的な考え方や行法を解説している。最後に、ヨーガの起源からはじまって、初期仏教への影響など、歴史的な思想的展開を描いている。ヨーガ学派の思想や基本的な行法を学ぶことができる。
わたしはこの本によって、サーンキヤ哲学とヨーガ学派との関係をかなり詳しく知ることができた。

それでは、最後に、かつて和尚の弟子(サニヤシン)となったこともある喜納昌吉さんの代表曲である「花~すべての人の心に花を~」を貼り付けておきます。わたしの好きな曲です。

夏川りみ - 花(すべての人の心に花を)







福田恒存

2008-01-05 14:38:42 | 
宮崎正弘さんが、メールマガジンで、福田恒存(つねあり)の思い出を語っています。わたしもかつて、福田さんの文章(特に文芸春秋社から出ていた「人と思想」シリーズの「日本を思ふ」という本)には大きな影響を受けたものの一人として、大いなる共感をもって読ませてもらいました。
福田さんの、憲法論、防衛論、国語論、日本文化論などは、現在も、わたしの考え方の根本にあるのではいないかな、と思っています。福田さんの「私の国語教室」(新潮文庫)に感化されて、歴史的かな使いで文章を書いていた時がありました。いまは、もうそんな純粋な情熱は消え失せてしまいましたが(苦笑)。
特に印象に残っているのは、文芸春秋誌で、ニューズウィークの韓国報道を批判しながら、アメリカのアジアの文化に対する無知、傲慢さを批判していた記事です。福田さんの文化問題に対しての鋭敏な感受性を感じたものです。異文化間の双方が共に利益になる付き合いがいかにむずかしいか、痛烈に認識させられた文章でした。福田さんはこの批判の記事を日→英の翻訳の専門家に翻訳してもらって、ニューズウィーク編集部へ送付したとのこと。その熱意にも感銘を受けたものでした。従軍慰安婦問題に対するアメリカ的な固定観念も、アメリカの他国の文化への無知、傲慢さから来ているのではないか。この無知、傲慢さを変えるのは、なかなかむずかしい。
が、放っといていいものではないだろう。こういう時にーー日本の立場の正当性を説得力をもって主張できる自国の文化に対する深い信頼と理解を備えた日本人の出現が必要な時ーーこそ、福田恒存が、再び読まれるべき時ではないか、と思う今日この頃です。

◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆

http://www.melma.com/backnumber_45206/

「宮崎正弘の国際ニュース・早読み」 
平成20年(2008年) 1月5日(土曜日) 
通巻第2045号   新年特大号第3弾
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(((((( 今週の書棚 )))))))


 虚妄の平和主義や似非ナショナリズムが徘徊した時代と戦った知識人
  狷介孤高、反近代の思想家・福田恒存が鮮烈に蘇った

   ♪
福田恒存『福田恒存評論集 8』(麗澤大学出版会)
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  □
 福田恒存という思想家は「偉大なる常識家」である。
したがって常識が通用しない時代に重宝されたのは当然だったにしても、ますます常識を失った現代日本において、ますます貴重な存在として輝き続けるのである。
ちょうど評者(宮崎)は学生時代だった。
 本書に収められた評論の数々(ほぼすべての論文が昭和四十年から四十五年)を私は当時、夢中で読んだ記憶がある。学生運動真っ盛りの頃である。
 慶応、早稲田に端を発した大学紛争は、暴力的になって日夜激化し、昭和四十五年に赤軍派ハイジャックと三島事件へといたる。日本が騒然としていた。
 大学は荒廃し、教育が歪曲され、価値紊乱が方々で起きていた。福田は常識の回復を訴えていた。
 夢中で読んで、福田氏に講演に来てもらったことも数度。電話での長話も経験した。最初に講演を依頼したのは昭和四十二年だった。「戦後日本の知的退廃」とかの演題だった。
 感動したのは学生新聞の編集者風情を一個の大人として扱ってくれたことだった。
 このたび福田恒存評論集に改められると、私はどうしてもあの時代の感傷にまず浸ってしまう。
左翼学生運動も論争も激動だった時代が、つい昨日のように脳裏に蘇るからである。

 たとえば昭和四十四年の『諸君!』創刊号に福田氏は次のように書いた。
 「大方の日本人は大東亜戦争の敗北によって『醜の御楯(しこのみたて)』としての生ける目標を失った。が、それを失うより早く手に入れた生き甲斐は戦争犯罪に対する懺悔の心であり、贖罪意識である。(中略)生き甲斐のごとき本質的な事柄において日本人の関心を引くのは、つねに心懸けであって行為ではなく、意であって形ではない」
 「必要なのは心の拠り所であり、それはすべて平和憲法に預けた格好になった。これは二重の皮肉である。第一に罪悪感という消極的な概念に生き甲斐を求めた事であり、第二にそれを積極的に誇りに転用したことである」(本評論集304p)。

 『平和憲法』なるものを後生大事な経典とした知識人は偽者だと皮肉っているのである。

 また福田恒存氏氏はこうも書かれた。
 「私はこの平和という名の武器の威力を信じます。隋って平和主義や中立主義を非現実的な観念論となし、その不可能を説く私を目して現実主義を言うのは当たらない。なるほど私も平和主義や中立主義の非現実性を非難して参りました。しかし、それが実際に非現実的で無効化ならば、わざわざ反対する必要はない」(中略)
 「平和という名の美しい花を咲かせた日本の薔薇造りは、そのヒューマニズムという根がいつの間にかエゴイズムという蟲にやられている事に、果たして気づいているかどうか。そのけちくさい、ちっぽけな個人的エゴイズムに目をふさぎ、今度は同じヒューマニズムの台木にナショナリズムを接木して、平和と二種咲き分けの妙技を発揮しようとしている」
 「ナショナリズムを口にする者が本当に日本民族の自覚を持っているのか」(中略)「ヴェトナムの民族主義を理解し得る様な口吻を進歩的知識人の言動に感じるとき、私は文字通り呆れ返ってものが言えなくなる」(初出は読売新聞、昭和四十年六月八日。本評論集、132p-133p)。

 「べ平連」なる似非知識人と付和雷同の学生らの団体が結成される直前に、はやくも似非平和主義の方向を予知し、批判しているのだ。

 昭和四十年代初頭、論壇は左傾化が激しかったが、その分、保守派文化人も『自由』や『文藝春秋』で健筆を振るっていた。『諸君』も『正論』も『ボイス』も創刊されていなかった。『サピオ』も『月刊日本』も、『WILL』もなかった。
思想界では一方に林房雄、保田與重郎がいた。岡潔がいた。林の『大東亜戦争肯定論』は民族派のバイブルだった。
三島由紀夫が『英霊の声』、『喜びの琴』などを書いて保守陣営に飛び込んできたのも、この時代だった。いきなり福田の大常識を飛び越えた保守論壇に加わってきたのだ。
 体制派御用の論客には猪木正道がいて、高坂正尭が登場したばかりだった。永井陽之助がデビューしてきた。
 保守の伝統的な論客らはミニコミ誌で活躍していた。竹山道雄や会田雄次が大車輪の活躍をする直前であった。福田は保守論壇のチャンピオンとして、その発言が逐一注目されていた。


  ▲「正気の狂気」が三島なら、福田は「狷介孤高」の士

 『論語』によれば、知識人には「狂」と「狷」がある。
 「子路第十三」に「子曰く 中行を得て之に与せずんば、必ずや狂狷か。狂者は進みて取り、狷者は為さざる所有るなり」。
 「狷介孤高」の士とは仕事がなかなかしにくく、狂の人は他人がしないことを率先して突っ走るという意味である。要は行動するか、評論に徹するか。
 山県有朋は青年時代を「狂介」と号した。陸奥宗光の号は「六石狂夫」である。
 吉田松陰も西郷隆盛も、そして三島由紀夫も「狂」の部類であろう。
 「狷者」なら岡潔も、板垣退助もそうだろう。そして、私は福田恒存を「狷」のほうに分類してしまう。
 三島事件が起きたときに林房雄は「正気の狂気」と比喩して三島の行為を分析した。
「狷」のほうの福田は「わからない。わからない。私には永遠にわからない」という名文句を吐いて、以後、三島事件に関する論評を一切行わずに沈黙した。
かわりに江藤淳が猪口才なことを言い募ったが、小林秀雄に叱責されたものだった。

 福田恒存の評論集は、一度文藝春秋から出た。
昨年から全十二巻の新装版として、麗澤大学出版会から刊行が始まった。
その第一巻は教育論、国語論、祝祭日、憲法論などが選ばれているが、最後に珍しく「乃木将軍と旅順攻略戦」が挿入されている。
 乃木将軍を無能と断じた司馬遼太郎への鋭角的批判であり、これを書かれたのが三島事件直前であったことも何かを象徴している。
司馬の“乱世史観”なる似非歴史分析を透視して、『合鍵を持った歴史観』と木っ端微塵に打ちのめした。
 いずれの文章も想い出が深く、あの時代と自然に重複してしまう。

    ○○ ○○○ ○○○ ○○○   ◎◎◎
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新年あけましておめでとうございます

2008-01-01 00:27:46 | 英語
今年が、このブログにアクセスしてくださっている方々にとって、最良の年となりますよう、祈り申し上げます。
新年にあたり、皆様方の夢が実現されますよう、そして、わたし自身の夢を実現させるべく、セリーヌ・ディオンの「The Power of The Dream」をこのブログに貼り付けさせてもらいます。
このセリーヌ・ディオンの歌は、アトランタオリンピックの開会式のセレモニーで、わたしも聞きましたが、非常に感動しました。この感動はいまだに消えないですね。そして、この歌詞の内容も非常に素晴らしい(英語の歌詞と共に拙訳も載せていますので、参考にしてください)。この感動をこのログにアクセスしていただいている方々と共に分かち合いたいと思いまして、幸いに、ユーチューブにアップされているので、ここに紹介させてもらいました。皆様も是非、セリーヌ・ディオンのパフォーマンスからパワーをもらってほしいと願っています。

又、わたしの宗教上の「尊師」ともいうべき、生長の家の創始者谷口雅春先生の夢に関する「夢を描け」という詩も、この機会に、紹介させてもらいます。セリーヌ・ディオンの歌を聴きながら、この「夢を描け」という詩を読むのもいいかもしれません。

Celine Dion - Power of the Dream (Live Atlanta Olympics)


Deep within each heart
There lies a magic spark
That lights the fire of our imagination
And since the dawn of man
The strenght of just "I can"
Has brought together people of all nations

わたしたち一人一人の心の奥深くに
わたしたちの想像力の炎を燃やす
魔法の閃光が横たわっている
人類が出現して以来、
「わたしは出来るのだ」という意志の強さが
世界中の人たちを呼び集めてきた

There’s nothing ordinary
In the living of each day
There’s a special part
Every one of us will play

日々の生活の中に
取るに足りないことなどないのだ
わたしたちめいめいが演じる
特別の役割があるのだ

Feel the flame forever burn
Teaching lessons we must learn
To bring us closer to the power of the dream
As the world gives us its best
To stand apart from all the rest
It is the power of the dream that brings us here

夢の力へとわたしたちを近付けるために、
わたしたちが学ばなければならない教訓を教えている
いつも燃えている炎を感じる
わたしたちすべての安逸から離脱させるために
世界がわたしたちに最上のものを与えてくれるとき
それはわたしたちをここへ呼び寄せる夢の力なのだ

Your mind will take you far
The rest is just pure heart
You’ll find your fate is all your own creation
Every boy and girl
As they come into this world
They bring the gift of hope and inspiration

あなたのマインドがあなたを遠くへと運んでいく
残りの部分は純真なハートなのだ
あなたは自分の運命はすべて自分自身の創造だとわかるだろう
すべての少年少女たち
かれらがこの世界にやってくるとき
かれらはみんな希望と霊感という贈り物を
もたらすのだ

Feel the flame forever burn
Teaching lessons we must learn
To bring us closer to the power of the dream
The world unites in hope and peace
We pray that it will always be
It is the power of the dream that brings us here

夢の力へとわたしたちを近付けるために、
わたしたちが学ばなければならない教訓を教えている
いつも燃えている炎を感じる
世界が希望と平和で一体になる
わたしたちはいつまでもその状態が続くことを祈ります
わたしたちをここへ来させたもの、それが夢の力なのだ

There’s so much strength in all of us
Every woman child and man
It’s the moment that you think you can’t
You’ll discover that you can

わたしたちの内にはそんなにも巨大な力があるのだ
すべての女性、子供そして男たち
あなたには、自分はできない、と思える瞬間がある
しかしあなたは、自分はできるのだ、ということを発見するだろう

Feel the flame forever burn
Teaching lessons we must learn
To bring us closer to the power of the dream
The world unites in hope and peace
We pray that it will always be
It is the power of the dream that brings us here

夢の力へとわたしたちを近付けるために、
わたしたちが学ばなければならない教訓を教えている
いつも燃えている炎を感じる
世界が希望と平和で一体になる
わたしたちはいつまでもその状態が続くことを祈ります
わたしたちをここへ来させたもの、それが夢の力なのだ

Feel the flame forever burn
Teaching lessons we must learn
To bring us closer to the power of the dream
The world unites in hope and peace
We pray that it will always be
It is the power of the dream that brings us here

夢の力へとわたしたちを近付けるために、
わたしたちが学ばなければならない教訓を教えている
いつも燃えている炎を感じる
世界が希望と平和で一体になる
わたしたちはいつまでもその状態が続くことを祈ります
わたしたちをここへ来させたもの、それが夢の力なのだ

The power of the dream
The faith in things unseen
The courage to embrace your fear
No matter where you are
To reach for your own star
To realize the power of the dream

夢の力
見えない物への信念
あなたの恐怖を包み込む勇気
あなたがどこにいようとも
あなた自身の星へと達するために
夢の力を実現するために

(translated by Nirvana)

夢を描け

若きと老いたるとを問わず
兄弟よ、夢を描け、蜃気楼(しんきろう)よりも大いなる夢を。
夢はあなたの肉体を超えて虚空にひろがり
ひろくひろく宇宙にひろがる雲となって、
あなたをより高き世界へ
あま翔(か)ける大いなる翼となるであろう。

この翼こそ世にも奇(くす)しき翼である。
夢の奇(くす)しき翼に乗るとき
若きものは向上し
老いたるものは若返る。

兄弟よ、夢の翼を休めるな、
自己を出来るだけ偉大であると想像せよ。
あまり高く翔けのぼることを恐れるな、
躊躇するな、
尻込みするな、自分自身を限るな。
あなたは夢の翼によって肉体の制限(さかい)を超える。
たといあなたが地球にわいた黴(かび)よりもその肉体が小さくとも、
あなたの心は夢をえがくことによって
天地を造った偉大なる心と一つになるのだ。

兄弟よ、
悲しみに打たれるな。
打たれても起き上がれ。
描いた夢が破れても
あなたはまだ夢を描く自由はあるのだ。
自分にはまだ偉大な力が残っていると想像せよ。
夢を描くものにとっては
この世界は常に新天新地である。

兄弟よ倒れるな
倒れても起き上がれ、
希望を失っても試みが破れても
倒れるな。
夢は希望の苗床である。
大いなる夢の苗床から
希望の芽がまた萌え出でる。
希望の芽は夢につちかわれて生長する。
夢は希望の苗床である。
兄弟よ、出来るだけ明るい大きな夢を心に描け。
自分を暗い悲しいものだと想像するな。
あなたの「心」が全能の創造者だということを知れ。
あなたは自分の心で自分を想像した通りのものにするのだ。
自分を暗い悲しいものだと想像したら
その通りにあなたはなるのだ。
自分を明るい偉大な人間だと想像しても
その通りにあなたはなるのだ。
何故なら心は全能者であるからだ。

兄弟よ、
偉大なる夢を描かないで
偉大となったものが嘗てあるか。
この世に偉大と名のつく一切のものは、
みんなあなたの夢の産物ではないか、
コロンブスがアメリカ大陸を発見したのも
あなたの夢の帆掛け舟で
人生の荒波を超えたからではないか。
汽車、汽船、自動車は勿論のこと、
飛行機、ラジオに至るまで、
皆なあなたの夢が形と化したのではないか。

新大陸の存在をあなたの夢が心に描く。
するとアメリカが発見された。
あなたの夢が
人間が空を飛ぶことを心に描いたとき
飛行機が発明された。
あなたの心が「動く写真」を夢に描いたとき
キネマが出現したのだ。
そしてあなたが「語る映画」を心に描いたとき
トーキーが出現したのだ。
兄弟よ、
夢の勇者たれ、
あなたの夢が万能であるということを自覚せよ。
万能を自覚するとき、
あなた自身は本当に万能となるのである。
夢の勇者も
時としては失敗するように見えるであろう。
しかし如何なるときにも挫折するな、
失敗するように見えた時、
彼は一層希望の実現に近付いているのである。

見せかけの失敗は
成功のきざしである。
陰極は必ず陽転する。
コロンブスを乗せた帆掛け舟の船員が、
待てども待てども新大陸が見つからないで失望して、
今やまさにコロンブスを監禁して
船を引き返そうとしていた時
彼は一層新大陸の間近まで来ていたのではないか。

兄弟よ、
陰極は陽転するのだ。
何事にもこのコロンブスの話を思い出せ。
失敗を恐れるな、
失敗のたび毎に
貴方が希望の実現に近付いている事を知れ。
そして人生の荒波に沈んでしまわないように
夢の救命器をしっかり結んで泳ぐのだ。

谷口雅春著『新版ひかりの語録』より