ニルヴァーナへの道

究極の悟りを求めて

立花隆氏とコリンウィルソンとの対話

2010-08-15 00:17:29 | 
この対話は、だいぶ前に、地下鉄サリン事件より2,3年前に放送されたものです。私もこの番組は見ました。
こうして、ユーチューブにアップされるのは本当にうれしいですね。
立花隆さんはコリンウィルソンから青春時代に大きな影響を受けたと述べていますが、私も大きな影響を受けましたねえ。
特に、オカルトなどは好きで、かなり熱心に読んだことがあり、現在も座右の書という感じで、いつも手元に置いており、なにかこのテーマに関することで疑問に感じたときは、すぐにこの本で調べます。
日本人にはあまり馴染みのないカバラなどもこの本から、基本的な考えを学べますね。
オウムに大きな影響を与えたノストラダムスの予言についても、かなり詳しく書かれている。
この本の中でウィルソンは「X機能」という概念を説いている。
それは、「第六感覚ともいえる望遠鏡的な巨視的ヴィジョンであり、自己の現在地点を超え出た彼方にある他の時、他の場所を意識する感覚」であり、「やがて人間が自覚的に所有するであろうこの第六感覚は、生の目的感(人生には目的があるのだという意識)につながるものだと述べている。」と訳者の中村保男氏は解説で書かれている。
まあ、一種の超能力ともいってもいいでしょうか。仏教でいうところの神通力でしょうか。

この本の解説で訳者の中村氏は、阿含宗の桐山靖雄氏の本を紹介されている。たぶん、私が桐山氏の本に興味がでてきたのは、この解説を読んだからではないかと思っています(笑)。

「密教を土台とした超能力について、何冊か本を著した桐山靖雄師は「密教は未来の科学だ」と言い、ウィルソンも「魔術」は未来の科学である」と書いている。」


まあ、この暑いお盆休みに、コリンウィルソンの思想に触れて、人間について考えてみるのも悪いことではないのではないかと思い、ここで紹介させてもらいました。

Colin Wilson - Beyond the Occult 1/5


Colin Wilson - Beyond the Occult 2/5


Colin Wilson - Beyond the Occult 3/5


Colin Wilson - Beyond the Occult 4/5


Colin Wilson - Beyond the Occult 5/5



Life After Death: The Evidence

2009-11-11 22:02:02 | 

ニューズウィークの英語版に、インド系アメリカ人の死後の生命の存在を論じた本の書評が出ていました。
http://www.newsweek.com/id/220296

毎日訪れている英語道創始者の松本道弘先生のブログのコメント欄に、この記事の紹介がありましたので、さっそく、その記事を読んでみましたが、これはなかなか面白い本のようですね。
これは是非英語版を購入して読んでみたい。
英語もそんなにむずかしくないようです。
第一章の一部が読めるので読んでみましたが、日本人でもそんなに苦労しないで読める、地球語としての英語的な、明快な英語ですね。
たとえば、次のような箇所。

Death is the great wrecking ball that destroys everything. Everything that we have done, everything we are doing now, and all our plans for the future are completely and irrevocably destroyed when we die.

We cannot be indifferent to the question of whether there is life beyond the grave. If there is life after death, we have grounds for hope; if not, we must be reconciled to our plight of hoplessness and despair.

著者は死後の生命の存在の疑問は、「the ultimate question」だと述べているが、確かにそのとおりで、オウムも、かつて、「ベストリアリアライゼーション 絶対最勝の悟りの道 死後の世界か存在するか?」というビデオを出していて、この問題は人類最大のテーマと謳っていました。そう、死後の生命の問題は、人類最大のテーマなんですね。
たしかに、オウムはセンスが良かったんですね。
そうでなければ、あれだけの人は集められなかったということでしょう。
このインド系アメリカ人と同じ問題意識を共有している。
この著者はアメリカの保守の思想家として、ベストセラーも出しており、かなりの影響力を持っているようです。
今後、いろいろなメディアで取り上げられることでしょう。

フォックステレビにもこの著者は出ていて、この本の内容や自分の考え方を語っています。

Dinesh D'Souza - Life After Death (11.4.09)


Proof of 'Life After Death'
Thursday , November 05, 2009



ADVERTISEMENTThis is a rush transcript from "On the Record," November 4, 2009. This copy may not be in its final form and may be updated.

GRETA VAN SUSTEREN, FOX NEWS HOST: Is there life after death? Can you prove it? Our next guest says he can. Dinesh D'Souza joins us. He is the author of a brand new book, "Life after Death: The Evidence." It's nice to see you.

DINESH D'SOUZA, AUTHOR, "LIFE AFTER DEATH: THE EVIDENCE": It's a pleasure.

VAN SUSTEREN: And I love the words "The Evidence," which is another word for proof. Is there life after death?

D'SOUZA: I think there is. And I've always believed on the basis of faith, but in this book I set that aside and I say let's look at empirical evidence, let's look at historical, philosophical, scientific evidence, and that is the good line, that when you look at modern science, at modern philosophy, there is surprising proof that there is life after death.

VAN SUSTEREN: Like what?

D'SOUZA: Shakespeare called death "the undiscovered country," and it's true that you can't go to the other side of the curtain. I do not claim to have interviewed dead people or any of that.

There are near-death experiences, and that is thousands of people who have been very close to death, they have been declared clinically dead or in some cases no brain function, and they report all over the world a surprisingly uniform experience.

They say "I feel like I am being pulled through a tunnel." "I see a bright light." "I feel in the presence of a celestial being." "And then I come across an impassible barrier, and I cannot go through it, and I am back on the operating table."

These near-death experiences, which are now the subject of quite detailed study -- the atheists are very worried about them and are trying to say no, it is like if you take hallucinogenic drugs or maybe the brain in the process of dying generates this kind of special effects. But those theories have their own problems.

VAN SUSTEREN: How do you know that it isn't that? I'm zeroing in on the whole issue of proof. I realize these people, these near-death- experiences, there are similarities, but where is your level of certainty?

D'SOUZA: Remember, this is only one part of the argument. I think the way you look at life after death is you are kind of like a detective and you come upon a crime scene. There is no eyewitness. We cannot talk to dead people.

But there is a lot of clues and a lot of evidence. Each single pieces by itself will not make a case, but then you put them together.

For example, take the atheists idea that this is just a dying brain. Many of us know people with Alzheimer's where the body and brain are breaking down, you know what that is like. You have faded recollections, you have a dimness of perception, you have disorientation.

And then you look at the near-death experience, and it is the opposite. It is extreme clarity and a sense of vividness.

Besides, if these are people whose brains are dying, what are they walking around? The people with near-death experiences are -- they have jobs, they have families. So their brain would have had to die and essentially come back to life which is a little hard to believe.

VAN SUSTEREN: So you believed this from faith before you started writing the book. You then did research and you look at it from a scientific point of view. Is that right?

D'SOUZA: The thing is we believe a lot of things on faith, but we are living in a secular culture. And so in some senses fate doesn't cut it when you are talking to somebody who doesn't share your faith. I think it's important to look at see what modern evidence has to show.

And so I look at physics, I look at biology, and most importantly the science of the brain, because there have been tremendous advances in neuroscience.

And in a sense what we are looking at here is the mind and the brain same thing? Because, if they are, then the brain dies, we don't deny that, so then the mind goes with it. But if the mind is not the same thing as the brain, then it opens up the possibility that the brain my die but the mind might live on.

VAN SUSTEREN: Is mind synonymous with soul?

D'SOUZA: Soul is tricky term. Usually the religious tradition, the soul is the moral faculty, the ability to tell right from wrong. That's the soul.

The mind is the much wider repertoire of thoughts and feelings, emotions, ideas, the whole immaterial side of us.

Now, 2,500 years Socrates, of all people, made an argument for life after death, which I think is still relevant. He said we as human beings, we have a physical side, our bodies, and we have a mental side, our thoughts, our feeling, our ideas, and our bodies may die, but the immaterial part of us could live on.

VAN SUSTEREN: Great new book, "Life After Death: [The] Evidence" is the word. Thank you, nice to see you.

D'SOUZA: It's been a pleasure.









古本探索

2008-01-30 19:33:44 | 




この前の日曜日、久しぶりに愛車オプティーで(笑)、自宅から100キロほど離れている町へ古本探索に出かけた。
半分ほどの距離が海岸線を走るので、海の眺めもなんともいえず気分転換になりますね。
この海岸線を走るときは、米軍放送のAFNが入るので、それをずっと聴いている。
最近は、大統領予備選挙のニュースがメインだ。
ヒラリーとオバマの戦いだが、さて、どちらが、民主党の代表候補となるのだろうか。
共和党はどうもパットした人がいませんねえ。
ハッカビーなんていいと思うんですが・・・・。
やはりなんといっても、アメリカの最近のヒット曲や過去のヒットした曲を聴きながらドライブするというのはわたしにとっては至福の時だ。

ネット上で古本を探すのもいいが、やはり、古書店巡りも、いいものだ。
それぞれの古書店には、独特の雰囲気があり、その雰囲気に触れるだけでも、古書店を訪れた甲斐があったというべきではなかろうか。
ネット上では味わえない雰囲気や感覚を味わえるということですね。

主なものとして、

中沢新一著「虹の理論」(新潮社)
沼田建哉著「宗教と科学のネオパラダイムーー新新宗教を中心としてーー」(創元社)
岸根卓郎著「宇宙の意思」(東洋経済新報社)
コリンウィルソン著「世界超能力百科上、下」(青土社)
中村元著「インド人の思惟方法」(春秋社)

などを買ってきた。
中沢さんの「虹の理論」は、吉本隆明さんの本の中で、この本はオウム信者のバイブル的存在であると語っていたので、オウム問題に関心を持っている者として、今回購入したわけです。まだ読んでいません。これから読んでみます。
沼田さんの本は本屋で立ち読みしたことがあったが、ちょっと高かったので買わなかったが、今回、案外安かったので、宗教学者が新新宗教をどのように描いているのか、じっくりと読んでみようと考えて購入しました。取り上げている教団は、ESP科学研究所、白光真宏会、GLA、幸福の科学、コスモメイト、大山ねず命神示教会、真如苑、などです。最近、島田裕巳さんの「日本の10大新宗教」が、爆発的に売れているようなので、沼田さんと島田さんの描き方、分析の仕方の差異などにも興味があったからです。どうして、沼田さんの本はそんなに売れなくて、島田さんの本は売れるのか。まあ、島田さんのほうは新書であるので手軽に買えるということもあるのでしょうが、最近の読者は耐久力がなくなったのか、あまり長くて、ちょっと難しい感じがするものは敬遠するためでしょうか。島田さんの本は忙しい現代人にとって対象の教団の特徴、問題点が一読で理解できるように簡潔に描いていますから、売れるのでしょう。この買わせる技術というものは、オウム真理教や創価学会などの問題宗教を根本から分析するなかで磨かれてきたのではないかなと思っています。それとやはり、取り上げる対象の違いということもあるのでしょう。新新宗教は話題になることはあるが、そんなに日本には根付いてはいないということか。新宗教はその点、規模も大きいですし、日本の土壌に着実に根を下ろしているという感じがする。あと、この本の中に取り上げられた10大新宗教に関係しているか、興味のある人はどうしても中身が知りたいですから、買うのかも知れません。
岸根さんの本はかなり分厚いです。かつて岸根さんの「文明論」という本は、オウムの青山弁護士の本の中でも紹介されていて、記憶に残っていました(笑)。
コリンウィルソンの翻訳本はかなり高いので、買いそびれていたものがかなりあるが、今回、そんなに高くなかったし、本がきれいだったので、躊躇なく買ったというわけです。
中村元先生の本、はインド哲学に興味を持つ者として、できるだけ手元に揃えたいと思っています。

この時期は一番寒い時ですので、読者の皆さんも体調にはくれぐれも気をつけてください。このエントリーの最後に「冬のリヴィエラ」を貼り付けておきます。この歌でも聞きながら、夜は暖かくして、ゆっくりお休み下さいませ。

Mori Shinichi - Fuyuno Riviera 冬のリヴィエラ






江川紹子さんの「オウム事件はなぜ起きたか 魂の虜囚上、下」(新風舎文庫)を読む(1)

2008-01-13 16:53:26 | 






最近、江川さんのオウム裁判傍聴記を文庫版で読んだので、この本に触発されて、オウムなどいろいろ読みながら感じたことなど、気楽に書いてみたいと思います。
江川さんは、オウムウォッチャーとして有名である。タイム誌の1997年5月の日本特集号においても、「日本の未来の顔」の一人として選ばれている。
わたしが江川さんの本で最初に読んだのが、「救世主の野望」(教育資料出版会)であった。
そのころ、1992年ごろ、ある大学の学園祭でオウムの講演会が開催されることを知った。
その当時、その大学の近くに住んでおり、大学祭を見物にいったというわけである。
オウムはそのときまで、テレビの報道だけでしか知らず、あまりいい印象はなかった。
特に、坂本弁護士一家失踪事件が解決されておらず、オウムが犯人ではないのか、という思いを多くの人が持っていたのではないかと思う。
わたしも、オウムが犯人だとしたら、恐いな、という思いを持っていた。
しかし、1991年の朝ナマで幸福の科学と宗教討論会をやり、案外まともなことを語っていたので、関心はあった。
特に、上祐氏の語り口には、何か、日本人離れした論理性を感じた。
あとで分かったことだが、上祐氏は大学時代、今脳機能学者として有名になっている苫米地氏からディベートの指導を受けていたということだ。

そのとき、はじめてオウム教祖を間近で見たのであるが、第一印象はかなり太っているなあ、という感じだった。
宗教家という感じはしなかった。
その講演会で、教祖は1997年ハルマゲドン説をぶち上げた。
宗教家生命をかけるとも言っていた。
そのころは、まだまだ、ノストラダムスの大予言が影響力を持っており、ノストラダムスは1999年に大いなる艱難が人類に降りかかると予言していると五島勉氏らが、盛んに恐怖心を振りまいていた。
わたしも、五島氏の予言の本は出版されるたびに買い求め、ノストラダムスの予言は、ひょっとしたら当たるのではないか、という気持ちもないではなかった。しかし、それも、確固とした確信ではなく、心の奥深くにかすかにくすぶっていたという程度ではあるが・・・・。

それで、大学の講演会で教祖のハッキリとハルマゲドンの時期を確定した講演を聞いたとき、うーーん、教祖はまた思い切ったことを言うもんだなあ。
ほんまに、そんなヴィジョンを見たのかいな、それが当たるとしたら凄いし、恐いな、という思いも湧いてきた。
が、やっぱり、まあ、何というのか、宗教家特有の教祖のハッタリだろうな、と思い直すのであった(笑)。
その講演会で直接オウム信者と接したのであるが、案外、外部の人間とも冷静に論理的に会話ができるな、という感じを持った。
そんなに悪い印象ではなかった。
第一印象は良かったのである。
それで、オウムに興味関心が湧いてきて、その会場でもらった本、機関誌などを読み始めたのであった。
この教団の特徴は瞑想などの修行を全面的に打ち出していることだった。
結果の出ない宗教などやってもしかたがないではないかというのだ。
これは確かに訴えかけるものを持っている。
そして、人生の目標として、ハッキリと解脱悟りを置いていた。
こういう教団は初めて見た。
ハッと目が覚める思いがした。
現代日本人の平均的な考え方とはかなり異なる。
人間はいつかは必ず死ぬのであるから、死後も持っていくことができるものを身につけるほうが、価値があるのだ、というスタンスなのである。
たしかに、この姿勢は輪廻転生を前提とした場合、論理的だし正しいと思う。
随分、マスコミの報道とは違うなと思った。
そして、もう一つのこの教団の売りとして、自分たちは仏教の本当の教えを現代に甦らせているのだ、という主張であった。
わたしには、こちらのほうに魅力を感じたものだ。
それ以前に、阿含宗の桐山靖雄氏の本で日本仏教の堕落した姿に絶望的な感じを抱くようになっていたので、このオウムの正統的な仏教開祖ブッダの教えを求めていくのだという姿勢に大いなる共感を抱いた。

オウムは、また、布教活動の一環として、ロシアから日本向けのために日本語放送を、世界に向けて英語放送を行っていた。
わたしは、このオウムのラジオの宗教放送が面白くてたまらなかった。
教祖の説法も面白かったし、カンカーレーヴァタ師(杉浦実氏)のステップアップ真理というコーナーは、仏教の基本的な教義を実に分かりやすく説いていると思ったし、信者の体験談やオウムの音楽などもあり、いろいろバラエティーに富んでいて、三時間はそんなに長くは感じなかった。このときに録音しているテープはいまも持っている。

その講演会のときに、こちらの住所を教えていたので、道場から、近くで行われる説法会の案内が来たとき、好奇心から説法会にも行った。当然、入信を勧められたが、丁重にお断りした。その理由の一つとして、教団の本と同時に、江川紹子さんの「救世主の野望」という本も読み始めており、この本により、こちらが信者に接して受けた印象とはかなり違うので、おやおや、教団の実態とは、そんなにキレイナものではないな、と思い始めていたからである。やはり、外部の人間には、教団の内部の実態は、元信者などに取材しているジャーナリストなどの本も読まなければ分からないな、と思った。入信はしなかったが、ラジオ放送を聞いたり、オウムの本を読むことは続けていた。大体1993年はそんな感じだったが、1994年になると、ラジオは聞かなくなったが、オウムの本では、教団が出していたヴァジラヤーナサッチャという一般向けの雑誌を読んでいた。それは、宗教書というよりかなり時事的な、政治的な問題が語られていた。そんな時に起こったのが地下鉄サリン事件だった。1995年3月22日の強制捜査の模様がテレビ中継されていたとき、ヘリコプターから、教団の第七サティアンが映されたとき、ああ、そうだったのか、教団が警告を発していたハルマゲドンとは、自分たちでサリンを作って、それで自分たちが発火点となって、引き起こそうとしていたものだったのか、と、直観的に思った。この直観は事件の本質をかなり深く衝いているのではないかと今でも思っている。
(続きます)


福田恒存

2008-01-05 14:38:42 | 
宮崎正弘さんが、メールマガジンで、福田恒存(つねあり)の思い出を語っています。わたしもかつて、福田さんの文章(特に文芸春秋社から出ていた「人と思想」シリーズの「日本を思ふ」という本)には大きな影響を受けたものの一人として、大いなる共感をもって読ませてもらいました。
福田さんの、憲法論、防衛論、国語論、日本文化論などは、現在も、わたしの考え方の根本にあるのではいないかな、と思っています。福田さんの「私の国語教室」(新潮文庫)に感化されて、歴史的かな使いで文章を書いていた時がありました。いまは、もうそんな純粋な情熱は消え失せてしまいましたが(苦笑)。
特に印象に残っているのは、文芸春秋誌で、ニューズウィークの韓国報道を批判しながら、アメリカのアジアの文化に対する無知、傲慢さを批判していた記事です。福田さんの文化問題に対しての鋭敏な感受性を感じたものです。異文化間の双方が共に利益になる付き合いがいかにむずかしいか、痛烈に認識させられた文章でした。福田さんはこの批判の記事を日→英の翻訳の専門家に翻訳してもらって、ニューズウィーク編集部へ送付したとのこと。その熱意にも感銘を受けたものでした。従軍慰安婦問題に対するアメリカ的な固定観念も、アメリカの他国の文化への無知、傲慢さから来ているのではないか。この無知、傲慢さを変えるのは、なかなかむずかしい。
が、放っといていいものではないだろう。こういう時にーー日本の立場の正当性を説得力をもって主張できる自国の文化に対する深い信頼と理解を備えた日本人の出現が必要な時ーーこそ、福田恒存が、再び読まれるべき時ではないか、と思う今日この頃です。

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http://www.melma.com/backnumber_45206/

「宮崎正弘の国際ニュース・早読み」 
平成20年(2008年) 1月5日(土曜日) 
通巻第2045号   新年特大号第3弾
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(((((( 今週の書棚 )))))))


 虚妄の平和主義や似非ナショナリズムが徘徊した時代と戦った知識人
  狷介孤高、反近代の思想家・福田恒存が鮮烈に蘇った

   ♪
福田恒存『福田恒存評論集 8』(麗澤大学出版会)
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  □
 福田恒存という思想家は「偉大なる常識家」である。
したがって常識が通用しない時代に重宝されたのは当然だったにしても、ますます常識を失った現代日本において、ますます貴重な存在として輝き続けるのである。
ちょうど評者(宮崎)は学生時代だった。
 本書に収められた評論の数々(ほぼすべての論文が昭和四十年から四十五年)を私は当時、夢中で読んだ記憶がある。学生運動真っ盛りの頃である。
 慶応、早稲田に端を発した大学紛争は、暴力的になって日夜激化し、昭和四十五年に赤軍派ハイジャックと三島事件へといたる。日本が騒然としていた。
 大学は荒廃し、教育が歪曲され、価値紊乱が方々で起きていた。福田は常識の回復を訴えていた。
 夢中で読んで、福田氏に講演に来てもらったことも数度。電話での長話も経験した。最初に講演を依頼したのは昭和四十二年だった。「戦後日本の知的退廃」とかの演題だった。
 感動したのは学生新聞の編集者風情を一個の大人として扱ってくれたことだった。
 このたび福田恒存評論集に改められると、私はどうしてもあの時代の感傷にまず浸ってしまう。
左翼学生運動も論争も激動だった時代が、つい昨日のように脳裏に蘇るからである。

 たとえば昭和四十四年の『諸君!』創刊号に福田氏は次のように書いた。
 「大方の日本人は大東亜戦争の敗北によって『醜の御楯(しこのみたて)』としての生ける目標を失った。が、それを失うより早く手に入れた生き甲斐は戦争犯罪に対する懺悔の心であり、贖罪意識である。(中略)生き甲斐のごとき本質的な事柄において日本人の関心を引くのは、つねに心懸けであって行為ではなく、意であって形ではない」
 「必要なのは心の拠り所であり、それはすべて平和憲法に預けた格好になった。これは二重の皮肉である。第一に罪悪感という消極的な概念に生き甲斐を求めた事であり、第二にそれを積極的に誇りに転用したことである」(本評論集304p)。

 『平和憲法』なるものを後生大事な経典とした知識人は偽者だと皮肉っているのである。

 また福田恒存氏氏はこうも書かれた。
 「私はこの平和という名の武器の威力を信じます。隋って平和主義や中立主義を非現実的な観念論となし、その不可能を説く私を目して現実主義を言うのは当たらない。なるほど私も平和主義や中立主義の非現実性を非難して参りました。しかし、それが実際に非現実的で無効化ならば、わざわざ反対する必要はない」(中略)
 「平和という名の美しい花を咲かせた日本の薔薇造りは、そのヒューマニズムという根がいつの間にかエゴイズムという蟲にやられている事に、果たして気づいているかどうか。そのけちくさい、ちっぽけな個人的エゴイズムに目をふさぎ、今度は同じヒューマニズムの台木にナショナリズムを接木して、平和と二種咲き分けの妙技を発揮しようとしている」
 「ナショナリズムを口にする者が本当に日本民族の自覚を持っているのか」(中略)「ヴェトナムの民族主義を理解し得る様な口吻を進歩的知識人の言動に感じるとき、私は文字通り呆れ返ってものが言えなくなる」(初出は読売新聞、昭和四十年六月八日。本評論集、132p-133p)。

 「べ平連」なる似非知識人と付和雷同の学生らの団体が結成される直前に、はやくも似非平和主義の方向を予知し、批判しているのだ。

 昭和四十年代初頭、論壇は左傾化が激しかったが、その分、保守派文化人も『自由』や『文藝春秋』で健筆を振るっていた。『諸君』も『正論』も『ボイス』も創刊されていなかった。『サピオ』も『月刊日本』も、『WILL』もなかった。
思想界では一方に林房雄、保田與重郎がいた。岡潔がいた。林の『大東亜戦争肯定論』は民族派のバイブルだった。
三島由紀夫が『英霊の声』、『喜びの琴』などを書いて保守陣営に飛び込んできたのも、この時代だった。いきなり福田の大常識を飛び越えた保守論壇に加わってきたのだ。
 体制派御用の論客には猪木正道がいて、高坂正尭が登場したばかりだった。永井陽之助がデビューしてきた。
 保守の伝統的な論客らはミニコミ誌で活躍していた。竹山道雄や会田雄次が大車輪の活躍をする直前であった。福田は保守論壇のチャンピオンとして、その発言が逐一注目されていた。


  ▲「正気の狂気」が三島なら、福田は「狷介孤高」の士

 『論語』によれば、知識人には「狂」と「狷」がある。
 「子路第十三」に「子曰く 中行を得て之に与せずんば、必ずや狂狷か。狂者は進みて取り、狷者は為さざる所有るなり」。
 「狷介孤高」の士とは仕事がなかなかしにくく、狂の人は他人がしないことを率先して突っ走るという意味である。要は行動するか、評論に徹するか。
 山県有朋は青年時代を「狂介」と号した。陸奥宗光の号は「六石狂夫」である。
 吉田松陰も西郷隆盛も、そして三島由紀夫も「狂」の部類であろう。
 「狷者」なら岡潔も、板垣退助もそうだろう。そして、私は福田恒存を「狷」のほうに分類してしまう。
 三島事件が起きたときに林房雄は「正気の狂気」と比喩して三島の行為を分析した。
「狷」のほうの福田は「わからない。わからない。私には永遠にわからない」という名文句を吐いて、以後、三島事件に関する論評を一切行わずに沈黙した。
かわりに江藤淳が猪口才なことを言い募ったが、小林秀雄に叱責されたものだった。

 福田恒存の評論集は、一度文藝春秋から出た。
昨年から全十二巻の新装版として、麗澤大学出版会から刊行が始まった。
その第一巻は教育論、国語論、祝祭日、憲法論などが選ばれているが、最後に珍しく「乃木将軍と旅順攻略戦」が挿入されている。
 乃木将軍を無能と断じた司馬遼太郎への鋭角的批判であり、これを書かれたのが三島事件直前であったことも何かを象徴している。
司馬の“乱世史観”なる似非歴史分析を透視して、『合鍵を持った歴史観』と木っ端微塵に打ちのめした。
 いずれの文章も想い出が深く、あの時代と自然に重複してしまう。

    ○○ ○○○ ○○○ ○○○   ◎◎◎
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注目の新刊

2007-12-25 23:19:12 | 
わたしが注目している評論家の一人である副島隆彦氏が新刊を出されたようです。
氏のサイトに紹介されています。
http://www.snsi-j.jp/boyaki/diary.cgi

『中国 赤い資本主義は平和な大国を目指す』(ビジネス社)

<目次>

第1章 人民元(じんみんげん)の時代

まえがき…-2
人民元の買い方…-13
中国株の買い方…-16
天津の証券会社で見た現地の過熱ぶり…-22
中国はそう簡単には崩れない……26
エネルギー問題も日本の技術で解決する…-31
2008年から、いよいよアメリカの世界覇権が衰退を始める・…-40
領土問題は国家間の話し合いで解決すべき問題である…-44
アメリカ発の大暴落、その時中国は?…-50
アメリカや日本こそ統制経済を行っている…-53

第2章 中国「赤い資本主義」の深層

やはり中国は覇権を求めて進んでいく…59
中国が日本の「富国強兵」「近代化」に注目するわけ…-66
中国台頭の目的は13億人の生存のため…-74
中国は共産党と資本家たちが治める階級社会だ…-78
独裁者・毛沢東の暴走の歴史…-83
文化大革命を体験した中国人に恐いものなどない…-88
日本人は中国人と対等につき合えばいい…-92
争乱の時代なら、中国はためらわずに武力行使する…-94
他国の人工衛星を撃ち落とす権利がある!?…99
「義」の思想が分かれば、中国人が分かる…-100
民衆支配の思想「儒教」を中国人は憎んでいる…110
「無関心」という中国人の本質…-15

第3章 中国急成長の歴史と原動力

すべては郡小平(とうしょうへい)から始まった-…-125
中国は共産主義を捨て、個人が富を追求する国になった…128
いずれアメリカはアジアから去っていく…-131
今こそ日本の国家戦略を示すべきだ…-133
中国の現在…136
中国は2000年に大変貌を遂げた---137
中国が分裂、崩壊する可能性はない…-139
華僑の力…142
中国経済はバブルか?…-143
急激な成長は1990年から始まった……150
中国の発展に客家は不可欠だ…-153
世界中の華僑資本が中国に流れ込んだ…156
郡小平の南巡講話から始まる…-158
成功した深別モデルを全土に展開する…168
1997年から中国の東アジア経済属国化は始まった…170
中国の腐敗は不動産業の構造にある…174
不動産不正投資のカラクリ…-175
中国の大きな政界対立図…-184

第4章 暴落を乗り越え、着実に中国は昇っていく

中国が絶対に譲らない2つの政治問題……191
政治問題で日本が遠慮する必要はない…198
農民たちの暮らしは今も苛酷だ…200
きれいごとで事実を隠すな!…201
本当の中国の姿を私たちは知らない…206
「中国人は将来の心配などしない」…210
最も深刻な問題は水…212
1ドル=60円=2元時代がやってくる…213
不動産価格暴落の可能性…216
注目すべき主な中国株の銘柄、…220

第5章 世界覇権戦争が始まった

イスラエルVS中国世界覇権を巡る暗闘…231
イランに核技術を渡したのは中国か?…233
中国のエネルギー政策…235
ユダヤ人の反撃が始まる…-237
博打と金儲け好きの中国人が、なぜ共産主義に騙されたのか?…-238
あとがき…242

副島氏の掲示板には、著者が次のように宣伝しておられます。
かなり短期間で書き上げた本のようですが、かなり手ごたえを感じておられるようですね。

「それから、私の新刊本の宣伝である。私が、この3週間、何をやっていたかというと、この『中国 赤い資本主義は平和な帝国を目指す』(26日刊、ビジネス社)を書くことに没頭していた。私、副島隆彦が没頭して書き上げた本の威力(いりょく)を、軽視出来る者がいたら、お目にかかりたい。

私は、日本の国家戦略家(ナショナル・ストラテジスト)としての自負と矜持(きょうじ)において、この本を書き上げた。私の初めての中国研究本である。かつ突貫工事での仕上げである。これほどに自分の脳を酷使したのは久しぶりである。私は、自分の脳にものすごい自信を持った。「遂に、やり遂げたぞ」という感じである。

 この本は、私の「現代アメリカ政治思想(の全流派の)研究の本」(私の主著)に続いて、ついに、私は、私にとっての長年の暗黒大陸(あんこくたいりく)であった中国に遂に、踏み込んで、そして、緒戦(しょせん)の闘いで勝利した。悪戦苦闘の果てでのことだ。一気に、構造体としての「中国全理解」を私は、組み立てて、そして達成した。」

これからの中国を考える上で、大いに刺激を受ける本ではないかと感じています。
この本は購入します。
そして、読後感などをまたここに書き込んでみたいと思っています。



 

最近の状況

2007-12-22 02:43:32 | 

最近、やっと時間がとれるようになり、読書やブログへの書き込みもできるようになりました。まあ、こういう環境は、来年の正月の三日間ぐらいまでということでしょう。

仏教関連の本では、現在ロバート・サーマンの「現代人のためのチベット死者の書」を読んでいます。前半の仏教やチベットの死の科学についての解説は非常に分かり易くて勉強になるのですが、その解説の箇所の後半のチベット人の死の技術の解説の部分になるとタントラの考え方も加わってきて、なかなかむずかしくてついていけませんねえ(苦笑)。しかし、この本の翻訳のおかげで、「死」について、もっと真面目に考えていかないといかんなあ、と思うようになったことが、収穫でしょうか。まあ、この本は、今後、何回も繰り返して読んでいく座右の書になることは間違いないでしょう。それだけの価値のある本です。

「それでも死後の意識など信じることができない、という筋金入りの物質主義者には、パスカルの「賭けの論理」を使えば、納得してもらえるのではないかと思う。死後には何もかもがなくなってしまうのなら、何か準備をしたところで、それを後悔することもないだろう。でも、死後も何ものかが存在しているのに、準備を怠ったり、いいかげんにしかしなければ、後で苦い思いや激しい悔恨に駆られることだろう。つまり、準備しなければ、苦い思いしか得られないが、準備をすれば得られることがあろうし、失うものはない。また、何もないことに対して準備をするならば、ほんの少ししか準備に時間をかけなくても、永遠に後悔することなどないことになる。そして、何かがある、と思っているなら、ビジネスや快楽にかまけて準備をせずにいれば、貴重な資源を無駄使いしてしまったと永遠に深く悔いることになるだろう。」

とロバート・サーマンは述べていますが、これと同じようなことを、オウムも言っていましたよね。オウムの市販ビデオ「死後の世界は存在するか?」は、非常に刺激的で、何回も繰り返し見たので、このパスカルの「賭けの論理」をサーマンの本で読んだとき、とっさに、これは確かどこかで聞いたことがあるぞ、と思い浮かんだというわけです。このオウムのビデオの中でも、パスカルの「賭けの論理」を語っていたはずです。

ダライラマ法王のチベット問題についてのインタビューの日本語訳を掲載していますが、ダライラマ法王と上田紀行さんとの対話「目覚めよ、仏教」(NHKブックス)は、仏教や日本仏教を考える上で、大いに刺激を受けたという感じですね。でも、日本の坊さんはなかなか目覚めないだろうな、という思いもありますねえ。
上田さんは、「宗教と現代がわかる本」の中で、日本仏教は哲学的には深みに達して壮大な大系をなしているけれども、仏教界全体が「教え」のほうを向いていて、「慈悲は説くが慈悲は実践しない」という状態に陥っており、実際の実践は「葬儀」のみだ、と批判していますが、考えてみれば、この日本仏教の「慈悲の不実践」こそが、新興宗教が起こってきた大きな要因のように思います。従来の仏教は「葬儀」のみしていればいいのであり、「現代社会の苦悩に立ち向かう社会参加宗教」として、創価学会や霊友会や立正佼成会などが存在しているのである、という考え方もできるでしょう。まあ、ある意味、それぞれが、棲み分けをしているとも考えられますね。
生長の家創始者谷口雅春先生は、「生命の実相第39巻、仏教篇」で、次のように既成仏教の実態を批判しています。

「現在の多くの宗派仏教、寺院仏教は檀徒というものを持ち、その檀徒の布施に常に寄生しながら生活している。そうして、あるいは葬式の行事をし、あるいは死骸にお経を上げるというようなことを仕事にし、生きた人を教化することを忘れてしまったのです。・・・・要するに仏教はたんなる哲学でもなければまた死骸にお経を上げ理ような、そんなくだらない無為消極のものでもない。人間に生老病死の四苦の縛がある。その縛を敢然解き放って、そうして本当に自由な人生を生き、その自由な人生をさながらに体験させるのでなければならない。」

なるほど、そうなんですよね。もともと仏教の開祖のお釈迦さんは、出家修行者は葬儀にはかかずらうべきものではない、本来やるべき修行にはげんで、人に教えを説き、悟りに導かせることが本来の仕事、というスタンスだったのだと思います。果たして、現在の日本の坊さんは仏教本来の僧侶の資格(出家修行者)があるのか、という問題があり(まあ、わたしは妻帯することに関してはそれはそれでいいのではないかという考えですが)、それに加えて、果たして、修行しているのか、という大きな問題もありますねえ。

NHKブックスでは、「ブータンから見た日本仏教」今枝由郎著も、非常に面白かったです。日本仏教を考える上で大いに参考になります。

島田裕巳先生の「日本の10大新宗教」(幻冬舎新書)も面白かったです。
PL学園出身の桑田真澄投手が信仰しているPL教団の教えなどは、なかなか知ることができませんが、この島田先生の本では、教団の成り立ちや中核の教えなどが簡潔に非常に分かりやすく、書かれており、さすが、現代日本の気鋭の宗教学者、宗教評論家だなという気がします。真如苑や真光教団や立正佼成会や霊友会など、大きな教団にもかかわらず、どんな教えを説いているのか外部の人間には知ることがむずかしいのですが、この本によって、最新の情報と共に知ることができます。自分の日本人の宗教世界についての認識が広がったという思いです。阿含宗や統一協会はカルト度が強くて、この10大新宗教には入っていませんが、問題宗教には間違いないので、また、後で、これらの団体についての本を書いてほしいものです。

春ですね。さあ、散歩しませう!!(1)

2007-04-10 22:31:41 | 



朝日新聞の連載記事「ニッポン 人・脈・記 ゆっくりと⑥ クルマを捨てて歩け、歩け」(4月10日)で、日本ウォーキング協会副会長泉嗣彦氏は、「歩くことを運動・スポーツとしてより、日常生活の中に取り戻せ。千歩でもいい。意識して、より多く歩く。ただし無理をしないで楽しく。」と述べられています。
 私にとって、散歩とは瞑想ですね。蓮華座を組んで、瞑想するというのは、どうも性に合っていないようです。やはり、自然の中で、歩きながら、様々なことを思索することが、最も楽しい。人間、楽しいことでないと長続きしませんからね。人生とはマラソンであるとするならば、自分の資質を分析しながら、生きていくことが大切ではないかと思っています。「知的生活の方法」の著者であり、自らも、知的生活を送られている、私にとって、「知的生活」の「尊師」でもある、渡部昇一先生の散歩の哲学的な効用を述べられている文章を紹介させてもらいます。この文章によって、私は、散歩というものの奥深さに開眼させられたといってもいいでしょう。このブログの訪問者のみなさんも、非常に心地よい季節になりましたので、時間を見つけて、散歩してみませんか。

一日六十分の異質な時間ーー散歩

  昔読んだ受験参考書に、「散歩のための一時間を惜しむ者は、病床の十年を持つ」というような英文があったと記憶する。「運動」などわざわざ改まらなくても、一日一時間、ただ歩げばよいのである。走る必要は全くないし、走ることはむしろ私の言うクオリティの発想とは相容れない。ただし二十分以下の短い散歩では健康にはともかく、知的な価値はなくなる。

  疲れている時でも、少し酒が入っている時でも、とにかく散歩用の靴をはいて歩き出す。十五分か二十分たつと体も暖まってくるし、いつの間にか頭は日常生活から離陸してくるのである。飛行機かグライダーで地上を見下ろすような気持ちで自分の日常生活が小さく見えてくる。

  それはすでに異質な時問帯が頭の中に生じてきたことである。ここで覚えた歌謡曲の歌詞を何番までも想起できるならぱ、叙情文学の世界に入ったことになる。万葉集の長歌を想起すれぼ万葉の世界である。唐詩ならば唐の詩の世界である。文学でなくても、最近読んだ本の内容を順序を追うてその大筋を想起できるならぱ、その本の著者と同じような知力にあることの証明になる。逆にその努力をしてみて想起不能であったら、帰ってからその本に当たってみれぽよい。確実にその本をマスターするようになるであろう。

  こうした散歩によって生じた時間、日常生活から離れた時問における頭脳状況は、アーノルド・べネットの言うレフレクシブ・ムード(内省的気分)に当たる。人はいつも自分の外の風最を見、外からの音を聞く。しかし人間の心の中は、全宇宙に匹敵するほど広いのだ。自分の心の中の風最を眺め、自分の心の中の音楽を聞き、自分の心の中の討論会を傍聴してみるのである。目がさめている間、われわれの五官の刺激はすべて外から来るのであるが、外から来るものを遮断して、内からわき上がってくるイメージに心をゆだねるのである。

普通の人は外的刺激の遮断ということには慣れていない。しかしやや急ぎ足で歩くということを約十五分か二十分やることによって、誰でも外からの影響力を効果的に遮断できる頭脳状態になる。その状態を三十分ぱかり続けると、つまり歩き続けると、こころよい肉体的疲労が出てくるはずである。肌もうっすらと汗ぼんでくる。そして家に帰ってシャワーをあびたり、風呂に入ったりしてから床に入る。朝でも午後でも夜でも、散歩のあとは必ず眠ることだ。それは三十分でもよい。

■”われ”に返るとき

  なぜ散歩が知的時問帯になりうるのだろうか。その一つの理由は、虚栄と競争心がはいりこむ余地がないからであると私は考える。
  健康維持や健康増進のための方法はいくらでもある。ある人はアスレチック・クラブに入ってから体のぐあいが至極よいと言う。きっとよいものに違いない。しかし入会金やら会費やらがあって、それは一つのステイタス・シンポルとなりうる。クラブというのは本質的に言って排他的なものであり、それなりのよさはある。ある基準で選ばれた人が、コーチについて健康の指導を受けることは先進国の特徴であって、そうしたクラブが日本に出来たことは慶賀したい気持ぢである。しかし私は入らないであろう。健康には理想的でも、そこで過ごす時問は知的時問にならないだろうと直感するからだ。
  同じことはゴルフについてもテニスについてもいえる。ゴルフ・コースで友情を交換したり、商談をまとめるというのなら、それは日常的時間である。テニス・コートで異性にめぐり合うことを期待するならば、それは発情的時問であり、知的時間とは対照的なものだ。それにコーチを必要としたり、勝負があったりする運動競技は、運動神経を鍛えるための刺激にはなっても、反省的ムードを頭の中に作り出すためには有害である。つまり上達とか記録が問題になる運動は、気分転換という意味では知的価値があるにせよ、その運動自体には知的価値がない。
  その点、散歩は全く独特な種類の運動である。それは常にタダである。コーチは全く不要だ。記録を上げることも、競争もない。従って社会的スティタスにもならないし、かっこよいことでもない。

  しかしこの現代において、タダであり、しかも全く競争心や見栄に関係ないものがほかにあるだろうか。散歩の場合、われわれは世の中に対して誇示するものは何一つ持ちえないのである。別に人目にもつかず、ただてくてくと一時問ばかり歩くだけである。この世間の絆から全く解き放され、他人の目は一切気にならず、名誉心も空っぽになった状態で、単調な歩行作用をくり返している時、頭脳はわれに返るものらしい。職場にいる時は、複雑な人間関係がある。家庭の中だって夫であったり父だったりする。ゴルフだってテニスだって相手やスコアを気にする。成人というのはわれに返る時問が極端に少ないものなのだ。


春ですね。さあ、散歩しませう!!(2)

2007-04-10 22:25:19 | 


今から二十数年前、私が学生の頃たまたま読んだ話がある。当時の日銀総裁だったか大蔵大臣だったか、とにかく経済界の中心人物だった一万出尚登氏の述懐だったと思う。いつもは自動車で動いてぱかりいた同氏が、何かの都合で相当の距離を家まで歩いて帰ったところ、いつも考えていることと違うことを考えている白分に気が付いたというのである。車の上で考えるのと、自分の足の上で考えるのとでは随分ちがうものだということに新鮮な驚きを感じ、時々歩くことは青年時代の初心を思い出す上でも有益だ、というようなことも述べてあったと記憶する。

  当時は車に乗っている人はうんと少なく、特権階級に眼られていた。いつも車の上から日銀総裁として世の中を見下していた人が、たまに歩いたところ、学生時代の志を思い出し、謙虚な気持ちになったというのがその文章の趣旨であった。この体験は庶民感覚を取りもどしたことだと言ってもよいが、私はむしろ人間感覚の復活と言いたい。歩いていたら昔のことを実感をもって思い出したというのは、時問の中を自由に動いたことを意味する。しかり、われわれは散歩の間には不思議なほど目常の時間感覚から離れて、過去や未来の時間に自由に出入りしている自分に気付くのである。時間からの自由ーー何と人間的なことではないか。

  時間から自由になるのだから、自分が幼い少年になったと想像してもよい。自分が病気になった時、母がどんなに心配してくれたか。また怪我をした時、父が遠くの外科医までおんぶして行ってくれたことを思い出したりするであろう。そんなことを思い出しているうちに、涙ぐんでいる白分に気づくかもしれない。涙は溢れるにまかせよう。

  もちろん死んだ父や母の霊は、時に思い出してもらいたがっているのである。義理の宗教行事をやってもらうよりは、そうして実感のこもった感謝の念を以って想起されることを、どんなに喜んでくれることだろうか。歩きながらならぱ、幼い頃の自分を愛してくれた今は亡き人々のことを生き生きと思い出し、対話することさえも可能になる。そういう時間を頻繁に持てば、日常的な生き方にも微妙に影響が出てくるであろう。

見逃せぬゼイタク

  ほかの国の大都市にくらべて東京には公園が少ないという。また散歩するに適した道路もあまりない。しかし近所を歩き回っていると、意外に快適な散歩コースを発見できることも確かである。散歩党の人々はそれぞれ自分の愛好するコースや、人通りの少ない時問帯を発見しているようである。

  私の発見した(?)コースにも、都内を数キロ歩いて自動車に出合うことがないというところだってある。また毎日行く近くの公園でも、これからの季節になると、五時過ぎにはほとんど人影を見ない。特に雨の降る午後などは、一時間近く歩いて人に出会わないですむのだから、これが杉並区内かと自分でも驚くぐらいのものである。野生の鴨たども人気がないから岸に上っているし、家鵬も地面に群がっている。しょうしょうとして池の対岸の森が雨に霞み、私の足もとから飛び立った鴨の群が水しぶきを上げて着水する様子などは、江戸時代の絵でも見るかの如くだ。

  かくして排気ガスと高能率の現代杜会からの離脱はいとも簡単に、しかも完全にできるのである。

時間的に現代を離れうるのみならず、空間的にも全く自由になる。私は時々、自分はスイスの高級保養地に休養に来て散歩しているのだと考えてみたりする。そんなところには行ったことは名いのだが、十分にその気分になって、その辺でヒルティやトマス・マンに出会う機会があるような気がしてくるのである。.もちろんそういう時にはヒルティの著作を思い返したり、トマス・マンの描く情景を目に浮べたりする。これは机の上で読むのとは違った味わい方でできる。読んだことが身につく感じなのだ。

  うっかり過していると都会では自然の推移に鈍感になりやすいのだが、毎日公園を歩いておれぼ、否応なしに微妙な変化に気づく。つい先頃まで緑の濃い夏木立に急に紅葉が見え出したのは何日か、ということまでわかってくる。そして十月はじめ頃の夜中に吹く二時問ぐらいの風で突如としてそれが起こるということに気付く。

  春ともなれぱ、日一日と花の蕾のふくらみ具合もわかる。おだやかな日和の時の桜もよいが、雨が降って人っ子一人いない雨中の花見もまた捨てかねる風情があるものである。

  いたづらに過ぐる月日は多けれど
  花みて暮らす春ぞ少なき


  これは『古今集』にある藤原興風(おきかぜ)の歌であるが、われわれが暢気な時代と思っていた平安朝の宮廷人も、なかなか忙しくてゆっくり花見などはできなかったものらしい。いわんや現代ではもっと忙しくなっているはずである。

  しかし私は、今年も去年もその前の年も、公園で毎日花見をしていた。公園の桜の枯枝に蕾がふくらみ、三分咲き、七分咲き、満開、葉桜、青葉、そしてまたその葉の散りはじめる今日まで、毎日見ていたのである。

  正確に言えぱ田舎に旅行して家を留守した何日かを除けば毎日見ていたと言ってよい。そして自分には平安朝の大宮人よりも時問的に余裕あるのかしらん、と思わず会心の笑みをもらすのである。
  世の中には権勢家も富豪も多いが、それは羨むに足りない。金はいくらでもあるという人はいても、蕾が葉桜にたるまでの毎日を花見できるほどの時間が自由になる人間はそんなにいたいであろう。しかも、この賛沢はタダなのであり、コーチも先達も装備も何もいらない。一寸した決心さえあれぱ誰にもできるのである。

  数学者の岡潔先生は、近頃の人は自分の家の庭の花でないと花を鑑賞できなくなったのではないかと嘆いておられるが、もしそうだとするならぱ嘆かわしい風潮というべきであろう。確かエマソソも言っているように、風景はこれを美しいと見る人のものなのであって、その土地の所有者とは関係がないのだ。それに自分の庭なら手入れも大変だが、公薗なら都で管理してくれるからありがたい話である。この点、自分のものでない木を見る方がかえって精神の自由には都合がよい。もちろんこれは負け惜しみに言っているのではなく、私の実感である。

  治安さえよければ、個人の大きな庭よりは公園の方がずっとよいのである。よき時代の欧米ではそうであった。ただ近頃は、欧米の公園の治安状態が極めて悪くなっているところが多いから、都市生活を断念して多くの人が郊外に逃げ出しているのである。日本は幸いにまだ治安がよい。誰でも夜中でも平気で歩くことができるのは、高度産業国家の首府の住民としては例外的な辛福を享受しているというべきであろう。この状態が続いてくれる限り、私は満足した市民である。

渡部昇一著『クオリティ・ライフの発想』(講談社)より

不都合な真実

2007-02-09 16:59:59 | 
ニューズウィーク日本版2月7日号で、地球温暖化の特集記事が掲載されていたが、日本のこの冬の暖かさも、やはり、地球温暖化の影響ではないかな、と思う。もうこの流れは止まらないのではないかと思う。いくら科学者が警鐘を鳴らしても、人間が欲望を追求し、快適さを求める、「煩悩的」存在である限り、地球の温暖化という現象は止まらないと思う。はなはだ悲観的であるが・・・・・。正直、もう遅いのではないかなとも思う。ニューズウィークのゴアへのインタビューで、地球温暖化阻止の「伝道師」ゴアが、「今、行動しないのは正気じゃない」と語っているが、多くの人には、よそ事のように思えるのではないか。みんな、自分のことで精一杯なのである。勿論、私もだが(苦笑)。根本的な意識改革はできないのではなかろうか。それこそ、出家するような心構えにでもならない限り、ちょっとした意識改革はできるかもしれないが、根本的な生活スタイルの変革はむずかしいと思う。ニューズウィーク誌のこの記事の中で、「ガイア理論」の提唱者ラブロックは警告する、「人類はエンジンの壊れた小さな船でナイアガラの滝に向かっているようなものだ。」と。地球は、そのような身勝手な人間にとって「不都合な真実」に直面させるべく、終末的な破滅へ向かって、休むことなく、進んでいくのだろう。


「宮崎正弘の国際ニュース・早読み」 平成19年(2007年) 2月8日(木曜日)号に、今、話題を呼んでいるアル・ゴアの映画「不都合な真実」を観た読者からの感想が掲載されていましたが、非常に詳しく内容を紹介されていて、なかなか面白いので、このブログにも転載させてもらいます。
http://www.melma.com/backnumber_45206/


(読者の声3)暇つぶしに『インコビニエント・ツルース』という映画を観に出掛けました。インコンビニエントとはコンビニの否定形だから便利でないという意味、ツルースはツルー(本当の)の名詞形だから、ふたつの単語をつなげると”便利でない本当”、これでは意味が通じず、辞書を引くとコンビニエントには、都合のよいという意味があり、そうすると、映画のタイトルの意味は”都合のよくない本当のこと”となります。席に着いて映画が始まるとテーマはすぐ”地球の温暖化”だと判り、タイトルの意味が解けました。 世界の二酸化炭素の三割以上を出すアメリカが、地球温暖化の主犯だと訴えているのです。 辞書を引かなくてもよかった。(苦笑)
スタジオと思しき場所に集められた人びとが、2000年の米大統領選挙でブッシュに敗れたアル・ゴアを取り囲んでいる映像が映し出され、ここが二時間近い映画の舞台でした。
大型ディスプレイに次々と映し出される写真、イラスト、図表、グラフを駆使して、ゴアが類まれなスピーチ力を武器に(これ自体たいへんな見物です)、手振り身振りを交えて、説得力とユーモアも具えた熱弁を理路整然と展開します。
ゴアは話の劈頭、「元、次期大統領のアル・ゴアです」 とジョークをまぶし、観客の爆笑を誘い、途中にアニメを挟んだり、ゴアが環境問題の講演で世界を駆け抜けている飛行場、機内、講演会場のシーン、昔の家族・故郷の古色的な処理をした映像を繰り返し挿入して、変化をつけたテンポのある進行で、高校生以上なら理解できる内容で、観るものを飽きさせません。

キリマンジャロ、アルプス、ヒマラヤなどの、世界各地の有名な雪山の数十年前と現在の写真を並べて、雪の多寡を見比べさせ、北極や南極の氷が解けて次々に崩れ落ちる衝撃的なシーンを映し出し、グリーンランド大陸の土台が解けた雪水に浸蝕され崩壊するさまをイラストで示し、海面上昇でサンフランシスコやニューヨークの水没する地域をその航空写真を塗りつぶして示し、深層海流の消滅とそれがもたらす表層海流温度の急激な変化を予想し、赤道での一度上昇は極点では十二度もの変化となると説き、早ければ10年後に地球(に棲息する人類)が破滅すると主張するのです。映画のタイトルが”本当のこと”と銘打っていながら、そりゃ何とかの”大予言”じゃないのとチャチャを入れたくなるのは私だけでしょうか。

ゴアの環境問題への取り組みは、俄か仕込みでなく学生・青年時代からだと丹念に解説し、小さいわが子が交通事故に遭ったことがその問題へゴアを向かわせた決定的な切欠になったとお涙頂戴的な箇所もあります。ゴアが育ったブラック・アンガス(肉用牛)の遊ぶ緑り豊かな牧場や水温む川の流れる田園風景が繰り返し写され、これを失いたくないという素朴な思いを訴えます。
しかしこの映画を学校の授業で使ったら、生徒の父兄が政治的なキャンペーン映画を教材にしたとその学校を訴えたよし。
たしかに、大統領選挙に出た男の活躍を宣伝し、主張をプレゼンテーションしている映画ですから、政治性が無いとはいえません。 フォードやGMの車の販売台数が落ち込み、トヨタ・ホンダの売れ行きが伸びるだろうと棒グラフで示されていて、反日プロパガンダも卒なく入れ込まれています。若い人ほど、ショックを受けるだろう映像や悲観的な大予言に満ちています。

これを観て想ったのは、先月アメリカのユタ州で行われた、米映画界のリベラル派の雄ロバート・レッドフォードが立ち上げたサンダンス映画祭で上映された「南京」のことです。
この映画のプロデューサー、AOL元副会長のテッド・レオンシスが、アイリス・チャンの「レイプ・オブ・ナンキン」を読み感動して、制作を思い立った映画です。
監督のグッテンターグはそれを肯定していないようですが、映画祭でこれを観た人から聞くと、 日本軍の残虐性を強調して描いた仕上がりになっているそうです。
その映像には、大戦中ハリウッドで作られた反日映画「バトル・オブ・チャイナ」の上海攻撃の映像がそのまま南京の戦闘シーンとして借用され、日本軍の残虐性を描く制作意図のもとに、都合のいい映像を修正編集している疑惑が拭えない作品です。
 つまり活字と偽装写真でつくられた噴飯アイリス本の映像化に他ならないのです。
アイリス本が噴飯物であることは、日本の名のある出版社が邦訳版の出版を忌避していて、未だに日本語で読めないことがその証左です。

映画「南京」はまだ観ていませんが、キャンペーン映画のクリーム(極み・精華)と言っていい出来栄えのゴア映画を観ると、アメリカは侮れない国だと思うのです。
ゴアの父親も政治家(上院議員)で、彼が副会長を務めたオクシデンタル石油の創始者アーマンド・ハマーの実父は米共産党の創立者で、ハマーはレーニン・スターリン他のボルシェヴィキと親交があり、ハマーの妻はCIAがソ連スパイと断定したロシア女性でした。 米の左傾勢力とゴアの主唱する環境運動が地下水脈で繋がっていて自由世界を溶かそうとしているのです。
映画「南京」には在米華僑人界がかかわっていて、彼らの背後にはペキン政府がいます。日本で孤軍奮戦している映画『南京の真実』の制作陣を応援する気持ちがふつふつと奮い立ってきました。
日本からの反撃映画の成功を祈らずにはいられません。
  (HN生、品川)