ニルヴァーナへの道

究極の悟りを求めて

マドンナ、アシュタンガヨーガのマントラを歌う

2008-05-13 07:06:52 | インド哲学


アシュタンガとは、ヨーガの根本教典、パタンジャリのヨーガスートラ第二章に説かれている八つの実践部門のことです。
ですから、アシュタンガヨーガとは、このヨーガスートラの八つを実践するヨーガということになります。
詳しくは、↓のページを見てください。
http://www.bsfuji.tv/yogatv/ashtanga.html
マドンナが、レイオブライトというアルバムの中で、「シャンティ、アシュタンギ」という歌で、アシュタンガヨーガのマントラを歌っています。
マドンナがラリーキングのインタビューでカバラについて聞かれたとき、

「I am a Kabbalist. Yes, I'd like too. There is definitely a Kabbalistic approach to life or a Kabbalistic point of view, but it's not different than a lot of other teachings. I study Hinduism; I study Buddhism; Taoism.」

と答えています。
マドンナは、カバラのみならず、宗教全般に興味を持っていることが分かります。

それで、このアシュタンガヨーガのマントラの歌ですが、日本で発売されているCDに付いている日本語訳ではこのマントラの深淵な意味は分からないでしょう(笑い)。

「グルの教えにそって
自己の目覚めに至福を見出す
(ここまではいいと思いますが、その次がいけない。)
弱肉強食のこの世
生き残るために良心を捨ててきた
医者のように心の回復を目指す」

これでは、何のことだか分からなくなるでしょう。

「至高のグルよ、その蓮華の御足にひれ伏して祈ります。
グルは純粋な存在に目覚める喜びを教え、
密林の薬草医のごとく
限りある存在の迷いという毒を消してくださいます。」

やはり、このぐらいの訳をつけてくれないとこの歌の意味が分からなくなる。
↓のキャメロンさんのブログにアシュタンガヨガのマントラとその訳が掲載されています。
http://embodiedsouljp.blogspot.com/
このマントラの核は、
「限りある存在の迷いという毒を消してくださいます。」
だと思いますが、英訳では、
「Pacifying delusion, the poison of samsara.」
となっていますが、私は、思い切って

「輪廻の罠という幻影を打ち破る。」

と訳したい。

Shanti / Ashtangi - Madonna (Photo Video)






宮元啓一先生のインド哲学五部作

2008-01-10 13:41:04 | インド哲学



宮元啓一先生の掲示板によれば、
インド哲学者の宮元啓一先生の本が、今年の前半に五冊でるそうです。
インド哲学五部作ということだそうです。

2月の上旬に『インド人の考えたこと----インド哲学思想史講義』
3月には『インドの「一元論哲学」を読む----シャンカラ『ウパデーシャサーハスリー散文篇』』
続いては『インドの「二元論哲学」を読む----イーシュヴァラクリシュナ『サーンキヤ・カーリカー』』、
『インドの「多元論哲学」を読む----プラシャスタパーダ『パダールタダルマ・サングラハ』』、
『インド哲学の教室----哲学することの試み』

がすべて春秋社から出版されるそうです。

インド哲学に興味を持ち出したのは、オウムの本を読み始めてからでした。
それまでは、まったくといっていいほどインド哲学には興味は湧かなかったですね。
仏教関係の本は読んでいましたが。
まあ、仏教もインド哲学の中に含まれるのですが・・・・。
仏教以外のインド哲学全般には興味は湧かなかったということです。
しかし、オウムの本を読み始めてから、俄然、インド哲学に興味が出てきた(笑)。
やはり、サーンキヤ的な真我論がオウムの本の中で論じられていたからではないかなと思っています。
オウムの説法によって、頭の中がインド哲学を受け入れる環境ーーインド哲学モードーーになってきたのでしょう。
かつて、鈴木邦男さんは、本格的な活字の読書をする前の準備体操として、マンガを読むのだ、と語っていたときがありました。
オウムの本も、鈴木邦男さんの言葉を借りていえば、本格的なインド哲学の世界へ没入するための準備体操としての刺激剤、あるいは触媒の役割を果たしていたのかもしれません。
そういう意味では、オウムに感謝ですかね。

宮元先生の今年前半に出るインド哲学の本のなかで、最も興味があるのは、やはり、インドの二元論哲学サーンキヤ・カーリカーをどのように解釈しているのかな、というところですね。
サーンキヤ哲学の解脱論は非常に面白い。
本来、プルシャは独存の状態にあった。
しかし、何かの原因によって、プルシャ(真我)は、物質原理であるプラクリティーが開展したところの現象世界に魅惑されて、この現象世界に巻き込まれて輪廻転生を続けている。
それが、現実のわれわれの姿というわけですね。
しかし、正しい知識によって、プルシャが自分自身の本来の姿を見出すとき、そのとき、その「正しい知識」によって解脱するというのです。
わたしが、サーンキヤ哲学に惹かれるところが、まさに、ここなんです。

中村元先生の「ヨーガとサーンキヤの思想」(春秋社)という本中では、次のように訳されています。





「この清浄な純粋の知によって、(根源的思惟機能・自我意識などの諸原理を)生み出すことを停止し、目的の力によって、七つのすがたを停止した根本原質を、プルシャは、安住し、寛いで、観覧者のごとくに眺める。
一方のもの(プルシャ)は、「わたしは見た」といって無関心となる。
他のもの(根本原質)は、「わたしは見られた」、と思って活動を休止する。
たとえ両者が結びつくことがあったとしても、これからさらに世界創造をなすための動機は存在しない。
完全知を証得することによって、功徳などがもはや原因として作用することがなくなったときにも、潜勢力(業の力)によって、なお身体を持続する。ーーあたかも陶工の輪が材料としての粘土を取り去ったあとでも回転し続けるように。
身体が壊滅したときに、目的がすでに達成されたのであるから、根本原質は活動を休止する。
そのときに、プルシャは確定的であり、また究極的であるという両者の特質をそなえた独存(kaivalya=解脱)を達成する。」


この箇所は、何回読んでも、感銘を受けます。
プルシャ側の、「無関心」、ここらあたりが、解脱のキーポイントでしょうか・・・・・。

ところで、バグワン・シュリ・ラジニーシ(OSHO)は、「瞑想」(めるくまーる)の中で、サーンキヤについて語っているところがありますので、ここに紹介しておきます。さすが、和尚、なかなか鋭い。



「実際、この世には宗教はただ二つしかない。ヨーガとサーンキヤだ。しかしサーンキヤはごくたまに少数の人たちの興味しかひかなかった。だから、あまり多く語られることはない。クリシュナムルティが新しく独創的にみえるのはそのためだ。が、彼はべつに独創的ではない。サーンキヤがあまり知られていないからそうみえるだけのことだ。
 ヨーガだけが知られている。世界中にヨーガのアシュラムやトレーニング・センターがあり、ヨーガ行者たちがいる。努力の伝統たるヨーガは知られている。一方、サーンキヤは全然知られていない。クリシュナムルティは新しい言葉などただの一言も言ってはいない。だが、私たちが、サーンキヤの伝統になじんでいないためにそれは新しくみえる。私たちのおめでたい無知のおかげで「革命家」が存在しているという次第だ。
 サーンキヤ(Samkhya)というのは、<知>のこと。知ることだ。サーンキヤはこう言う、
「知ることだけで充分。覚醒だけでことは足りる。」
 しかし、これら二つの伝統はまさに弁証法的なのだ。私にとってそれらは対立するものではない。私にとってはそれらは弁証法的で、「統合」が可能なものだ。その「統合」を私は「努力を通しての無努力」と呼ぶ。サーンキヤを通してのヨーガ、ヨーガを通してのサーンキヤ、行為を通しての無為だ。現代ではこれら二つの対極、弁証法的伝統はそれぞれひとつだけでは役に立たない。あなたはサーンキヤを達成するためにヨーガを活用することができる。そして、サーンキヤを達成するためにはヨーガを活用しなければならないのだ。」

なるほど、クリシュナムルティーはサーンキヤを語っていたのか・・・・・。いまも、精神世界に大きな影響力を持ち、たくさんの信奉者を抱えているクリシュナムルティー。彼は、サーンキヤの哲学を現代的にアレンジにして語っていたというわけですか。それであれだけの影響力を及ぼすことができるのか。人間の精神の深層に訴えかける思想、哲学というものの力を再認識した思いです。
そしてまたなるほどなあー、と思ったのは、サーンキヤだけでは駄目だ、と語っているところですね。さすが、和尚と呼ばれるだけのことはある(笑)。サーンキヤとヨーガを二つ取り入れなければ独存へは至らないということですね。哲学的思索と瞑想の二つが独存への道には、必要不可欠だということですね。

宮元先生は、掲示板で、

「わたくしは自己(アートマン、プルシャ、self)の実在を確信しておりますので、自己の実在をかたくなに拒否されておられる方々(無我説肯定論者)には以上の書籍はお薦めいたしません」

と書かれていますが、わたしの立場は、宮元先生とは、ちょっと違うかな、と思っています。
現在、ロバート・サーマン教授の本にかなり影響を受けており、仏教的な考え方になっています。

【手軽に入手できるインド哲学参考書】

このブログを読んでいただいている方の中には、インド哲学にはあまりなじみがないが、もっと学んでみたいと思われる人もおられるのではないかと思い、その方々ののために、分かりやすい参考書を紹介させてきらいます。

「はじめてのインド哲学」立川武蔵著(講談社現代新書)




わたしがはじめて読んだインド哲学入門書です。
インド哲学の源泉であるヴェーダとウパニシャッドの世界から、仏教誕生を経て、インド哲学の主要学派であるインド六派哲学の出現、そして大乗仏教、密教までの、それぞれの学派の理論の基本的考え方を、非常に分かりやすく、懇切丁寧に教示してくれている。インド思想、哲学の中で、仏教はどのような位置を占めているのか、又、他のインド哲学諸派との思想的差異などが説明されており、仏教をインド哲学全体の中で眺めることができる。
現在でも、インド哲学の入門書として、第一位に挙げたい。
この本は、以前やっていた掲示板で、インド哲学の参考書として紹介したとき、その当時掲示板に書き込んでくれていたオリーブの栄光さんから感謝された本でもあるのです(笑)。

「ヨーガの哲学」立川武蔵著(講談社現代新書)




著者の立川先生は、アメリカ留学中にヨーガの魅力に目覚められ、帰国してから、エリアーデの「ヨーガ」(せりか書房)を翻訳された。
この本の中で、古典ヨーガの考え方、世界観、そして目的や、この思想的背景ともいうべきサーンキヤ哲学の理論を解説している。さらに、古典ヨーガの根本経典である「ヨーガ・スートラ」の哲学を解説している。そして、現在のヨーガブームの背景になっている、心の統御よりもむしろ身体の統御をメインにおいているハタ・ヨーガの基本的な考え方や行法を解説している。最後に、ヨーガの起源からはじまって、初期仏教への影響など、歴史的な思想的展開を描いている。ヨーガ学派の思想や基本的な行法を学ぶことができる。
わたしはこの本によって、サーンキヤ哲学とヨーガ学派との関係をかなり詳しく知ることができた。

それでは、最後に、かつて和尚の弟子(サニヤシン)となったこともある喜納昌吉さんの代表曲である「花~すべての人の心に花を~」を貼り付けておきます。わたしの好きな曲です。

夏川りみ - 花(すべての人の心に花を)







シヴァの踊りー2

2007-03-24 16:55:13 | インド哲学
シヴァ・ナタラージャの、あの独特の姿は、一体何を表しているのだろうか、という疑問に、ツィンマーは明快に答えてくれています。この解説には、むずかしいところもありますが、なるほど、そういうことだったのか、とかなり理解が深まるのではないかと思っています。
↓のページでナタラージャの姿を一つ一つ確認しながら、読んでいくと、より理解がしやすくなると思います。
http://www.lotussculpture.com/nataraja1.htm

Shiva-Nataraja is represented in a beautiful series
of South Indian bronzes dating from the tenth and
twelfth centuries A.D.(Figure 38.) The details of
these figures are to be read, according to the Hindu
tradition, in terms of a complex pictorial allegory.
The upper right hand, it will be observed, carries
a little drum, shaped like an hour-glass, for the
beating of the rhythm. This connotes Sound, the vehicle
of speech, the conveyer of revelation, tradition,
incantation, magic, and divine truth. Furthermore,
Sound is associated in India with Ether, the first of
the five elements. Ether is the primary and most subtly
pervasive manifestation of the divine Substance.
Out of it unfold, in the evolution of the universe,
all the other elements, Air, Fire, Water, and Earth.
Together, therefore, Sound and Ether signify the first,
truth-pregnant moment of creation, the productive energy
of the Absolute, in its pristine, cosmogenetic strength.

シヴァ・ナタラージャは、紀元後十世紀、十二世紀の南インドの一連の美しい青銅において表出されている(図38)。これらの図像の細部は、ヒソドゥーの伝統にしたがって、複合的で絵画的な教訓との関連で読み取られなけれぽならない。上の右手は、リズムを刻むための、砂時計のような形をした太鼓を持っていると観察されるであろう。これは、音と、言語の乗物と、発露、伝承、呪文、魔術、神的な真実の運び手を内包する。さらに、音は、インドでは、五元素の最初のものである虚空と結びついている。虚空は、神的な実体の、原初の、そして最も微妙に遍満している顕現である。
宇宙の開展において、虚空から、風、火、水、地という、すべての他の元素が開展する。したがって、音と虚空とは相伴って、原初の宇宙生成の力にある、絶対者の創造エネルギー、創造の最初の真実をはらんだ瞬問を意味している。

The opposite hand, the upper left, with a half-moon
posture of the fingers (ardhacandra-mudrd), bears on
its palm a tongue of flame. Fire is the element of
the destruction of the world. At the close of the Kali
Yuga, Fire will annihilate the body of creation, to
be itself then quenched by the ocean of the void.
Here, then, in the balance of the hands, is illustrated
a counterpoise of creation and destruction in the play
of the cosmic dance. As a ruthlessness of opposites,
the Transcendental shows through the mask of the enigmatic
Master: ceaselessness of production against an insatiate
appetite of extermination, Sound against Flame. And
the field of the terrible interplay is the Dancing
Ground of the Universe, brilliant and horrific with
the dance of the god.

指で半月の形を作った(ardhacandra-mudra)反対の上の左手は、掌に炎の舌を担っている。火は世界の破壊の元素である。カリ・ユガ期の終わりには、火は創造の身体を破滅させ、それから自らは、空なるものの海によって消し去られるであろう。それから、ここでは、手のバランスにおいて、宇宙の踊りの演技における創造と破壊との均衡が例証されている。反対物の相い容れなさとして、超越的なものは、不可解な主の仮面を通して、終末の飽くことのない食欲に対する創造の、また炎に対する音の絶え間なさを示している。また、恐ろしい相互作用の領野は、神の踊りで光輝いている恐ろしい宇宙の踊り場である。


The "fear not" gesture (abhaya-mudrd), bestowing
protection and peace, is displayed by the second
right hand, while the remaining left lifted across
the chest, points downward to the uplifted left foot.
This foot signifies Release and is the refuge and
salvation of the devotee. It is to be worshiped for
the attainment of union with the Absolute. The hand
pointing to it is held in a pose imitative of the
outstretched trunk or "hand" of the elephant (gaja-hasta-mudra),
reminding us of Ganesha, Shiva's son, the Remover of
Obstacles.

守護と平安を授げる「施無畏」印(abhaya-mudra)が第二の右手によって示されているのに対して、残りの左手は、胸を横切って上に上げられ、下向きに、上げられた左足を指している。この足は解脱を意味し、帰依者の避難所と救済になっている。それは、絶対者との合一の達成のために崇拝されなげれぼならない。その足を指している手は、象の伸ばした鼻、ないし「手」に似た怜好(gaja-hasta-mudra)をLており、シヴアの息子であり、障害物の除去者であるガネーシャを思い起こさせる。

The divinity is represented as dancing on the prostrate
body of a dwarfish demon. This is Apasmara Purusha,
"The Man or Demon (purusa) called Forgetfulness, or
Heedlessness (apas-mdra)." It is symbolical of life's
blindness, man's ignorance. Conquest of this demon lies
in the attainment of true wisdom. Therein is release
from the bondages of the world.

この神は、小さな悪魔の平伏した体の上で踊っているものとして表出されている。この悪魔は、アパスマーラ・プルシャ、「忘却、ないし不注意(apasmara)と呼ぱれる人、ないし悪魔(purusa)」である。それは、生の盲目性、人問の無明を象徴している。この悪魔に対する征服は、真実の智慧の達成にある。そこには、世界の束縛からの解脱がある。


シヴァの踊り

2007-03-23 22:17:41 | インド哲学
「シヴァの踊り」が出てきましたので、参考のため、有名なインド学者ハインリッヒ・ツィンマーの名著「Myths and Symbols in Indian Art and Civilization 」の中で展開されている「シヴァの踊り」に関する記述の中の、最初の箇所を引用紹介させてもらいます。原文とこの本を翻訳された宮元啓一先生の翻訳文の両方です。なかなか力強い文章です。
訳者あとがきで宮元啓一氏曰く、

「えてして、インド研究者は、文献に強い人は図像学に弱く、図像学に強い人は文献に弱いという傾向にある。そうした中で、ツィンマーは、文献にも図像学にも強いという、まことに稀有の学者であったということができる。神話と図像を通して、キリスト教的伝統に染まった西洋人に対して、それとはまったくといってよいほど発想の異なるインド思想の原点を熱烈に説いている本書は、まさに名著中の名著であるといって過言ではない。
・・・・原文は、論旨は明快そのものなのであるが、恐るべき美文調で書かれており、読める日本語に移し換えるのにかなり苦労させられ・・・・
 なお、本文は、美文調ということを除けば極めて分かりやすく書かれており、例えばテクニカルタームの類が出てきても、必ずその直後に、適切な定義、ないし敷衍的な説明が付けられている。であるから、本書は、基本的には、注釈なしでも十分理解が可能である。」

なお、三島由紀夫も、「豊饒の海」を執筆するとき、インド哲学やヒンドゥー教関連のことを調べる際、このツィンマーの本を参考にしたと語っていました。さすがです。

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編集部 たまたま三島さんの近著『暁の寺』が出たばかりですので、それについて武田さんから口火を切っていただけますか。

武田 『暁の寺』は、仏教理論、ことにヒンズー教を詳しく書いていますね。

三島 あれは外人の本で読んだんです。ヒンズーイズムのは、日本ではあまりいいのはないんじゃないでしょうか。P.トーマスという人の『ヒンズー・レリジオンーーカスタム・アンド・マナーズ』という本や、ハインリッヒ・ツィンマーの『ミスズ・アンド・シンボルズ・イン・インディアン・アート・アンド・シヴィライゼーション』という本や、そういうのを、三、四冊読みました。

武田 あれはしかし、よっぽど勉強家でなくちゃ、あそこまで徹底的にやれないわね。

三島 僕はしかし、ベナレスのシーンは、『豊饒の海』四巻のうちの、一番クライマックスのつもりで書いたんですけれどもね。ベナレスほど恐ろしいものを僕はちょっと見たことがないような感じがしましたね。あそこに行って、すべての文化があそこから、あのドロドロした、あれをリファインすると文化になってくるというその大元を見ちゃったような気がして、こんな、素(もと)を見たらたいへんだという感じがしましたね。

■三島由紀夫対談集『源泉の感情』(河出文庫)より

<参考資料>
三島の自決事件にせまるー1
三島の自決事件にせまるー2
三島の自決事件にせまるー3
三島の自決事件にせまるー4
三島の自決事件にせまるー5
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The Dance of Shiva

シヴァの踊り

SHIA, the lord of the lingam, the consort of
Shakti-Devi, also is Nataraja, "King of Dancers."

リソガムの主、シャクティ・デーヴィーの配偶神であるシヴァは、またナタラジャ、「踊り手の王」でもある。

Dancing is an ancient form of magic. The dancer
becomes amplified into a being endowed with
supra-normal powers. His personality is transformed.
Like yoga, the dance induces trance, ecstasy,
the experience of the divine, the realization of
one's own secret nature, and, finally, mergence
into the divine essence. In India consequently
the dance has flourished side by side with the
terrific austerities of the meditation grove-fasting,
breathing exercises, absolute introversion. To work
magic, to put enchantments upon others, one has first
to put enchantments on oneself. And this is effected
as well by the dance as by prayer, fasting and meditation.
Shiva, therefore, the arch-yogl of the gods, is
necessarily also the master of the dance.

踊りは、魔術の古代の彩態である。踊り手は、超常的な力を傭えた存在へと拡大されたものになる。踊り手の人格は変形される。ヨーガのように、踊りは、忘我、エクスタシー、神的なものの体験、自らの秘密の本性の認識、そして最終的には、神的な本質への没入をもたらす。インドでは、結果的に、踊りは、瞑想の森の恐ろしい苦行ーー断食、呼吸法、絶対的な内向ーーと相並んで栄えてきた。魔術を行ない、他人を魅了するためには、まず自らを魅了しなげればならない。そして、この効果は、踊りばかりではなく、祈祷、断食、瞑想によっても計られる。したがって、神々の原
ヨーギーであるシヴァは、必然的にまた、踊りの主でもある。

Pantomimic dance is intended to transmute the dancer
into whatever demon, god, or earthly existence he
impersonates. The war dance, for example, converts
the men who execute it into warriors; it arouses
their warlike virtues and turns them into fearless
heroes. And the hunting-party dance-pantomime,
which magically anticipates and assures the successes
of the hunting party, makes of the participants
unerring huntsmen. To summon from dormancy the
nature-powers attendant upon fruitfulness, dancers
mimic the gods of vegetation, sexuality, and rain.

無言の踊りは、踊り手をして、何ものであれ、自らが扮する悪魔、神、地上の存在へと変貌せしめることを意図している。例えぼ、戦の踊りは、それを演ずる人びとを戦土へと転換する。それは人びとの好戦的な性格を喚起し、人びとを恐れを持たない英雄へと変える。また、狩猟の成功を魔術的に期待し、確実なものとする狩猟の踊りの黙劇は、この踊りへの関与者を、過たない狩人にする。実りの豊かさに付随している自然の力を眠りから喚起するために、踊り手は、生長と性欲性と雨の神々を模倣する。

The dance is an act of creation. It brings about
a new situation and summons into the dancer a new
and higher personality. It has a cosmogonic function,
in that it arouses dormant energies which then may
shape the world. On a universal scale, Shiva is
the Cosmic Dancer; in his "Dancing Manifestation"
(nrityamurti) he embodies in himself and
simultaneously gives manifestation to Eternal Energy.
The forces gathered and projected in his frantic,
ever-enduring gyration, are the powers of the
evolution, maintenance, and dissolution of the world.
Nature and all its creatures are the effects of his
eternal dance.

踊りは創造の行為である。それは新しい状況をもたらし、踊り手に、新Lくてより高度な人格性を喚起する。それは宇宙生成の機能を有する。すなわち、それは、世界を形成しうる眠っているエネルギーを喚起する。宇宙的な規模で、シヴァは宇宙の踊り手である。その「踊りの顕現」(nrtyamurti)において、シヴァは自らの内に顕現を具現化し、同時に、永遠のエネルギーに顕現を与えている。シヴァの狂おしく永続する旋回において集積され投影された力は、世界の開展、維持、融解の力である。自然とその一切の生類は、シヴァの永遠の踊りの結果である。