かかってくるはずのない電話、かけてくるはずのない人からの電話に出るって怖くないですか??
「応答」を押すまでの何秒かの間に、人間てこんなにたくさんの思いが頭の中をかけめぐるんだ!!と思った。
携帯の画面には、先月から入院しているSちゃんの名前が!
こんな時間に?動けないはずだけど?さっきメールしたよね?急用?お孫ちゃんのお守りの依頼か?
いや、携帯OKのエリアまで動けていたならそれで良し。むしろ彼女の声であれば良し・・・
しかし息子さんの声だった。容態が急変したという。そんなバカな!何時間か前にメールもらってたのに!
急ぎ病院にかけつけると、もう「延命措置」の状態だった。
口から肺に空気を送り込む管が挿入され、あくる日は目の乾燥を防ぐために両目はパッドで覆われていた。
「もうNちゃんとお話しもできない、顔も見ることもできないよ」と言っているようなSちゃんの姿は衝撃だった。
2日後力尽きた。
額に置いた手に微妙な冷たさがjiジワジワと伝わってくるようで・・・本当のさよならだ。
不謹慎かもしれないが私はホッとした。早くゆっくりと休ませてあげたかったから。
この10数年入退院を繰り返し、その都度頑張って乗り越えてきた。今回も「なんとかまた頑張るよ」と、
いつものように弱音は吐かなかったが・・・本心は分からない。ちょっとキツいなと感じていたかもしれない。
でも絶対「あの日」に逝ってしまうとは、彼女はこれっぽっちも思ってなかったと思う。
先に逝った二人の友も同じだった。
Mちゃんは、結石の痛みで入院、痛み止めにモルヒネを投与されたあくる朝ベッドの中で冷たくなっていた。
Jちゃんは帰宅してエコノミー症候群で突然死した。
七転八倒の苦しみはなかったかもしれない。迫り来る死への恐怖もなかったかもしれない。
でも言っておきたいこと、やっておきたいことを残してしまう。
「幸せな逝き時」ではないのが辛さを強くする。
・・・万全な終活、自分がいなくなっても誰も困らない、大きな悲しみを残さない、
安心して逝くことができる。人生の締めくくり方としての理想・・・
ひょっとしたら人生の最大の幸せなのかもしれない。
葬儀の帰り道って、なんでこんなに虚しいんだろう。
遺った私達は葬儀場をあとにして、各々の生活に戻る現実→「それぞれの日常を更新していく」というのだ!と誰か言ってた。
人間の内の“気持ちのきりかえ”の容赦の無さに打ちのめされてしまう。
Sちゃん、たまには夢に出てきておしゃべりしよう! 30年間ありがとうね。
合掌。
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