僕は半沢直樹を見ていませんが、土下座と言ったら半沢直樹というイメージですよね。
屈辱を味わうとか、屈服させるとか。
しかし、ちょっとおもしろい土下座があります。
和辻哲郎の土下座です。
青空文庫で読めます。リンクを貼っておきますね。
ある男(多分、和辻哲郎自身)が、地域の医者であった祖父の葬式に行きました。
葬式が終りに近づいて、自分の父親と二人で、入り口に出た。
そこでぞろぞろと帰っていく会葬者に挨拶するために、入り口で土下座をした。
ちょっと引用しますね。
やがて式がすんで、会葬者がぞろぞろと帰って行きます。
狭い田舎道ですから会葬者の足がすぐ眼の前を通って行くのです。
靴をはいた足や長い裾と足袋で隠された足などはきわめて少数で、多くは銅色にやけた農業労働者の足でした。彼はうなだれたままその足に会釈しました。
せいぜい見るのは腰から下ですが、それだけ見ていてもその足の持ち主がどんな顔をしてどんなお辞儀をして彼の前を通って行くかがわかるのです。
ある人はいかにも恐縮したようなそぶりをしました。ある人は涙ぐむように見えました。
彼はこの瞬間にじじいの霊を中に置いてこれらの人々の心と思いがけぬ密接な交通をしているのを感じました。
実際彼も涙する心持ちで、じじいを葬ってくれた人々に、というよりはその人々の足に、心から感謝の意を表わしていました。
そうしてこの人々の前に土下座していることが、いかにも当然な、似つかわしいことのように思われました。
これは彼にとって実に思いがけぬことでした。
彼はこれらの人々の前に謙遜になろうなどと考えたことはなかったのです。
ただ漫然と風習に従って土下座したに過ぎぬのです。
しかるに自分の身をこういう形に置いたということで、自分にも思いがけぬような謙遜な気持ちになれたのです。
彼はこの時、銅色の足と自分との関係が、やっと正しい位置に戻されたという気がしました。
そうして正当な心の交通が、やっとここで可能になったという気がしました。
それとともに現在の社会組織や教育などというものが、知らず知らずの間にどれだけ人と人との間をへだてているかということにも気づきました。
心情さえ謙遜になっていれば、形は必ずしも問うに及ばぬと考えていた彼は、ここで形の意味をしみじみと感じました。
明らかに、半沢直樹の土下座とは質が違いますよね。
この土下座のポイントは、屈辱や屈服ではなく、謙虚になって感謝の気持ちを表すということです。
そして、面白いことは、謙虚な気持ちが先にあったわけではない。
土下座することによって、後になってから謙虚な気持ちが生まれていることです。
太字のところを、もう一回読んで見てください。
謙虚な気持ちがあれば、型は重要ではないと、最初、筆者は思っていました。
まったく僕もそう思っていました。
しかし、逆なのです。型が心を作り、その心を表すのです。
このことが意味しているのは、型の重要性です。
身体や言葉を型に合わせることによって、気持ちが生まれてくる。
また、最初から、感謝の気持ちがあったとしても、その気持は誰もわかりません。
きちんと表さなければね。
僕たちの日常生活に即して考えれば、
とりあえず「ありがとう」と言ってみることです。
感謝の気持が、あったにせよ、なかったにせよ。
気持ちは後でついてきます。
まず、自分を型にはめてみることが、重要なんですね。