フリードリヒの日記

日常の出来事を、やさしい気持ちで書いていきたい

オラクル・ナイト ポール・オースター

2010年11月29日 00時07分34秒 | 読書・書籍

 「言葉の呪術性」というものを信じるか信じないかはともかく、ポール・オースターの小説は人の何かを微妙に狂わせる麻薬のようなものがある。現実と物語の世界の垣根が曖昧になって、知らない間に物語の中に引きずりこまれている。読むこと自体が奇妙な体験となる。

 よく人のことをあれこれ詮索してその人の人生にズカズカと入り込んでくる人がいるが、そのような人を見るといつも軽薄で底の浅い人なんだなぁという感じがする。もし生きることの不可解さと人生の深遠を知っている人なら、簡単に人の人生に踏み込むことはできないはずだ。何かを知るということは一時的な好奇心は満たされるが、何かを傷つけ失うことでもあるからである。

 小説家である主人公のシドは妻が精神的に不安定になっていることを感じ取る。そこには、自分には隠された何かがある。日本の昔話に出てくるような秘密をもったきれいな妻。秘密を知れば、妻は自分のもとから去っていってしまうのが、日本の昔話で繰り返されるパターンである。
 しかし、彼は小説家らしく手持ちの事実から彼女の過去を推測し一つの物語を作る。そのよくできた最悪ともいえる物語は、彼にとってはそれが真実になる。 
 言葉の呪術性。

 この小説家を主人公にした物語は、彼がポルトガル製の青いノートを手にしたところから始まる。そのノートに様々な物語が書かれることになる。

わかってます。すべて僕の頭の中の問題だって言うんでしょう。僕だってそうじゃないとは言えませんけど、とにかくあのノートを買って以来、何もかもが無茶苦茶なんです。僕がノートを使っているのか、ノートが僕を使っているのか、それさえわかりません。これって意味を成していますかね?」

 早速、ポール・オースターの「幻影の書」を図書館から借りてきて、読み始めている。彼の小説は麻薬のような中毒性がある。だから、近づかない方が身のためかもしれない。

 


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昔話の「見るなという禁止」

2010年11月23日 22時08分29秒 | 社会・政治・思想哲学

 日本の昔話に繰り返しあらわれるテーマに、「見てはいけない」という禁止がある。
 例えば、鶴の恩返し、雪女などが有名である。そして、昔話において、その禁止は破られるために語られる。多くの場合、見てはいけないと禁止するのは女性=妻で破るのは男=夫であり、見られると女は男から去っていってしまう。

 昔話は、民族的無意識である。なぜなら、様々な昔語が語られるわけであるが、現代にまで残っているものは、人々が長い時間をかけて変化をつけて作り上げたり、また選び取ってきたものであり、民衆の生活の感情や感想が染み込んでいるものだといえるからである。とすると、見るなとの禁止とそれを破るということには何らかの意味があるに違いない。


 
山のふもとの集落にいくとよく分かるが、人間の住んでいる世界と自然=動物のすんでいる世界には、歴然として境界線がある。

 この間、鷹ノ巣山に登ったが、登山口に看板があり、それは「11月6日にこの付近に熊が出た」との注意であった。この看板が私たち人間に、これから入る山は動物の世界なのだ、と知らせているようであった。
 暗黙の了解として、熊は人間の世界には入ってはいけない動物であり、逆に熊のいるような深い森には人間は立ち入ってはいけないとの、決まりがあるのだろう。
 異類婚は、まさしく自然(動物)と人間の交差する場面を象徴しているように思える。
日本の異類婚の昔話は、自然界と人間界の境界線の話だといえそうである。動物だと分からないうちは、そのままでもいいが、自然界の動物であることが分かった時点で追放されるもしくは去って行ってしまう。
 交わることはゆるされないのである。

 

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シャーマニズムと憑依現象

2010年11月23日 00時26分20秒 | 社会・政治・思想哲学

 私の興味を引く面白いニュースがあった。少し引用する。

先日、カリブ海の国トリニダード・トバゴにある学校で、女子生徒17人の意識が突然混濁した状態に陥るという不可解な事件が起きた。生徒たちは意味不明の言葉を発すると共に異常に力が強くなり、学校側は教会から神父を呼んでお祓いをした上で病院へ搬送。幸い身体的に深刻な状態の生徒はいなかったようだが、その様子を目の当たりにしたほかの生徒の間では「悪魔が憑依した」と囁かれているという。  

 集団でこのような状態になることが、頻繁に起るかどうかはよくわからないが、精霊が憑依するといったことは、日本ではよく起る。
 巫女は自分の身体に精霊を導き入れることができるといわれている。恐山のイタコもその一種である。

 
 柳田国男の「妹の力」も同じような現象である。
 「妹の力」とは、、古代日本における、女性の霊力に関する一種の呪術的な信仰。
 「妹」は生物学上・社会学上の定義における妹ではなく、母、姉、妹、伯母などの同族の女性、妻、側室、恋人など近しい間柄の女性に対する呼称を指す。

 
 柳田国男は岩手県の山村で、裕福な旧家の六人兄妹が一時的に発狂した事件を書き記している。

 発病の当時、末の妹が13歳で、他の5人はともにその兄であった。不思議なことには6人の狂者は心が一つで、しかも13の妹がその首脳であった。たとえば、向こうから来る旅人を、妹が鬼だというと、兄たちの眼にもすぐに鬼に見えた。打ち殺してしまおうと妹が一言いうと、5人で飛び出していって打ち揃って攻撃した。屈強な若者がこんな無法なことをするために、一時はこの川筋には人通りが絶えてしまったという話である。 

 日本のような母型社会では、無意識的に女性が男を操るということが起りうる。それを霊力というかどうかは別として、男性が女性から何かしらのエネルギーを与えられるただ、どの女性でもそのような力があるかというとそうではなく、やはりある種の特殊な能力が必要である。
 
 このように現実の世界から妄想・空想の仮想世界に転換させる何かが実際にあることは確かである。霊がいるかいないかは別として。
 それが科学的に脳の機能から説明できるようになる日がくるだろう。 

 

 

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鷹ノ巣山

2010年11月21日 23時11分52秒 | 登山

 最近、文学にネイチャーライティングという分野があることを知った。自然環境をめぐるノンフィクション文学と定義されるとのことだ。詳しいことはよくわからないが、単に自然を描写するだけでないのはたしかだ。
 
 今朝、薄闇の中で怪しく輝く満月がとても素晴らしかった。あの満月のすごさを文章で表現するのは難しい。その意味で、文章は満月の美しさを客観的に伝える場合には、写真や映像より劣る表現方法といえる。文章は満月の素晴らしさを客観的に描写するよりも、むしろその満月を見たことによって、人間の心がどのように影響されたかといった心理描写や関係性を表現するのに適している。

 

 いつも山に登ると、この気持ちのいいすがすがしい体験をどのように表現したらいいのかなぁと考えてしまう。それには、自然が私に与えてくれた何かを正確に感じ取らなければならないだろう。その「何か」を掴み取ることが、表現する以前にやらなければならないことだと思っている。落ち着いた気持ちで味わうように物事や心を観察しなければ、すぐに消えてしまう「何か」を掴み取ることはできない。



 


 落ちそうで落ちない薄紅の葉が、まるで花のように渓谷の庭園を囲っている。憂鬱な冬の到来を知らせるように、その葉たちが秋の深まりを感じさせる。
 美しさにもかかわらず、深く落ち込んでいく鬱々とした今の気分も、辺りが真っ白な雪になればリセットされてしまうから不思議である。



 山頂近くの樹木の葉は、完全に落ちていた。中年のはげた頭みたいになっている。ハゲだって見方によれば、なかなか美しいものである。



 雪がちらほら降っているようだ。山はいつでも季節を先取りしている。もういつの間にか知らないうちに冬になっている。



 昔の古い鷹ノ巣避難小屋で幽霊をみたという話を聞いた。しかし、このきれいな今の避難小屋に幽霊は出そうにない。
 いつかここに泊まろうと思っている。

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博士の愛した数式 小川洋子

2010年11月20日 22時35分54秒 | 読書・書籍

 「博士の愛した数式」小川洋子著、を読む。
 この小説のおかげで、穏やかで心温まる素晴らしい休日が過ごせたと思う。
 
 小川洋子氏は、「物語の役割」という新書の中でフランスの作家を引用してこういっている。

「書くこと、文章に姿をあらわさせること、それは特権的な知識を並べることではない。それは人が知っていながら、誰ひとり言えずにいることを発見しようとする試みだ」と。
 なるほど、と深く同意する。自分の周りにある様々な現実を注意深く観察しそれに言葉を与える。それが作家の仕事だというのである。

 博士はこのように言う。

「そう、まさに発見だ。発明じゃない。自分が生まれるずっと以前から、誰にも気づかれずそこに存在している定理を、掘り起こすんだ。神の手帳だけに記されている真理を、一行ずつ、書き写してゆくようなものだ。その手帳がどこにあって、いつ開かれているのか、誰にもわからない」

 小説を読んでいる間、一切宗教の話は出てこないにも関わらず、何か宗教的なものを感じながら読み進めていた。
 それはとても不思議な感覚だった。多分、博士が数というものに対して、純粋な信仰心のようなものを持っているからだと思う。

 全く抽象的で偶然の数が、人と人をそれが必然であったかのように結びつける。その瞬間に、超越した何かを感じてしまう。人はそれに魅了されてしまうのだ。

 80分で記憶が消滅してしまうということが、この小説を面白くしているわけではあるが、それがまたせつなくもある。
 ある種の滑稽さの中には、何か人をせつなくさせるような部分が含まれている。そして不思議なことではあるが、滑稽であればあるほどその滑稽さを深く愛してしまう。

 

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アルゼンチンババア 吉本ばなな

2010年11月17日 21時25分23秒 | 読書・書籍

 図書館から借りてきた「アルゼンチンババア」を読む。
 よしもとばななの小説を読むのは10年ぶりくらいだが、相変わらず、一時間弱で読み終わってしまう少女漫画のような小説である。そして、相変わらず、せつなさと共にやさしく温かな気持ちにさせてくれる。
 外見上は汚くヘンテコで普通の人たちから敬遠されるような人々の中にある純粋できれいなものを取り出し浮かび上がらせる。この「純粋できれいなもの」を愛とよんでもいいのかもしれない。
 愛情が深ければ深いほど、それを失ったときの衝撃は大きい。個人的なことだが、それを死という形で失うことになったとしたら、はたして耐えられるのだろうかと不安になることがある。しかし、吉本ばななの小説を読むと、もしかしていけるかもしれないなぁと思ってしまう。愛する人からのぬくもりや温かさは、記憶としてまた切り離せない感覚として、永遠に残るからである。
 
 
 
最後に、アルゼンチンババアの一節を引用する。


 人は死ぬ瞬間まで生きている、決して心の中で葬ってはいけない。

 それも私がアルゼンチンババアから教わったことだ。

 アルゼンチンババアの本名は「ユリ」だった。

 だから私は花屋の店頭でユリを見ると、いつでも涙ぐんでしまう。

 そしてその後必ずちょっとだけ笑顔になる。

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巨樹について

2010年11月15日 00時20分45秒 | 社会・政治・思想哲学

 「巨樹ランキング」で検索すると、大体、上位50位の巨樹の三分の二はクスノキである。クスノキは東京にもあるのだろうけれど、日本の西南に分布しているとのことで、一瞬どんな樹だっけと考えてしまう。
 巨樹というとどうしても杉を思い浮かべてしまう。
 巨樹を定義すると、地上から1.3mの位置で幹周囲が3m以上の樹木をいう。市町村別の巨樹数ランキング1位は、意外にも東京都奥多摩町で、樹種はやはり杉だ。

 樹木の寿命は、ブナが300年、カラマツ600年、ナラ2000年、杉2000年から3000年、などだ。屋久島の杉で縄文杉などと呼ばれているものは推定樹齢6000年から7200年といわれている(争いあり)。

 圧倒されるような巨樹に出会うと、その荘厳なたたずまいに魅了されてしまう。人々が樹に神が宿っていると思ってしまうこともよくわかる。それは樹の神秘的な美しさに魅了されてしまうという面もあるが、私はやはりその場所に居続ける時間の流れに、思いを馳せるからだと思う。

 もしその樹が樹齢3000年だとすれば、キリストが生きていた時代には既にその木はそこにあったわけである。お釈迦様の生まれた年が紀元前566年だから、そのときにも存在していたことになる。

 例えば、神社の境内にある巨樹の下で、500年前の人々の生活について想像してみる。長い月日の間に何組もの若い男女がそこで待ち合わせして愛を育んでいたのかも知れない。また争いごとが起って刀で殺し合いが行われたかもしれない。様々な人間が様々な形でその樹に関わってきたのだと思う。

 おじいさんが子供の頃も巨木だったその樹は、数々の人間ドラマを見守り続けてきたに違いない。

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御岳渓谷

2010年11月13日 16時26分49秒 | 登山

たぶん東京で一番きれいな紅葉スポットだと思う。

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箱好き猫

2010年11月12日 21時43分32秒 | 日々の出来事・雑記

 世の中いろんな猫がいるものだ。そういえば、むかし魚を食べない猫がいたなぁ。

 

 

 

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夢の構造

2010年11月12日 08時11分50秒 | 社会・政治・思想哲学

 二つの部屋がある。一つは小さく整理整頓された部屋。これは意識の部屋。

 この部屋の前には抑圧という名の番人がいて、意識にとって都合の悪いものは、中にいれないように見張っている。

 もう一つは、だだっ広く散らかし放題の無意識の部屋。

 意識の部屋に入れてもらいない者たちが、この部屋に押し込められている。

 しかし、この者たちの心的エネルギーは衰えることなく、うごめいている。
 
 無意識に閉じ込められた者たちは、番人の監視を逃れるために、夢や妄想や神経症という変装をして、意識の部屋に入ろうとする。

 しかし、抑圧という番人が強ければ強いほど、変装はより巧妙に行わなければならない。
 
 意識の部屋の住民は、番人がどのような基準で部屋に入れたり入れなかったりしているか分からないし、それどころか番人の存在にすら気づいていない。

 夢は変装した人たちの台本のない芝居である。

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