これから、本でも読もうと思う。夢枕漠の「上弦の月を喰べる獅子」を持ってきた。不思議な小説。山の中で読むのにちょうどいい。
明日の大晦日は雁坂小屋に泊まる予定。
では、また。
明日から一週間かけて奥秩父縦走に行く。飛龍山~将監峠~甲武信岳~国師岳~北奥仙丈ヶ岳~乾徳山の予定。
普通、奥秩父縦走というと国師岳から金峰山~瑞牆山の方に向かうのだが、金峰山は今年の夏に行ったので、乾徳山方面に行くことにした。
今年は雪が少なく歩きやすいという情報だが、途中に大雪が降れば、立ち往生して帰ってこれなくなるかもしれない。もし、正月の5日にブログの更新がなかったら遭難していると思ってください(笑)。
途中、山の中からブログを更新するかもしれないが、これがちゃんと書ける今年最後のブログになると思う。何を書こうか。
さっき、今年亡くなられた談志師匠がテレビで「酒が人間をダメにするのではなく、人間はそもそもダメなものでそれを確認するために酒を飲むんだ」と言っていた。なるほど。
ただ、個人的に「ダメさ」と「弱さ」を分けて考えたいなぁと思う。私は甘ったれた感じの「ダメさ」は大っキライだ。もっといえば憎しみすら感じる。理由はよくわからない。
それに対して、ちゃんとしようと頑張っているのだけど、力不足だったり、力が弱くなってきているため、きちんとできない「弱さ」は、手助けしたり応援したくなる。それに対して愛おしさすら感じる。
うまく言えないが、この違いは大きい。
私は精神的にも肉体的にも強いから傲慢といえば傲慢な部分がある。だけど、強さは相対的なもので、グリーンベレーみたいな特殊部隊の中に放り込まれれば、私だって弱っちい人間になる。まぁ、そうでなくても、厳しい自然の中に身をおくことで自分という人間が本当に弱い存在だということに、すぐに気付かされる。過酷な自然の中では人間なんて判断を間違えれば、簡単に死ぬ。
都会の中でも、もちろん、いろんな判断が必要だと思うが、リアルに生死に関係する判断力を鍛えるためには自然の中に身をおくことが一番だ。厳しい自然の中では、一瞬の気の緩みも危ない。
人々が、わざわざそんな危険なところに行くのは、冒険心がそうさせているのだろうが、それだけではなく、自分を弱らせてその中で頑張っていこうとする闘争心を試す側面もかなりある思う。
厳しい状況の中で、いつも弱気になるし、逃げ出したくなる。本当に弱い。だけどその弱さの中でなんとか闘えることを学んだ。自分は闘っているんだぞという意志を捨てないことである。それがあれば、「逃げ」だって勇気ある撤退になる。
ばてても、へたっても、弱っても、前も向いて闘う意志が重要なのだと思う。
明日から、弱り切った自分の中に本当に闘う意志があるのかどうかを、確認しにいこうと思う。あればいいけどね。
携帯各社が明けましておめでとうメールの自粛をお願いしているようだ。皆が一気にあけおめメールしてしまえばパンクしてしまうのだろう。
なんとなく潰れる噂を聞いてみんなが銀行預金を引き下ろすのとよく似ている。銀行は預金額以上の貸付を行なっているので、皆がひきおろせば潰れてしまう。
携帯も、皆が使うことを予定していないので、みんなが使えば簡単にパンクする。
地震後のコンビニで食べ物がなくなったのも基本的に同じことだ。全員が買い占めれば、食べ物なんて一気になくなってしまう。
みんなが同じ行動を取れば、混乱は意外と簡単に起こる。そのことを頭に叩きこんでおくことである。継続的な平和と安定は幻想である。薄氷のバランスの上で成り立っている。
人間が合理的であれば、皆と同じ行動をとるのが安全であるが、人間は必ずしも合理的ではない。だから、人と違う行動をとる勇気が必要な時もある。人の考えを鵜呑みにするのではなく、自分でものを考えることが出来なければならない。その癖を普段からつけておく人間がいろんな場面で有利に行動できる。
政治のことを考えると、どうも絶望的な気分になってしまう。なぜかって。それは全ての人を救うような都合のいいような政策が無いからだ。
民主主義を絶対視するのは良くない。皆の意見を聞き入れて、民主主義をうまく機能させるようにすれば、結局、中途半端なことしか決められず、ろくなことはない。
政治について難しくいえば法の制定・執行ということになるのだろうが、一番のポイントは、金を集めること、それを分配することに尽きる。
どの党がやっても誰が総理になっても、金の集め方や分配についてもめることにはかわりがない。うまくいきっこない。何かを決めるということは、誰かを黙らせることだから。
外交のことはとりあえず置いておいて、カネ集めと分配に関して大きく2つに分けると、競争原理を徹底して強者に有利に働く自由主義的原理と稼いだ者からぶんどって弱者を救う社会主義的原理に分けられると思う。例えば、小泉構造改革は前者の考え方だ。
私はブログの中で競争原理を働かせたほうがいいということを何回も主張しているから、自由主義的な考えかと思われるかもしれないが、そうでもない。
人間は常に同じではない。時間軸の中で生きているからだ。人は生まれたばかりの時はなんにもできない。だから、人の手助けが必要だ。それから成長し独り立ちすると稼げるようになる。しかし、時が経てば老いて弱ってくる。
時間軸の中では、同じ人間であっても、強者だったり弱者だったりする。だから、稼げるものが、弱いものを助けるのは当然のことだと思う。自分が何にもできないときに、大事に育ててもらったのだから、それに恩返しをするのは当たり前のことだからだ。
ただ、問題はたいして弱くもないのに弱いふりをしている人間である。例えば、生活保護の不正受給みたいなことだ。
今の時代は、弱者の方が金になる時代である。自分が弱く、力がないことを強く主張したほうが利益になる。弱く被害者であればあるほど有利に働く。こんな時代に強い人間が育つわけがない。
強い者は黙っていても弱者を助ける。それが強い者だ。そういうことがかっこいいと思える時代がいいなぁ思う。
本来、弱者が俺を助けてくれというのは権利ではないはずだ(憲法25条は権利にしちゃってるけどね)。
稼げる者は、稼げない者を、当然助けてあげるけど、それを権利とするのはちょっと違うと思う。
弱い者の主張が通れば通るほど、強い者がいなくなっていく。一生懸命やるのが馬鹿馬鹿しくなる本当に難しい時代だと思う。
分配の難しさをパロディにした傑作のコントがある。どうぞ。
昨日、リアル・スティールを観てきた。興味のある人は、まず予告編を。
予告編を観れば分かるように、明らかにロッキーを本歌取りした作品である。
本歌取りとは、和歌の技法の一つで、過去の優れた古歌の語句や構造を自分の作品に取り入れることである。
悪く言えばパクリなのだろうが、いわゆるパクリと一線を画するのは、真似する本歌に敬意を払いその作品をリスペクトしていることだ。
本歌の良さが忘れ去られることがないように、そのエッセンスを受け継ぎながら今風にアレンジしているともいえる。
このように、過去の作品の構造を受け継いで新たに作品を作っても、十分クオリティーの高い作品ができる。なぜこのようなことが可能になるかといえば、人間が良いと思うものには一定のパターンがあるからだろう。
ハリウッドの作品が神話などのプロップを取り入れているのはよく知られた話だ。まぁ、すでにロッキーはハリウッドでは神話的な話といえば神話的な話になってしまったので、それを元に話を作ってもそれほどおかしなことではない。
ロッキーは、無名のボクサーがラッキーなことに世界チャンピオンと対戦するチャンスを与えられ、チャンピオンに挑んで成功していくアメリカンドリームの話である。このリアル・スティールも、捨てられたオンボロロボットが、チャンピオンに挑んでいく話である。
両者とも、社会的弱者が圧倒的な強者に、努力し、挑み、勝利する(正確には判定負けだが)話である。
当然、このドラマの最高のカタルシスは、弱い者あるいは弱かった者が、強い者を倒すところにある。その瞬間に、私たちは熱狂する。
だが、この話を弱者が努力し挑み敗れ去っていくもの変えたらどうだろうか。敗れ方も僅差ではなく圧倒的にかつ惨めに叩きのめされるものだったとしたら。
多分、それほどカタルシスは感じないのではないかと思われる。勝つ瞬間がなければ、弱い者は強い者に勝てないという現実だけが突きつけられるだけで、全くつまらない話になってしまうからだ。そこから得られるのは、強いものには歯向かわないようにしようという教訓めいたことだけになる。そう感じる人が多数だろう。
だけど、私は違うんじゃないかなぁと主張しようと思う。それが今日の話の趣旨だ。
私は、悲しい事だが、努力し挑み、それでもなお敗れ去っていくのが人生なのではないかと思っている。そして、それでもいいと思っている。
もちろん、勝負は勝つためにやるものだ。そして、勝てればそれに越したことはない。しかし、勝負の行方にそれほどこだわるべきではない。
結果ではなくて、スタートに注目するべきである。まず自分の中にある過剰なエネルギーや衝動に働きかけることだ。生きているということは、エネルギーを発散していることで、そしてそれを絶やさないことでもある。そのエネルギーが強ければ強いほどいい。
その強いエネルギーが、どんなに強い相手でも怯むこと無く挑み挑戦していく勇気と誇りを育み、その結果不幸になったとしてもそれを受け入れる潔さを身につけさせ、その不幸すら笑い飛ばす強い魂をつくりあげる。
そもそも人間の生は必敗である。どんな人間も必ず死ぬ。どんなに体を鍛えて健康に気遣っても死ぬ。
だが、だからといって生きていることに意味が無いわけではない。むしろ逆で、死ぬからこそ生きていることが輝いてくる。
だから、結果的に負けたからといって、そのプロセスに意味が無いわけではない。
村上春樹が、「海辺のカフカ」で面白いことを書いている。シューベルトのニ長調は必敗の音楽だいうことだ。ちょっと引用する。
大島さん 「僕は運転しているときによくシューベルトのピアノソナタを大きな音できくんだ。どうしてだと思う?」
カフカ 「わからない」
大島さん 「シューベルトのピアノ・ソナタを演奏することは世界でいちばん難しい作業の一つだからさ。とくにこの二長調ソナタはとびきりの難物だ。僕の知る限り満足のいく演奏はひとつもない。これまで様々な名ピアニストがこの曲に挑んだけれど、どれもが目に見える欠陥をもっている。どうしてだと思う?」
カフカ 「わからない」
大島さん 「それはこの曲が不完全だからだ」
カフカ 「不完全な曲にどうして挑むんですか?」
大島さん 「ある種の不完全さを持った作品は、不完全であるがゆえに人間をの心を強くひきつけるんだ」
「シューベルトのソナタは、特にこのニ長調ソナタは、そのまますんなり演奏したのでは芸術にならない。シューマンが指摘したように余りに牧歌的だし、技術的にも単純すぎる。だからピアニストはそれぞれ工夫を凝らす。でも、それはよほど注意深くやらないと作品の品格を崩してしまう。このニ長調ソナタを弾くピアニストは例外なくそのような二律背反のなかでもがいている。質のよい稠密な不完全は人の意識を刺激し、注意力を喚起してくれる。完璧な音楽を完璧な演奏で聴いていたらそのまま死にたくなるからね。ある種の完全さは、不完全さの限りない集積によってしか具現できないことを知るんだ」
カフカ 「これまでに聴いたニ長調ソナタの中で
いちばん優れていると思う演奏はだれですか?」
大島さん 「一般的にいえば、たぶんブレンデルとアシュケナージだろう。でも僕は正直彼らの演奏を愛好しない。シューベルトというのは僕に言わせれば、ものごとの在り方に挑んで敗れるための音楽なんだ。それがロマンティシズムの本質であり、シューベルトの音楽はそういう意味においてロマンティズムの精華なんだ」
大島さん 「どう?退屈な音楽だろう」
カフカ 「たしかに」
大島さん 「シューベルトは訓練によって理解できる音楽なんだ。僕も最初は退屈だった。今にわかるようになるよ。この世界において、退屈でないものにおいて人はすぐに飽きるし、飽きないものはだいたいにおいて退屈なものだ」
食べる昆虫がアメリカで人気だというニュースがあった。さすがアメリカという感じ。嗅覚が鋭い。
体を構成するためには、アミノ酸(タンパク質)が必要である。野菜だけで十分なアミノ酸を摂取するのは難しい。比較的アミノ酸が多いといわれている大豆もアミノ酸スコアは86である(100中)。
アミノ酸を有効に摂取する方法は、体の構成に近い他の動物の肉を食べることである。しかし、世界の人口が70億を突破し、これからも増え続ける状態では、確実に十分な肉が手に入らなくなるだろう。
富が中国やインドに流れ、その富裕層が肉を食べ始めれば、一般的な日本人には手に入らないくらい高価なものになることが予想される。
生物が食用にできるもので、世界に一番たくさんある物質はセルロースだと言われている。つまり植物の細胞壁である。具体的には、わらとか枯れ木である。しかし、人間はセルロースを消化できない。だから、それを消化できる牛に食べさせて、その乳を食用にしているわけだ。つまり、牛はセルロースをタンパク質に変える機械みたいなものである。ただ、効率が悪い。草を食べ過ぎる。
牛よりセルロースを効率よくタンパク質に変えてくれて、世界中にたくさんいるものは、虫である。カメムシの一グラムあたりのタンパク質はステーキと同様で、鉄分にいたってはステーキより多い。だから、虫を食用にすることは、合理的なことである。
問題は、気持ちが悪いということだ。人間が気持が悪いと感じる昆虫の容姿も、もしかしたら食べられないための昆虫の戦略なのかもしれない。
しかし、飢えれば何でも食べるのが人間である。一億の人口を支えるだけの食べ物は日本にはない。
動物をさばいたり虫くらい食べれるようしておかないと、そのうち大変な時代がくるかもよと言ったら、その時になったら考えるよという人がいた。本当にそう出来ればいいけどね。
今日はジョギングをやめて、25キロのザックを担ぎ、足に2キロの重りをつけて、近くの公園で踏み台昇降運動をした。
1000回足踏みするとおおよそ一時間くらいかかる。
公園で中学生くらいのガキが10人くらいたむろっている。EXILEの歌をハモっている。なかなかうまい。尾崎豊の歌も歌っていた。そう、ああいう連中のために尾崎の歌がある。若さゆえの過剰さ。
区のパトロール車が来て、係の人が俺の方をチラッとみて、「こんばんは、がんばりますね」とあいさつする。
息を切らせながら「ハイ」と返事する。
係の人は、少年たちに遅いから帰りなさいという。しかし、強引に帰らせる権限がないから、ガキどもは馬鹿にして帰らない。
足踏みもだいたい900回くらいになると、体中汗まみれになってなって、足もふらふらしてくる。
さすがに一時間くらいやっていると、ガキどもが俺を意識し、だまりはじめる。コイツは何ものなんだと。
別に少年たちに恨みはないが、ぐだぐだとたむろしている人間がいると、意味もなく闘争本能に火がついて殺気立ってしまう。基本的に暴力的な人間なのだろう。糞ガキども殺すぞ、というオーラが出てしまう。少年たちも俺のその殺気に気づく。
少年たちは、いきがっていても、まだまだ一人一人は弱い。弱っちい大人と危ない大人の差に敏感でなければ、うまく社会を渡っていけない。自分がそういうガキだったからよくわかる。
ザックを降ろし足の重りをとって、懸垂20回、腕立て200回、ダッシュ10本、逆立ちダッシュ(逆立ちしながらダッシュすることですね)2本、立て続けにやる。
この辺で少年たちが蜘蛛の子を散らしたように帰り始める。俺の無言の威圧が伝わったようだ。
高揚感と無気力感、そして苛立ちはセットのようだ。グルグルと負の連鎖のようにまわる。
感情の起伏をうまくコントロールしなければならない。苛立ちを他人に向ければ必ず自分に返ってくる。無気力いう形で。
また、坐禅でも始めるか。