フリードリヒの日記

日常の出来事を、やさしい気持ちで書いていきたい

自閉化する人々、大きな組織と個人の価値

2009年09月29日 00時17分16秒 | 社会・政治・思想哲学

 池田信夫氏のブログで自閉化するウェブいう記事があった。

 人間関係がうまくいかないので社会的活動には支障をきたすことがあるが、集中力が強いので、共同作業する必要なない芸術家や科学者には自閉的なタイプが多い。たとえばゴッホ、メルヴィル、スゥイフト、アインシュタイン、チューリング、ジョイス、ヴィトゲンシュタイン、バルトーク、グレン・グールドなどそういう傾向があったという記録が残されている。

 最近、こういう人が増えている。限られた人とだけ付き合おうとするタイプ、孤独が好きで、自閉的、そして集中力がある。
 個人が大きな組織に対抗するためには、このような自閉化した人々でなけれなばらない。
 大きな組織は大量生産、薄利多売という数の力で圧倒する。だから小さい個人がそのやり方をしても勝てない。
 また、組織側から見ると、個人は天才的であってはならない。その人がいなくなったら組織が成り立たないとなると、その組織はつぶれてしまう。だから、誰がその仕事をやっても大丈夫なように、代換え可能にしておかなくてはならない。大きな組織の一員は、構造的に没個性が求められる。

 しかし、個人で勝負するなら、創造力、高度な専門的知識、他を圧倒する個性が必要となる。その意味で、「おたく」は価値のある人間だといえる。 こういうことを自閉的というなら、自閉も別に悪いことではない。
 むしろ、これからの日本は、誰でもできるようなことは中国やら韓国に任せて、天才的な自閉的な人々を生み出していけばいいのではないか。

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

くつろいでる猫

2009年09月28日 17時38分46秒 | 日々の出来事・雑記

 

 国営昭和記念公園内にある日本庭園の入り口の前で、金玉をぺろぺろなめて、くつろいでいる猫。
 人通りが激しいのだが、一向に気にしていない。みんなの人気者で通るひと通るひと頭を撫でている。
 こんないい子ちゃんの猫はなかなかいない。

 猫嫌いの人とか根性の悪い人とか頭のおかしい人が、猫に危害を加える可能性がある気もするが、公の場所なので人の目があり、そういうことはできないのだろう。
 人通りの多いところは、猫にとっては安全な場所といえそうだ。皆が撫でるから毛がつやつやしている。

 猫というのは本当におかしな生き物だ。見ていて飽きることはない。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

東京ジャーミー 東京にあるイスラム教のモスク

2009年09月28日 17時23分52秒 | 社会・政治・思想哲学

 イスラム教の礼拝所、モスクに行ってきた。
 
 渋谷区大山町にある。表参道を代々木公園方面に向かい、代々木公園、山手通りを突っ切っていくと、左側にある。
 
 明治神宮からもそう遠くはない。歩いていける。

 

 


 歩いていると、遠くから煙突みたいなものが見える。それに向かっていけばよい。

 建物の名前は東京ジャーミー。
 
 ロシア革命でロシアから亡命してきたトルコ人が建てたとのこと。ジャーミーはトルコ語でモスクの意味だ。

 

 

 

 建物の中はさっぱりしている。

 がらんとしていて、何もない。

 イスラム教は偶像崇拝を禁止しているからだ。

 シンプルで気持ちがいい。 

 

 

 イスラム教徒の人たち。礼拝に来ていた。

 日本に来て20年になるらしい。日本語がやたらうまい。

 日本の報道はアメリカ寄りのものが多く、キリスト教のプロテスタントに好意的だ。そのせいかイスラム教については、ネガティブな感情を抱きやすい。また、9,11の影響で、イスラム教というとテロを行い、戦争ばかりして野蛮な宗教だと思っている人が多い。
 しかし、実際は、素朴でアジア的な宗教である。
日本人にとってもしっくりくるところがあるはずだ。
 原理主義は、イスラム教だけでなく、キリスト教にも存在するし、どのような思想にも内在する問題だ。
 その問題点についてはすでに述べた。

 
 イスラム教の理解を深めるという意味でも、モスクにいってみるのも悪くない。
 キリスト教の教会のように、神秘的な感じはないが、心地良くアットホームな気分になれる。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

ジョギング日和 葛西臨海公園にて

2009年09月25日 22時30分17秒 | 日々の出来事・雑記

 乾いた風が吹いて、ジョギングするのに気持ちのいい季節になってきた。舗装されたきれいな道もいいが、落ち葉の散らばった静かな道を走るのも悪くない。

 

  

 

 あまりに夕日がきれいなので、写真を撮る。
 何回も何回も繰り返されている光景であるが、まじまじ見るのは稀だ。
たまに夕日の美しさに気づいて、立ち止まるぐらいの心の余裕が欲しい。

 

 

 無理せず同じリズムで歩を進めていくと、だんだん気持ちよくなってくる。一定のリズムによる刺激によってセロトニンというホルモンが分泌される。セロトニンは精神を安定させる効用がある。
 ゆっくりと長く走っていると、すこしづつランナーズハイになっていく。

 


 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

300円の攻防 本当にあった変な話

2009年09月24日 23時38分13秒 | 日々の出来事・雑記

 今日、仕事中に車に乗っていたら、路地の真ん中におばさんが立っていた。
 
 危ないから徐行して近づくと、なにやら言っている。
窓を開けて話を聞く。

 「300円貸してください」とおばさん。
 
 ああいう時というのは面白いもので別に話なんて全く聞く必要もないのにおもわず聞いてしまう。

 
 「どうして300円貸して欲しいのですか」と私。

 
 「急に生理になったのですが、生理用品がないので」 

  私は力なく笑う。そして、「今、お金持ってないから・・・スイマセン」と言い残し車を走らせる。
 
 何でだろう。車を運転しながら軽い罪悪感を感じていた。
 実はほんとうのところ、300円あげようかどうか一瞬迷ったのだ。
 300円というのは、なかなか微妙な金額だ。だまされたとしても、それほど痛い金額ではない。
 それより本当に困っていたとしたら悪いことしたなぁという気持ちのほうが強かった。

 すこし話がかわるが、インドに旅行に行くと、物乞いとの戦いになるという。物乞いが非常に多い。いちいちお金をやっていたらいくらあっても足りない。中には悪い組織がいて身寄りのない子供を集め、手足を切断したり、変な方向に曲げたりして同情をかうように仕向ける。インドはヒンズー教の考え方により物乞いが職業化しいる。

 これに対し、中国は物乞いはいないとはいわないが、インドよりはるかに少ない。中国人は物乞いはせず、その代わり、その辺に落ちている石でも草でも何でも売りつけようとする。たくましい。その労働によって収入を得ようとする根性は評価に値する。物乞いは富の再分配以外、何も生み出さないし、なんら社会のためにならない。それに人の善意を食い物にしている。

 そう考えると、300円あげなくて正解だったのかな。どうなんだろうか。

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

マキャベリ 政略論から

2009年09月24日 00時02分01秒 | 社会・政治・思想哲学

 衆に優れた人物は、運に恵まれようと見離されようと、常に態度を変えないものである。

 運命は変転しても、彼らは毅然とした精神を保ちつづけているので、他人の眼には、運命もこの人々にはなんの影響も与えないのではないかとさえ、見えるほどだ。

 反対に、弱い人間にとっての運命の変転は、表にあらわれてしまう。

 好転に恵まれたときは有頂天になり、まるで自分個人の力量のためであるかのように得意がる。

 そして周囲には耐え難い存在になった挙句に憎まれる。

 ところが、ほどなく運にかげりがさしはじめるや、とたん沈み込んでしまい、卑屈な人間に変わり果てる。

 ・・・・ 一個人にいえるこのことは、国家についても適用可能なことである。

 ただし、国家の場合は、精神上のことだけで論じているのでは不十分だ。

 逆境に立っても動じないですむような、制度作りが必要になってくるのである。

 

 マキャヴェリ 「政略論」 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

おくりびと

2009年09月22日 00時24分09秒 | 日々の出来事・雑記

 こんなに早く地上波で「おくりびと」をやるとは思っていなかった。相当視聴率がよかったに違いない。
 うわさどおり素晴らしい映画だった。この言葉にできない感動は何なのかを自分自身に問うてみれば、結局、愛なんだと思う。
 私自身何回も身内の死に立ち会っている。その度に、ぐじぐじと泣いたりするのが大っ嫌いで、最後にお棺の中の顔をみて見送りするときも、よく見もしないでお別れしていた。それが最後になることを認めたくなかったのだろう。

 息を引き取るとき、最初の別れがある。
 そして、物理的に身体を火葬することは、もう触れることも見ることさえもできなくなるという意味で、最後の別れを迎える。
 もう二度と触れることができないからこそ、生前に受けた愛情が純粋な形で浮かび上がってくる。

 その愛する対象である死者を、大切に扱い綺麗に化粧していく行為は、美しい儀式だ。そこになんの穢れもない。

 映画を見ただけで涙が出てくるのだから、本当に愛する人が死んでしまうことになったら、どうなるか自分でもわからない。
 その状況に耐えられそうにない。だから生きている間に自分にできる最大限の愛情を与えようと思う。死んでから泣いたって仕方がないから。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

六義園、護国寺、雑司が谷霊園、夏目漱石の墓

2009年09月20日 18時52分49秒 | 日々の出来事・雑記

 今日は天気もよかったので、散歩に出かけた。まずは六義園。

 

      

 

 六義園は駒込の駅から歩いて5分くらいのところにある。三菱財閥の岩崎弥太郎が東京都に寄付した庭園である。都内にこんな素晴らしい場所があったのかと驚いた。入場料は300円であるが、これだけの景観を眺められるなら安いものだ。
 もし気持ちが高ぶったり、落ち着かなかったり、静かに考え事をしたいときはお勧めする。ここにいたら爽快な気分になるだろう。

 

  

 

  

 

 藤代峠という小高い丘があって、そこから撮った写真(左下)。本当に美しい景色だった。これだけの景観を保つためには相当の費用がかかるだろう。さすがの三菱財閥もきつかったに違いない。

 

 近くに旧古河邸があったので、行ってみた。

 

  
 
 
 ここで、携帯の電池がなくなりかけて写真が一つしか取れなかった。しかし、ここもなかなかの庭園だった。

 

 少し歩いて護国寺に行く。

 

 


 護国寺の本堂の中に入る。なかなか素晴らしい。
 本来は、写真を撮ってはいけないらしいが、釈迦の像があまりにすごかったのでこっそりとってしまった。修行のあと、げっそりした釈迦だ。悲壮感が漂ってすごい。たしか、このあと死にそうになったお釈迦様が、スジャータという女の子からミルクを飲ましてもらい一命をとりとめたというお話があったと思ったが。どうだったか。
 本堂の正面にある像もみな素晴らしかった。しかし写真は撮れず。というか電池が切れそうで電源が入れれない。

 

 少し歩いて雑司が谷霊園に行く。

 

  

 

 彼岸だし、雑司が谷霊園に夏目漱石のお墓があるとのことだったので、墓参りに行く。さすが夏目先生だ。結構人が墓参りに来ていた。

 

 都内もていねいに回るとまだまだ知らない場所がたくさんある。携帯の電池をきちんと充電していれば、まだまだ面白い写真が取れたのに、残念だ。雑司が谷には土猫がいた。写真を撮りたかったなぁ。

 

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

仏教の「無記」という考え方

2009年09月20日 09時38分11秒 | 社会・政治・思想哲学

 恐山で禅僧をしている南直哉氏の本を読んでいたら、恐山のイタコと仏教の無記の思想は、基本的に相容れない考え方だとの発言があった。
 たしかにそうだろうなぁと思う。
 
 「無記」とは、形而上学的な問題について、判断を示さず沈黙を守ることである
 簡単に言えば、死後の世界とか宇宙の果てなどの答えられない問題については答えないという態度である。なぜなら、仏教の目的は実際に存在する苦しみを取り除くことにあり、そのような問題(形而上学的な)に答えても、なんら苦しみは解決しないからである。

 ちなみに、形而上学(けいじじょうがく)とは、感覚ないし経験を超えた世界が存在するとし、その世界の普遍的な原理について理性的な思惟によって認識しようとする学問ないし哲学の一分野である。世界の根本的な成り立ちの理由や物や人間の存在の理由や意味など、見たり確かめたりできないものについて考える。

 古代インド人は輪廻転生を信じており、釈迦はこの考え方に否定的だったと言われている。しかし後世の仏教界は輪廻転生という考え方を受け入れていく。
 この無記と輪廻転生は矛盾する。しかし、仏教の目的は苦しみを取り除くことにある。だから、輪廻転生を信じることによって、もし今の苦しみが取り除けるなら、理論の正しさを犠牲にしても、否定はしない、ということなのだろう。

 

 

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

脳科学による妬みの感情

2009年09月16日 21時41分43秒 | 身体・健康・筋トレ

 「妬み」を持つ感情と他人の不幸を喜ぶ感情に関する脳内のメカニズムについての研究がされた。
 被験者である健康な大学生19人に、あるシナリオを読んでもらい、その脳活動を計測するという実験である。
 シナリオの内容は、学業成績や経済状況が平均的な人物を主人公として、ほかにA、B、Cの人物が登場する。なお、A、B、Cのキャラクターは以下のようになっている。

A 被験者と同性で、進路や人生の目標や趣味が共通。被験者より上級ないし優れた物や特性 (学業成績、所有する自動車、異性からの人気など) を多く所有している。

B 被験者と異性で、進路や人生の目標や趣味は全く異なる。被験者より上級であったり優れた物や特性 (学業成績、所有する自動車、異性からの人気など) を多く所有している。

C 被験者と異性で、進路や人生の目標や趣味は全く異なる。被験者と同様に平均的な物や特性 (学業成績、所有する自動車、異性からの人気など) を所有している。

 実験の結果、被験者による妬みの感情は、学生A、B、Cの順に高くなったが、同時に不幸が起きた時の喜びの感情も学生A、B、Cの順に高くなった
 実験中の脳の活動を機能的核磁気共鳴画像法を用いて画像化したところ、妬みの感情には、大脳皮質の一部で葛藤や身体的な痛みを処理する部分「前部帯状回」が活動していた。また、妬みの対象の人物に不幸が起こると、心地よい感情や意志決定などに関わる「線条体」と呼ばれる部分が反応した。妬みに関わる「前部帯状回」の活動が高い人ほど、他人の不幸に対し心地良い感情を与える「線条体」が強く反応する。
 この実験結果をまとめると、人は「同性で同じ趣味で優秀な人」を妬む。それは、ライバル関係になりやすく負けているもしくは負けそうな人に対して妬むことを意味する。そして、その人の不幸を心地良いと感じる。それは、力の似通った同性が互いに競争し、相手を蹴落とすことが、本能にインプットされているということである。
 事実として。 

  

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする