フリードリヒの日記

日常の出来事を、やさしい気持ちで書いていきたい

人を怒らせる方法 三連発

2010年10月29日 01時14分39秒 | 日々の出来事・雑記

 頭のおかしい人たち。笑えるwww

 


 


 


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天目山

2010年10月24日 21時45分42秒 | 登山

 今日、奥多摩の天目山(1576m)に行ってきた。思っていたより登り易く、景色のきれいな山だった。
 

 

  

 まだ少しだけ早いが、それでも山頂付近はボチボチ紅葉が始まっている。
 秋に色づく紅葉の美しさは、また格別である。深い秋に広がる紅葉は、歳を重ねることによって美しくなっていった女性のようなしっとりとした気品と色気が感じられる。


 

 天目山山頂。山頂はちょっと今まで登った山とはかなり違っていて、パノラマのような素晴らしい展望が広がっていた。



 山頂から富士山もきれいに見える。




 奥多摩の山々、秩父の山々が見渡せる。なかなか感動的な展望である。

 長い間歩き続けていると、ヘトヘトに疲れるが、回復してくると信じられないくらい体の調子がよくなる。

 また精神的にも非常にいい。心がしーんとした静寂に包まれ、落ち着いた気持ちに変化する。
 そして、時には威厳をもって自然の恐怖を教え、畏敬の念を呼び起こしてくれる。

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情緒の系図 「恋しい・寂しい」

2010年10月22日 23時02分11秒 | 社会・政治・思想哲学

 九鬼周造の「情緒の系図」をパラパラとめくる。人の情緒を哲学的に考えている。

 とくに、愛に関する情緒に目が止まる。愛は、基本的に嬉しさと関係してる。
 しかし、愛するものの背後に、その消滅を予見するかぎり、愛は純粋にうれしい感情ではなく、悲しみも加わってくる。

 例えば、「恋しい」という感情だ。「恋しい」という感情の裏には常に「寂しい」という感情が控えている。

 「恋しい」とは、一つの片割れが、他の片割れを求めて、完全なものになろうとする感情であり、「寂しい」とは、片割れが片割れとして自覚する感情である。

 人を深く愛すれば愛するほど、相手を求め、完全になりたいという気持ちが強くなる。しかし、いろんな事情でそうなれない場合がある。
 そうなれない場合は、ハートのペンダントの片割れになってしまう。そして、ずーっと片割れのままだ。

 寂しいとはそういうことだ。

 二十歳くらいのときに、ハートの片割れになった経験がある。たぶん、相手のハートの片割れとくっつけたら、完全なものになったかもしれない。まあ、それは誰にもわからないが。
 ただ、たまに、そのことを考えることがある。そして、完全なものになりたかったが、いつも片割れなんだなと自覚してしまう。
 それがここでいう、「恋しい」と「寂しい」なのだろう。

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真っ暗な御前山避難小屋

2010年10月16日 19時23分34秒 | 登山

 今、山奥にひとりっきりでいる。御前山の避難小屋だ。
今朝、武蔵五日市駅からでて、大岳山~御前山~三頭山の奥多摩三山を縦走中である。今日はここで一晩過ごす。
  山の夜は暗くて怖い。完全になめていた。六時を過ぎたら、もう真夜中である。正直いって、小便ちびりそうなくらい怖い。もしかしたら、こんなに静かで真っ暗な夜は生まれて初めてかもしれない。ちょっと記憶にない。
 風で樹の枝がゆれる音がするだけで、ピクッと反応してしまう。風で戸がゆれると誰かがトントンとノックしたような感じになる。

 人間はこの深い闇に耐えられなくなったから、共同生活を始めたのかもしれない。
また、静かで真っ暗な闇は、どこかの異界へと通じている。
 そんなバカなという人は、一回この闇を経験してみたらいい。私が戯言をいっているわけではないことが、わかるだろう。


 怖いからもう寝よう。ではまた。

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三頭山

2010年10月13日 00時11分13秒 | 登山

 奥多摩湖側の峰谷バス停に降りて、奥多摩湖を渡って三頭山を登ったのだが、こちら側から登っている人はほとんどいなかった。
 多くの人は檜原村の方から、ある程度、車で行って、気軽に登っているようだ。普通の人は奥多摩側はきついから嫌なのだろう。しかし、私の体はMだからきつい方をついつい選んでしまう。ただし体はMだが
頭はSだ。このような分裂状態の良い点は、きつい運動を喜んですることである。つまり、頭はもっと動けよと体をいじめたがり、体はそれを気持ち良いと感じるわけである。少しだけ変態なのかもしれない。まぁ、そのおかげで、体型も維持できて健康的になれるわけだが。

 

 

 

 

 

 峰谷橋バス停から奥多摩湖に出て、湖をドラム缶で作られた橋で渡る。ぐらぐらして、少し怖い。土日の雨のおかげで、空気が澄んで景色は最高である。

 



  

 

 三頭山の樹木は、杉・ヒノキだけでなくいろいろ変化に富んでいて、楽しい。

 



 

 

 山頂から富士山が見える。素晴らしい景色だ。山頂は人が多い。私たちとは違うコースだと一時間くらいで山頂に登って来れる。私たちは、4時間弱かけて登ってきた。 

 

 

 

 三頭山の避難小屋。来週、大岳山、御前山、三頭山を縦走する予定で、もしかするとこの小屋にお世話になるかも知れないので、小屋の様子を見に来た。まずまずの小屋である。

 

 

 

 

 三頭大滝。これもまた素晴らしい。三頭山は見るところが多い。

 

 

 

  

 

 広い道で、ウッドチップが敷き詰められていて歩きやすい。また、景色もよく気持ちが良い。

 

 

 

  

 

 

 

 いろんな動物の剥製。東京の山にはいろんな動物がいる。個人的に、熊の剥製が見たかった。どんな感じの奴が出てくるかイメージしておきたかったからである。本物の熊が出てきたら面白いのになぁと思っているが、なかなか現れてくれない。

 

 

 

  

 

 熊は出てこないが、ヘビが出てきた。三頭山で三匹見た。ちょっと調べてみたが、まむしではなさそうである。
 
三頭山は、落葉樹が多く、これから紅葉がきれいだと思う。景色に変化もあって歩きやすく気持ちの良い山だった。五日市駅からバスで都民の森まで来て登るコースをお勧めする。高尾山も紅葉はきれいだが、人が多すぎてあまり楽しめないと思う。

 

 

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相手の靴をはく

2010年10月08日 08時50分22秒 | 社会・政治・思想哲学

 「相手の靴をはく」ということわざがある。相手の立場になって物事を考えるという意味だ。
 相手の立場に立つためには、その相手の話をよく聞かなくてはならない。相手の立場になって物事を考える利点は、相手が何を欲しているのか、何が嫌なのかを知り、衝突を避け、妥協点を見出すことにある。
 しかし、そのような利点を分かってはいるもののなかなか人の話を聞くことはできない。それはなぜだろうか。
 
 人の話を聞くということは、その人の経験した事実をもう一度その人の経験したように自分が追体験することである。つらい経験などあまり聞きたくないものもあるが、人の経験を追体験することは面白い。
 ただ、問題は、その事実に向き合ったとき、その体験した人と同じような反応をしないことにある。例えば、相手が十万円を拾ったという話をした。しかし、その人が十万円をこっそりもらったと言ったら、ちゃんと届けろと考える人もいる。このように自分と他人は反応が違う。
 その反応の仕方が個性というものなのだが、この「自分」という部分を捨て去らなければ、人の話は素直に聞けない。
 だから、自分の考えというものをとりあえず捨てて、真っ白な状態で聞く必要がある。自分の思う正しさは置いておいて。
 自分の主張を一時的にどこかに置いておくという作業は難しい。しかし、誰も主張の正当性なんて求めていない。人は物事の正しさを追求するために、会話をしている訳ではない。ある経験をしたときに、自分と同じように感じてもらいたいのである。正しいか悪いかは問題ではない。
 主張のぶつけ合いもときに必要であるが、相手の言っていることに共感する能力もコミュニケーションの重要な部分である。

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山登り中止、そして坐禅会

2010年10月02日 15時02分52秒 | 日々の出来事・雑記

 今日、本当はテントと寝袋を背負って雲取山に一人泊りがけで行こうと計画を立てていたのだが、昨日、財布を落とすし、今日寝坊して始発を逃すし、スイカは使えないくて駅で足止めくらうし(この間、JR秩父駅と私鉄の秩父駅乗り間違えて、出口で処理してなかったことが問題だったようだ)、バックパックのチャックが壊れてあたふたするし、いろいろあって精神的にも少し動揺していることや不吉な予感が拭えないので、山登りをやめることにした。我ながらいい決断だったと思う。こういう嫌な感じを持ちながら、山に登るといざトラブルが起きたときに冷静に対処できないからだ。それは、すなわち死に直結する。

 

 スイカの問題も処理して、家で静かに本を読んでいたら、警察から拾得物受理通知書が届いた。誰か拾ってくれたらしい、。親切な人と、警察のすばやい対応で昨日の今日なのに、もう葉書が届く。日本はなんて素晴らしい国なんだろう。感謝感謝。

 

 今日はこれから坐禅会に行くことしている。夕方の五時からである。そして、明日また別なところで早朝坐禅会に行くことにしている。
 どうなることやら。いいこと悪いこといろいろあって、人生どう転がるさっぱり分からないね。

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たけし・所 vs とんねるず

2010年10月01日 00時19分54秒 | 日々の出来事・雑記

 テレビをつけたらたけし・所 vs とんねるずのゴルフをやっていた。何気なく見始めたのだが、想像以上に面白かった。最近は、関西勢に押され気味のお笑いだが、東京勢のたけし・所・とんねるずは、私達の年代にとっては一時代を築いてきたスターだ。
 罰ゲームのツービートの漫才は、すごく興味深かった。というのも、たけしがきよしに「適当にホラ吹くから、適当にやって」と真面目な顔をして裏で3秒の打ち合わせをやり、漫才に入ったのだが、面白い内容で素晴らしかった。次から次へとたけしが機関銃のようにホラを吹く。つい笑ってしまう。ただ、あれだけ聞くと天才のように思うが、多分、相当数の場数を踏んできた中で、うける話とうけない話を選別し、うける話のパターンをたけしなりに築き上げてきたのだろう。その後、カートに乗っているとき、「昔は一時間、漫才やらされていたよ」といっていたから、その中であのような形が出来上がってきたのだと思う。だから、打ち合わせ3秒で、すぐに漫才ができるのだ。

 とんねるずも最初は先輩とのゴルフで少し遠慮気味だった。しかし、罰ゲームのわさび入りの寿司をたけしに食べさせられてから闘争本能に火がついたようだ。たけしが寿司にかなりのわさびをいれて食べさせたから、石橋は少し切れた感じだった。私は、若手の中で威張っている石橋より、権力に対して反抗的になっている石橋が好きだ。ああいう時の石橋はすごくパワーがあるし、頼もしい。

 芸能界のことはよく分からないが、若手は先輩と飲みに行って、コネを作って頑張るみたいなやり方をしているのだろうか。もし、そうだとしたらその若手の将来はあまり期待できないように思う。

 先輩を倒して引導を渡すのは圧倒的な才能(もちろん努力も含まれる)である。たけしがドリフターズに引導を渡したように。
 あの世界で仲良くしながら、番組のレギュラーをとっていくことは難しい。たけしも石橋も凄まじい闘争本能である。ゴルフのプレーを見ていると分かる。ただ、そういう考え方自体古いのかもしれない。どういうことかというと、どんどんテレビ離れが進んで、広告収入も少なくなってきている現在、誰かを倒して天下を取るみたいな考えは通用しないのではないかということである。そもそも天下を取る天下自体がなくなりそうだからである。そういうことではなく、みんなで仲良くお笑い自体を盛り上げていこう的な乗りの方がいいのだろうか。
 
 本来、お笑いは、暴力的な緊張感が漂う権威や権力者を滑稽な視点で笑い飛ばし、その緊張感を緩和するためのツールであった。だから、たけしも石橋も強い権力者が現れると生き生きしてくる。しかし、今の日本に権威を持った人や強い権力者がいるだろうか。総理大臣でさえあのざまである。天皇はいい人で暴力的ではないから笑いものにはできない。せせこましい上司なんかを軽く笑いものにしている程度では、たいした芸人は出てこないだろう。
 強力な権力者が現れたとき、大物芸人が現れるのかもしれない。チャップリンがそうだったように。そのように考えると、平和な日本では、これから先、大物芸人は現れそうにない。しかしそれでもいいのかもしれない。緊張感の中から生まれてくる笑いも楽しいが、ほのぼのとした友情の中から生まれてくる笑いだってそれなりに楽しいから(タカアンドトシみたいな)。

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