日本人は情報戦に弱いといわれる。
それは全くの他人に対しては交流をシャットアウトし、逆に身内に対しては疑うことなく信頼するからである。そのような状況では自分以外の者に対する分析が不要となる。交流がなければ情報を収集して分析する必要はないし、また信頼しているなら分析の必要はない。
まず疑う心がなければならない。疑うことは決して悪いことではない。疑うからこそ事実を知ろうとする行動が生まれるのである。
あれほどオレオレ詐欺が蔓延したのは、疑う心が欠如していたからである。
人間には必ず弱い部分や悪い部分がある。利害の衝突する部分については、他者を害してでも自分を守るのが本能だからである。だから、誰であっても100%信頼するのは危険である。
しかし、疑う心をもつと同時に寛容の心も持たなくてはならない。弱さや悪さは誰でも持っているのだから許そうという気持ちである。その寛容の心が、ギスギスした猜疑心を無化する。
風立ちぬ 劇場予告編4分
ジブリアニメはもののけ姫を観たことがある。
あまり面白くなくてそれ以来ジブリアニメは観ていない。作品についてあまり関心がなかったことがその理由だ。
宮崎駿には熱烈なファンとアンチがいて何かと論争になることが多い。どうしてそうなるのかわからない。
ただ、今回の風立ちぬの予告を観て、心が激しく動かされた。
美しい日本の風景、ユーミンの素晴らしい主題歌、関東大震災と戦争という不幸な時代での希望と愛。
これは天才の仕事である。この作品は観てみたいなぁと思っている。
気温の温度差が激しくて、体調を崩している人が多い。また、直接の知り合いではないが、何人か亡くなられた方もいる。
このような時期は、体の弱っている人が犠牲になりやすい。
自分が弱いという意識はないが、それでも体調が悪い時がある。自分が弱ったときにこそ、弱者の視点を掴むことができる。
たとえば、医療費を手厚く保護しようという政策は、必ずしも弱者の視点ではない。これはパターナリスティック的政策である。親視点である。
私がもし癌になったら治療はしない。無視して生活する。抗癌剤を投与して、苦しみながら生きながらえるより、そのまま自然に死にたいと思う。こういうことが本当の弱者の視点であると思う。施しを受けて死ぬより、堂々と死にたい弱者だっている。
日本の政党には、本当の意味で弱者視点の左翼的政党は存在しないのではないかと思う。
民主党、社民党、生活の党など、リベラル的な政党は、反対や対立ばかりだ。しかし必要なのは、視点の設定だろう。弱者の視点で社会を見ることだ。
生活が厳しくても生活保護を貰いたいという人は意外と少ない。それより仕事をくれという人のほうが多い。だったら、景気を良くすることが先決である。別に自民党と対立する理由はない。しかし、視点は労働者視点で考えるということである。
どんな分野でもいいからちょっと物事を突っ込んでいくと、たまにびっくりしてしまう事がある。
そういうことだったんだという純粋な「驚き」である。マンガなら口をあんぐり開けているところを想像してもらいたい。あれである。
たとえば、最近驚いたことは熱力学についてである。
熱力学第二法則は熱は高温の物質から低温の物質に移動し、それが元に戻ることはないという法則である。具体的には、熱い湯は放置しておけば次第に冷めて室内の温度と等しくなり、圧縮された気体は解き放たれると周囲に存在する気体と混ざりあい均一化する、などである。エントロピー増大の法則とも関係が深い。
この法則は、閉鎖系の世界では有効だが開放系の世界では成り立たたない。私は地球は閉鎖系だと思っていた。しかし、開放系に近いということである。
エネルギー問題について、地球を閉鎖系と考えれば、これから先の世界のエネルギーはピークオイルにより絶望的状況である。しかし開放系と考えれば必ずしも絶望する必要はない。
今、プリコジンの「混純からの秩序」を読んでいる。
プリコジンの物理化学は、従来の閉鎖系ではなく、エネルギーの出入りがある開放定常状態系を扱っている。
宇宙のある部分は機械のように動くであろうが、それは閉じた系の話しである。
この閉じた系は、実験室のようなほんの小さな部分を占めるにすぎない。
私たちの興味のある現象の大部分は開いた系である。そこでは、環境との間でエネルギーや物質さらに情報の交換が行われている。
私たちは何かを予測するとき、実験室での出来事を機械的にあてはめ、その結果を元に次の事象を予測する。しかし、開いた系でのその予測は失敗する運命にある。実在のほとんどは、規則的で安定で平衡しているのではなく、変化し無秩序状態を含むからである。
プリコジンの言葉を使えば、あらゆる系はたえず「ゆらいでいる」部分系を含んでいる。その「ゆらぎ」が既存の組織を粉砕してしまうことがある。それゆえ、将来の予測は困難になる。
ちょっと難しすぎてわからないとこと多いが、何やら脳みそが刺激される本である。
ただ、ここで私が言いたいことは、世の中の仕組みはまだまだよくわかっておらず、簡単に結論を出してはいけないということである。決めつけは絶望の始まりだということである。
地球を閉鎖系と決めて、エネルギー問題を考えれば、人間の活動は衰え停止し絶望に陥ってしまう。しかし、何が起こるかわからない開放系と考えれば色々と希望が見えてくる。
私たちは絶望すると思考が停止し活動を止めてしまう。未来はないと勝手に絶望し死に至ること、それが自殺である。
しかし、絶望するのはちょっと早い。その考え方を拒否すべきである。ちょっと突っ込んで物事をみてみると、決めつけていた世界はガラリと変わり、全然ちがう景色が見えてくる。
世界は、私たちをいつも驚かせてくれる。
私たちの方でその準備があればだが。
体の危機に対して、覚えておくべき法則がある。「3の法則」というものだ。
まず、人間は酸素がなくなると3分で死んでしまう。それ故、仲間の呼吸が止まったら3分以内に何らかの処置をしなければならない。
次に、人間は風、雪、砂漠の太陽などの厳しい気象条件に、3時間以上さらされていると、深刻な状態に陥る。だから、早めにシェルターなどに逃げ込まなくてはならない。
また、人間は発汗、呼吸、排尿、排便などによって失われた水分を補給するために、3日以内に水を必要とする。
さらに、疲労によって体が衰弱するのを防ぐために、3日以内に睡眠をとらなくてはならない。
最後に、体の栄養を補給するために、3週間以内に食事をとらなくてはならない。
今日も熱い。外に長くいると熱中症になってしまう。
長時間にわたって大量に汗をかいたときに真水を飲むと、電解質のバランスが崩れて、低ナトリウム血症を引き起こす。症状は、めまい、吐き気、けいれんなどである。
対処法は、休息と真水ではない水分補給だ。
この症状を改善するために、世界保健機構(WHO)が薦める飲み物を紹介しよう。
・1リットルの水 ・砂糖、小さじ二杯 ・塩、小さじ二分の一 、以上をよく混ぜて飲む。
簡単な飲み物だが、効果は抜群だ。
タレントの剛力彩芽さんのバッシングが、2hなどのネットを中心に過熱化してきている。
バッシングの内容をまとめると、「可愛くない、歌もうまくない、それなのにテレビに出すぎ、ゴリ押しだ」というものだ。
私は個人的には好きな顔で(スタイルは巨乳好きなので好みではないかも)、可愛らしくていい子だと思っている。
このバッシングについて、まだ社会的タフさを身に付けていない若い子を寄ってたかって叩くのはいかがなものかと思う。
ただ、なかなか本質的なことを突いているので無視もできない。
ということで、このバッシングについて考えてみたい。
この批判の中で本質的なこととは、「ゴリ押し」という点である。ゴリ押しとは、広告代理店、事務所、テレビ局の悪の洗脳トライアングルによって、特別に人気のあるわけでもないタレントを、強引にプッシュし、スターにしていくという手法である。
これは心理学でいう「単純接触効果」といわれるもので、会う回数が増えれば増えるほど親近感が増すということを利用した手法である。テレビで見かければ見かけるほど、そのタレントが好きになっていくというわけだ。
この手法の可否はともかく、バッシングの怒りはもう少し別のところにあるような気がしている。それについて突っ込んで推測してみよう。
テレビ電波は、国民の税金で作られた、国民全員のインフラである。だから、テレビ電波は国民が求めるような番組が編成されるべきである。局に、完全な番組編成の権利があるわけではない。
では、きちんと民主的手続きがなされているのだろうか。(面倒な人は飛ばしても構いません)
この民主的手続きについての法的根拠
テレビ放送は総務大臣から認定されたところのみが放送できる(放送法93条)。一応、総務大臣は国民が選んだ国会議員=内閣総理大臣が任命するから、間接的に民主的コントロールが及んでいると擬制される。
しかし、本当は民主的コントロールなんか及んでいない、マスコミは表現の自由を盾にやりたい放題で、国民の思惑とは別に好き勝手に国民を洗脳する、という不信が前提にある。
そして、電波の有限性(デジタル化して本当は無限なのだが総務大臣の認定ゆえ有限)をフルに活用して、アホみたいに金儲けしている、これは許せない、ということだ。
このようなことが、ほんとうにあるかどうかは別として、この洗脳的な手法に国民は敏感になっている。だから、ゴリ押し的手法に腹が立つのである。
このこととAKB48と対比するとわかりやすい。
AKB48のアイドルの格付けは総選挙で選ばれる。民主的手法でアイドルの順位が決まる。少なくともゴリ押しではない。
この子は嫌いだと思っていても、民主的手続きで選ばれた以上、それを認めざるをえない。
やはり、広告代理店、テレビ局、事務所の思惑で事を進めるやり方と真逆だと言わざるをえない。ネット住民は、本質的に、このことに怒っているのだろう。
私個人は、テレビはあまりみないから、詳しく彼女のことは知らない。
だが、剛力彩芽さんのことを応援したいなぁと思っている。
タレントとはいえ、若い20歳の打たれたらすぐ壊れてしまう生身の人間である。別に、犯罪を犯したわけでもない、不倫をしたわけでもない。そんなに叩かれる理由は全くない。
私は今は全くカラオケに行かなくなったが、昔はよく行った。まぁまぁうまかったと思っている。あるとき、いいなぁと想っている子の前で歌う機会があった。緊張して音程が外れボロボロになってしまった事がある。穴にあったら入りたいくらい恥ずかしかったが、いま考えればいい思い出である。誰だってそういうことはあるだろう。
私もいい歳なので、20歳の子供がいてもおかしくない。だから、自分の子供だと思ってアドバイスしたい。
自分が特に悪いことをしていない場合で、よくわからないが強い批判を浴びているとき、その批判を浴びれば浴びるほど、必ずそれに反動するように強い支持者が現れる。必ず現れる。経験的に。
だから、それに負けないでタフに頑張っていきなさい。努力すれば実力はついてくるから。
私はダウンタウンのファンである。
ただ、長いことテレビのない生活をしていたので、全盛期の一番すごい時は観ていない。
昔の映像はyoutubeで見ることが多い。中でも、ガキのトークがすごいと思う。ダウンタウンは漫才より、アドリブトークのほうが面白い。
音楽で例えるなら、即興トークはジャズである。天才ジャズ・ピアニスト・松本人志と天才ドラマーの浜田のコラボレーションが、絶妙である。この二人がコンビを組んだからこそ、笑いの歴史が塗り替えられたのではないかと思う。
例えば、漫才はソナタ形式、映画は交響曲だとしよう。ダウンタウンの持ち味は、何回もいうが、即興のトーク、つまりジャズである。
しかし、悲しいことだが、最近あまり面白くなくなってしまった。それはなぜだろうか。
松ちゃんが結婚してプライベートをあまり話さなくなってしまったことも影響しているのかもしれない。家族を守ろうとするあまり、昔のような怒りの爆発が無くなった。人に何かを伝えたいという衝動が消え、パワーが落ちてしまったのだと思う。
歳をとると皆パワーは落ちてしまうから、仕方がないといえば仕方がない。
しかし、パワーは落ちても、円熟しながら変化していき、新たな境地を目指して欲しいものだ。それには、まず、ガキのトークを復活させたらいいのではないだろうか。多少、家族のことをくさすことになっても。
ところで、王者が弱ってくるとそれを倒しに若い者が現れるのが歴史の常である。
じゃあ、どのような若手がダウンタウンに引導を渡せるのだろうか。もちろん、面白いことが前提であるが、それだけでは王者を倒すことはできない。いくつか条件をあげてみた。
1つは、狂っていなければならない。先輩後輩の上下関係が厳しい芸能界で、旋風を巻き起こすためには、そのような空気を読まない狂気が必要である。この狂気が爆発力となって人々を圧倒する。
また、矛盾するようであるが、自分をクールに客観視できる人間でなくてはならない。自分の発した言葉が人々にどのような影響をあたえるのか客観的に分析できるだけの冷静さが要求される。
さらに、批判に対し、鈍感でなくてはならない。ネットで叩かれることをいちいち気にしていたら体が持たない。
最後に、善人でなくてはならない。どんなに悪そうに見えても腹黒く見えても、人の良さというのは必ずバレてしまう。それが魅力となるのである。
ただ、テレビが世間を圧倒した時代は終わりつつある。そのような状況もスターのあり方に影響を与えると思われる。相互コミュニケーションが可能なネット社会において圧倒的な支持を得るには、ネット内闘争に打ち勝つ高度なテクニックが要求される。