フリードリヒの日記

日常の出来事を、やさしい気持ちで書いていきたい

ノーサイドという考え方

2011年08月31日 23時13分30秒 | 社会・政治・思想哲学

 野田さんが代表選が終わった後、「ノーサイドにしましょう」と言っていた。ノーサイドってなかなか男らしい態度だと思う。試合が終われば敵味方なしということである。
 ただ、考えてみれば当たり前のことで、政治の目的は日本を良くするということであって、ある政治家が権力を手にすることが目的ではない。だから、たとえ自分が総理になれないとしても、日本が良くなればそれでいいはずである。政策の違いはあっても、本来、政治家同士は敵味方同士ではない。
 もし自分の主張する政策が唯一正しいもので、ほかは全部ダメだとすれば、人を蹴落としてでも自分の政策を実行すべきである。しかし、「日本を良くする」ための政策は一つではない。いろんな方法がある。

 
 もし、ある政治家が自分の主張することが全て正しくて他人の言っていることが間違いだと思っていたらどうなるのだろうか。
 その政治家は自分の政策と違う政策を実行したら、その政策の失敗を願うようになるだろう。なぜなら、それによって自分の主張の正しさを証明できるからだ。
 だが、ここに矛盾が生じていることにお気づきだろうか。政治家は日本を良くするために存在している。しかし、自分と違う政策の失敗を願っている。政策の失敗は日本がダメになることである。つまり、本来、日本を良くするために存在している政治家が、日本がダメになることを願っているということになるのである。

 もし、二大政党の本質が、自分たちの政策が唯一正しいもので相手の政策を阻止するものだとすれば、野党は常に与党の失敗を願う政党だ、ということになる。そして、与党が失敗し一時的に日本がダメになることで、自分たちが浮かび上がってくるシステムということになる。
 
日本の政治が停滞した理由は、自分の考えが唯一正しいものだと錯覚し、対立する相手の政策はどうせ失敗するだろうと願い、そして、その失敗によって利益を得るという考え方がはびこってしまったからではないかと思っている。
 
 そもそも、他者が何かを失うことで自分の利益を得るという考え方は人々を幸せにはしないし、結果的に自分の利益は増えない。資本主義と共産主義の対比から考えたら分かると思う。金持ちの利益を奪っても自分の利益は増えない。
 自分の利益を増大させようと思ったら、他人の利益が最大になるように配慮することが必要なのだ。自分さえよければという社会に明日はない。

 自分の考え方が唯一正しいと思うと、人の考えを受け入れられなくなる。そして、人の失敗を願うようになる。だから、ある目的を達成するための手段はたくさんあるのだという相対的な考え方が必要である。
 まず、自分の正しいと思う意見を主張する。その主張が通らなかったとしても、自分の主張が間違っていることにはならないが、他人の意見の方が正しいという可能性が高いことは率直に認めなければならない。だから、決まった他人の意見を尊重するという姿勢が求められる。それが「ノーサイド」ということではないか。
 一旦決まったことは一致団結して実行していくという政治が日本を良くする政治だと思う。それは別に連立しなくてもできるだろう。マスコミは対立したほうが面白いから対立をあおるような報道をする。確かに、議論は命がけで戦わせなくてはならないだろう。しかし決まったことは、皆で協力していかなくてはならない。
 こんなことは小学生のときに習ったことなのだけどね。
 

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日曜日の朝

2011年08月28日 09時00分18秒 | 日々の出来事・雑記

 9月は三連休が二回あるので南アルプスと奥多摩に行こうと思っている。南アルプスは、鳳凰三山を予定している。
 夏の縦走に向けてトレーニングを積んだので、腿とお尻の筋肉がパンパンになっている。片足でスクワットが何回もできるし、20キロくらいの荷物を担いでも下半身は全くぶれない。下半身が安定すると精神も安定してくるから不思議である。精神が身体をコントロールしているのではなく、身体が精神のあり方を決めている。それが自分なりにだんだんわかってきた。心の落ち込みや不安は、身体に働きかけることで根本的に改善できる。経験的に言っているから間違いない。そもそも、精神は脳の一作用であり脳は身体の一部だからである。当たり前といえば当たり前である。
 とは言っても、スピノザ的に言えば、悲しみの受動的感情、つまり生の躍動感を阻害する感情が、突然、私たちを襲うことがある。そのような場合に即効性のある対処の仕方は「リズム運動」なのではないかと仮説を立てている。叙情的な美しいメロディより単純なリズムを中心とした音楽、複雑な動きをする
ダンスより単純な手拍子や足踏みなどが効果的である。それによって身体を動かせば気分がだんだん高揚してくる。アフリカ的な身体運動が鍵だ。

 話がそれた。戻そう。下半身のパワーがついてきたことまで話した。しかし、持久力が足りない。なぜなら、縦走の後半になると必ずバテるからだ。だから、最近は筋力をつけることよりタイムを計りながらのジョギングを中心的にやっている。ジョギングは心肺活動を活発にする。心肺活動は体に酸素を送り込むシステムだと理解している。だから、心肺活動を良くするためには、心臓や肺の動きだけではなく、血管や血液の状態も良くしなければならない。血中の水分や塩分の状態も関係してくる。
 だんだんタイムも良くなり、持久力もついてきた。努力すれば体はちゃんと答えてくれる。

 昨日の夜は、久しぶりに重い荷物を担いでウォーキングをした。普通にやっても面白く無いので、30キロくらいになるように重りを増やして歩いた。おかげで筋肉痛である。
 ゆっくり歩くと、普段気づかない周りの音や情景を感じることができる。もうコウロギや鈴虫が鳴いていた。湿った夏の生温かい風ではなく、北から吹きつける涼しく乾いた風だった。秋はもうそこまで来ている。知らないうちに夏も終わりである。
 
 土手沿いにたくさん車が止まっていて、ライトアップしていたので、なんだろうと覗くと、映画の撮影をやっていた。阿部寛と石原さとみがいたらしい。メガネをかけていなかったので定かでなない。それでも、綺麗な女は雰囲気でわかる。石原さとみは確かに綺麗だ。軽くドキドキする。だが、イソップ物語の狐ではないが、手に入らないぶどうはすっぱいにちがいない。手に入らない女は、すっぱいということで、そそくさと通りすぎる。

 今日は図書館から山ほど借りてきた本を読んで過ごそうと思っている。天気がいいからもったいないかなぁと思いつつ。

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紳助報道、再考

2011年08月26日 09時00分16秒 | 日々の出来事・雑記

 テレビをつけたらフジで島田紳助の記者会見に嘘があるという検証をやっていた。まだやってんのかよという感じだが、問題は紳助と暴力団との関係だけではなさそうだ。
 まず、オバマ大統領が先月、「国際的組織犯罪に関する戦略」を発表した。その大統領令の内容は、国境をまたいだ犯罪で収益を上げる犯罪組織に金融制裁を科すもので、日本のヤクザなども制裁対象になっている。このアメリカの要請をうけて、政府は暴力団つぶしに本格的に着手したのだと思われる。
 警察は、羽賀研二の事件で得た情報をテレビ局にリークしてこのような報道を連日のように流すように情報操作している。覚せい剤を抑制するために、押尾、酒井を使ったのと同様の方法である。
 芸能人は知名度がある程度あるからお金になる。例えば、名前を知っている程度で売れないグラビアアイドルなどは、テレビでは高いギャラで使ってもらえない。しかし、知名度があるがゆえに、売春などをさせれば相当儲けることができる。このように芸能人は自分たちで金儲けはできないが、組織とつながることで利益を得ることが可能になる。だから、今回の報道は私たち一般人よりむしろ芸能関係者たちに対する警告なのだと思う。

 法律、社会的規範、慣習など、明文化されているかどうかは別として、私たちはいろんな決まりごとの中で生きている。昨日も言ったが、規範は秩序だから人間の意識で作り上げられている人工的な世界である。安全で過ごしやすいが、人間の本能を緩やかに制限する社会である。人間はそのような秩序の中で生きていればハッピーかといえばそうでもなく、ギチギチな規範の中ではだんだん息が苦しくなっていく。だから、無意識を志向する無秩序的な世界を求めるようになる。例えば、夜の繁華街みたいなものである。
 私みたいに自分勝手に自由に生きていれば、それほどアルコールや夜の繁華街のようなものは不要であるが、合理的な意識下で秩序を守らされ閉塞感を感じている人は、無秩序的な世界がどうしても必要になる。ただ、注意が必要なのは、繁華街は無秩序的で魅惑的な世界を作り出しているが、そこにはきちんとした秩序がある。無秩序的世界感は幻想である。それが分からなければ、いいカモになるだけである。
 生物は生きていくために、自分を侵害するものに対して攻撃をしなければならない。また、遺伝子を残すために性行為をしなければならない。それが自然である。しかし、私たちの意識で作り上げた社会は、自然を排除して人工的な世界をつくろうとする。そのような社会では、自然の一形態である暴力、性欲は排除される。そしてそのような行為は、プライベートな見えない所に隠される。
 規範が強まれば強まるほど、そのようなことが隠蔽されていくのだ。
 時間がなくなった。では、また。
 

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秩序とでたらめの間

2011年08月25日 08時59分30秒 | 社会・政治・思想哲学

 エントロピー増大の法則という科学的な原則がある。エントロピーとは「でたらめの程度」という意味で、ほっておくとだんだん秩序が崩壊し乱雑になっていくということである。自分の部屋を考えれば、全くその通りである。ほっておけばだんだん汚れていく。人間が歳を取ると衰えてしまい、いずれ死んでしまうのも、この法則によるものだ。秩序だった細胞はいつか崩れてバラバラになってしまう。生物は死んでしまう前に、子供を生み遺伝子を次につなげようとする。バラバラなることへの抵抗だ。ただ、このような種の保存もいつか宇宙の法則であるエントロピーに捉えられ、地球の生物も宇宙空間にバラバラに投げ出されることになるだろう。
 
 意識は秩序である。意識がなければ人間の一部はバラバラになってしまう。ただ、人間をはじめとする生物は意識がなくても、一応、それなりに秩序を守り生きていくことができる。ミミズには、脳がないがきちんと生きている。
 意識は過剰である。過剰に秩序をつくり、人間はそれにがんじがらめにされる。しかし、秩序が固まれば固まるほどエントロピーの法則に捕まってしまう。
 無意識は無秩序を志向する。正確に言うと、秩序と無秩序の間を漂っている。エントロピー増大の法則とうまく折り合いをつけていくには、無意識を活用しなければならないだろう。
 硬さが意外と弱く、柔らかさが想像以上に強いのは、でたらめとうまく折り合いをつけているからである。

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紳助の引退

2011年08月24日 09時07分09秒 | 日々の出来事・雑記

 昨日の夜、島田紳助が暴力団との関係を理由に芸能界を引退すると表明した。まぁ、関係といってもどの程度のものなのかよく分からないが、引退するとは相当大きな決断だと思う。
 もともとショービジネスと暴力団の関係については、悪い噂をよく聞く。テレビ以外のところでは、まだまだ関係があるのではないかと推測する。
 テレビは公共の電波を使っているので、暴力団との関係だけでなくいろんな規制が厳しくなっていくのだろう。テレビではできないことが増え、つまらないものになっていく流れは止められない。そして、面白いことは公共の電波ではなく、私的な(完全に私的とは言えないが)放送、例えば、ニコニコ動画やユーストリームのようなものに変わっていくことが予想される。ただ、現時点ではお金にはならない。どのようにして儲かるようなビジネスにするのかが問題である。
 これからのテレビのビジネスは、大変な時代になっていくだろう。紳助の引退は、いろんな意味で象徴的なことかもしれない。

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子供に対する愛情

2011年08月22日 16時49分29秒 | 日々の出来事・雑記

 声優の女性が里子を虐待したという報道があった。逮捕されただけだから推定無罪の原則が働く。一応、裁判が確定するまで彼女は無罪である。まあ、裁判が確定しても、本当の真実なんて明らかにならないけどね。
 この話を聞いて、少し前に図書館から借りてきた脳に関するDVDを思い出した。ある夫婦が子供を養子にして引き取るというもので、その養子になった女の子(小学校一年生くらい)が、赤ちゃん返りするものだった。この赤ちゃん返りは、文字通り赤ちゃんに返ってしまうものだが、それは新しい親が本当に自分を愛してくれるのかどうか確かめるために、一回赤ちゃんに戻って最初からやり直すという意味があるそうだ。DVDでは、小学生の女の子が、おむつを買ってきてそれをつけてもらっていた。そして、面倒なのは、その子がわざと親の嫌がることをしてして里親を困らせていたことである。子供はわざと嫌なことをして、それでも里親が受け入れてくれるのかどうかを試しているらしい。そのような行為を散々おこなってから、親に自分が受け入れられてもらっていると感じた時、本当の親子関係になるのだそうだ。親の愛情を知らない里子を預かると、大体の場合、このような面倒臭い過程を経なければならないとのことだ。多分、想像の域をでないが、死んでしまった里子は、この声優の里親に対して何らかの迷惑行為を行ったに違いない。
 このDVDを観たとき、愛情というのはぎりぎりの薄氷の上でなりたっているのだなぁと思った。自分の思うようにいかないから、当然、愛憎入り交じるがムカつくより少しだけ愛情が上回るから、子供の泣いたり喚いたりするめんどくさい行為にもぎりぎり耐えられるわけだ。
 私は子育てをしていないが、小さい子供はうるさくて迷惑な存在であることは想像できる。だから子供に対する愛情を維持するには、
相当のキャパが必要だろう。ただ、心配はいらない。人間は迷惑をかけられればかけられるほど愛してしまうという変なところがあるからだ。
 だから、少しだけ辛抱しよう。いま生じた一瞬の憎しみを乗り超えれば、深い愛情が必ずやってくる。人間の遺伝子には、子供を愛せと命令調で書かれている。そして、愛は時間に比例する。時間をかければかけるほど、自分自身が深い愛情に包まれるだろう。
 ムカっとしたとき、すこし辛抱すること。子供を育てるには最低限それだけは必要だと思う。虐待は、人殺しに匹敵する、いやもしかしたらそれ以上の罪だと思う。心に残った傷は消えないからである。

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強さと美しさ

2011年08月19日 08時57分19秒 | 日々の出来事・雑記

 女子サッカー日本代表いわゆる「なでしこジャパン」が国民栄誉賞をもらったというニュースがあった。アメリカとの決勝戦のとき、北岳山荘のテント場で軽い高山病になって唸っていたので試合は見れなかった。残念である。そのせいかあまりこの盛り上がりに乗り切れていないような気がする。
 ちょっとひんしゅくを買うようなことをいうと、日本代表は他国の選手に比べて美しいとは言いがたいと思う。ただそれは、個人個人の資質に問題があるというより、単に化粧していないからだと思う。飾りっけがない。今は化粧の技術が相当上がっていてそれなりの方法で化粧すればかなり綺麗になる。スポーツ選手の体型は鍛えられていてすごく美しいから、すこし飾ればかなり綺麗になると思う。
 日本人は何かに一生懸命打ち込むとき、チャラチャラと外見を飾ることに否定的なところがある。高校野球の坊主もその例だ。しかし、きれいに飾っても集中力が散漫になるということはない。むしろ、見られ注目されることで能力が上がっていく可能性がある。そして、強さと美しさは矛盾しない。むしろ、強いから美しいのだと思う。私たちの中には強い者に惹かれるという遺伝子がインプットされている。つまり、強いものを美しいと感じるようにできている。
 国民栄誉賞と共に熊野の化粧筆が送られたとのことだが、まぁ、良い贈り物なのではないかと思う。強い上に美しかったら、国民をもっともっと魅了することができるだろう。

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結果と行為

2011年08月18日 09時03分12秒 | 日々の出来事・雑記

 ああ、時間がない。10分でブログを書かなくてはならない。何を書こうか。
 結果と行為について考えてみる。例えば、山登りでは結果は登頂することで、行為は登頂するまでの過程である。私は結果より行為が好きだ。だから山登りでは、登頂することよりその間の過程が好きである。もちろん、高校野球などのスポーツでは勝つこと、つまり結果も大事かもしれない。しかし、結果を求めすぎると人生辛くなる。行為を楽しむようにすれば、本当に人生楽しい。
 結果を重視しない生き方だから今みたいな貧乏臭い生き方をしているのかもしれないが、まぁ、充実しているし楽しい。
 ニーチェは言っている。メロディは終わりに向かうが、メロディの終わりはメロディの目的ではないと。
 時間がなくなった。では。

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夏登山のおいしい山飯

2011年08月16日 20時38分19秒 | 登山

 昨日の夜、奥多摩縦走から帰ってきた。朝起きたらまだ疲れが溜まっていたから、今日は一日家でゴロゴロしていた。おかげでほとんど完璧に回復した。超回復。また一段と体が丈夫になった感じがする。

 奥多摩縦走一日目は、まず鳩の巣から川苔山をめざし、長沢背稜に入って一杯水避難小屋で一泊。二日目は一杯水避難小屋から雲取山に登頂し雲取山荘でテント泊。三日目は石尾根で奥多摩駅に下山するというものだった。一日の平均歩行時間はだいたい8時間くらいだったろうか。荷物が重かったからかなり疲れた。本当は飛龍山まで行く予定だったが、夕方天候が悪化したため止めた。
 
 ちょっとテレビをつけていたら、今年の夏の富士山登山の状況を放送していた。何でも富士吉田に富士山駅ができたらしく、富士山に登る人が増えたとのことだ。登山道は渋滞して登るのも大変そうだった。あんな感じになると登山というより人混みの中の観光地である。あんまり行きたいとは思わない。
 それに対して、奥多摩は本当に人が少なかった。奥多摩は低山で暑いから嫌だというが、そんなことはなく涼しくて快適だった。立ち止まると北西から吹いてくいる風で、涼しいを通り越して寒いくらいだった。ミズナラやブナの原生林のところは虫が多いが、杉林はほとんど虫がいない。どうしてこんなに素晴らしい所に人がこないのか不思議なくらいだった。まぁ、人がたくさん来ると静かな山を楽しめないからいいけれどね。
 
 今回は、イオンで買った400円の軽くて安いフライパンを持って行っていろんな料理を試してみた。かなり美味しくできたので食べることに関しては充実した登山だったと思う。ただ、荷物は重くなり体力が消耗したが普段鍛えていたので、まぁなんとか大丈夫だった。
 一日目の夜は、一杯水避難小屋で料理をした。冷凍した豚肉を持って行き、それとキムチを炒めて豚キムチを作った。それから粉末のハッシュドポテトにコーンときゅうり、マヨネーズを和えたポテトサラダを大量に作り主食にした。ハッシュドポテトの粉末はお湯を加えると膨らむから相当の量になってしまった。そのため腹一杯になった。
 基本的に朝昼は米粉で作った菓子パンを持っていった。このパンは添加物を使っていないのに一週間位日持ちするらしい。これもかなりうまかった。
 二日目の夜は、雲取山荘のテント場で料理をした。切って持っていったキャベツと乾燥にんにく、コーンビーフを炒めてそれを別にしておく。そしてフライパンでお湯を沸かす。フライパンに乾麺の焼きそばをいれて麺を作る。そこにさっきの野菜をいれ混ぜ合われてソース焼きそばを作った。それから、さとうの切り餅を茹でてチューブのつぶあんをかけて食べた。それだけでも結構な量だったが、その日は10時間くらい歩いたのでその程度のカロリーじゃ満足できず、どん兵衛のカップラーメンを追加で食べた。
 食べ終わって後始末をしてからテントで休んでいたら、すぐにゴロゴロと凄まじい雷が鳴ってどしゃぶりの雨が降ってきた。この日、本当は飛龍山の途中にある狼平にまで行く予定だったが、冷たい風が吹き大気が不安定になって積乱雲が出ていたので、天候が崩れるなぁと判断し、雲取山荘に泊まることにしたのだ。もし予定の飛龍山を目指していたら凄まじい雨に見舞われていただろう。我ながら素晴らしい判断だった。
 三日目の昼、鷹ノ巣避難小屋で料理をした。焼きそばの乾麺を使ってナポリタンを作った。玉ねぎとピーマンを炒めてから袋詰めになったマッシュルームを入れてナポリタンの素をからめる。これが想像以上にうまかった。山でスパゲッティを茹でるのは時間がかかるしガスももったいないので敬遠していたが、乾麺を使えば簡単に麺もでき、そこそこうまい。乾麺を発明した日本人は天才だと思う。スパゲティーだけで十分だったがついアルファ米のでエビピラフを食べてしまった。ちょっと食べ過ぎだったと思う。食べながら気づいたのだが、焼豚を刻んでエビピラフと一緒に炒めて最後にネギを添えたら結構うまいチャーハンが出来そうだ。今度試してみようと思う。
 フライパンを持っていくのは重くて大変だが、それでもそのおかげで山飯のレパートリーが広がった。山の中にこもっていると食べることがすごく楽しみになるので、なかなか充実した登山だったと思う。

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カモシカの親子

2011年08月13日 20時58分17秒 | 登山

カモシカの親子を見た。子供はびびって先に逃げてしまった。親が後を追っているところ。カモシカの子供は熊の子供みたいにコロコロしていて可愛い。写真を撮れなかったのが残念。

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