フリードリヒの日記

日常の出来事を、やさしい気持ちで書いていきたい

人生肯定の最高形式としての悲劇精神

2013年11月28日 22時56分45秒 | 社会・政治・思想哲学

 自己肯定のエネルギーに突き動かされる人間は、感染的模倣を引き起こすというのが、前回の内容だった。
 今回は、自己肯定のエネルギーが強い人間は、悲劇を引き起こす、ということについて考えてみたい。
 ここで小林秀雄の有名な「悲劇について」というエッセイを引用してみよう。
 ちょっと長いが。



 近代の思想家で、ギリシャ悲劇に着目して、その精神を新しい見方によって蘇生させた人はニーチェである。彼は、ギリシャ悲劇のうちに、自分の思想の深い動機を発見したのであって、彼の全思想は「悲劇の誕生」という種から成長した樹木だと言って過言ではない。
 ニーチェの議論は、反語や逆説や独断に充ちているが、彼がギリシャ悲劇に動かされたその異常な感動のうちには、およそ悲劇に関する動かし難い洞察が含まれていると思います。
 ニーチェはギリシャ人が立派な悲劇を書いたという事こそ、ギリシャ人が厭世家ではなかったというはっきりした証拠だと言います。ちょっと聞くと反語のように聞こえますが、それは悲劇と厭世という二つの概念を知らず知らずのうちに類縁のものと私たちが思っているからでありましょう。
 おそらくニーチェは、その事を頭において強く主張する。
 悲劇は、人生肯定の最高形式だ、と。 人間に何かが足りないから悲劇は起こるのではない。何かがあり過ぎるから悲劇は起こるのだ。否定や逃避を好む者は悲劇人たりえない。何もかも進んで引き受ける生活が悲劇的なのである。不幸だとか災いだとか死だとか、およそ人生における疑わしいもの、嫌悪すべきものをことごとく無条件で肯定する精神を悲劇精神という。 
 こういう精神のなす肯定は決して無智からくるのではない。そういう悲劇的智慧を掴むには勇気を要する。勇気は生命の過剰を要する。幸福を求めるがために不幸を避ける、善に達せんとして悪を恐れる、さような生活態度を、理想主義というデカダンスの始まりとして侮蔑するには、不幸や悪はおろか、破壊さえ肯定する生命の充実を要する。こういうディオニュソス的生命肯定が、悲劇詩人の心理に通じる橋である、とニーチェは言い切るのであります。

 


 厭世とは、人生に悲観し、嫌になっていることである。あくまで主観的な心の問題である。それに対して、悲劇は、人生や社会で起こる痛ましい出来事のことで、客観的事件のことである。
 客観的に見て何の不自由のない幸福な状態にありながら、厭世的気分の場合もある。逆に、悲劇的な痛ましい事件にあいながら、力強く生きていく人もいる。
 ニーチェは、いかなる悲劇的結果になろうとも、自分を信じ、勇気をもって前に進んでいく人間に共鳴したのである。
 悲劇的な結果を恐れず行動し、それによって酷いことが起ころうとも、それを無条件に受け入れ肯定すること。その精神を悲劇精神といった。
 
 わたしたちは、損得勘定をしながら合理的に生きている。 日々の生活を円滑に生きていくためである。しかし、そこには心を激しく揺さぶる感動はない。
 長い間生きていて、なんであんなことをしたんだろう、ということが誰にでもある。特に、恋愛をしている時はそういう場合が多い。人に反対されようが、恥をかこうが関係ない。ただ愛しているんだ、ということである。体の底から沸き上がるその強い衝動が、わたしたちを不合理な行動に走らせるのだ。 
 
 ただ、現実を冷静に判断し、損得勘定をしながら合理的に生きている私たちが、なぜそのような悲劇的な行動に感動してしまうのだろうか。疑問が残る。
 そこには、避けがたく悲劇的な行動に出ざる得なかったという人間の「運命」を感じていると思われる。
 次回は、この「運命」について考えてみよう。
 

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衝動に突き動かされた人間 感染的模倣

2013年11月20日 08時22分13秒 | 社会・政治・思想哲学

 物語をグイグイ読ませるには、共感を得るように書かなければならないといわれる。
 そのひとつの方法として、まず、主人公を目標に向かって走らせる。そして、簡単にはいかないように、葛藤や障害を設定する。その頑張っている姿に読者は共感する、という感じだろうか。なるほどと思う。
 
 ここでもう一度エチカを引用してみよう。
 われわれは、あるものを善と判断するから、そのものへ努力し、意欲しあるいは衝動を感じあるいは欲求するのではない。むしろ反対に、あるものを善と判断するのは、そもそもわれわれがそれに向かって努力し、意欲し、衝動を感じあるいは欲求するからである(エチカ第3部定理9注解)

 スピノザ的に言えば、目標があってそれに向かって頑張るのではなく、まず、衝動があるということである。
 宮台真司が面白いことを言っている。
 本当にすごい奴は、端的な衝動に突き動かされた人間だという。すごい奴はありそうもない衝動や不思議な動機によって、とてつもないエネルギーを発している。
 わたしたちはそのようなすごい奴に出会うと、理屈抜きにこの人のようになりたいと思ってしまう。この強烈な真似を「感染的模倣」という。 この感染的模倣は、共感を超えてしまっている。
 この強い衝動に突き動かされた人間に出会うと、彼の持つとてつもないエネルギーに引っ張られ、わけの分からない衝動が内側から生まれてくるのである。
 だから、共感を超え、人を感染的模倣にまで向かわせる物語を書くには、主人公のとてつもない衝動を表現することが必要になる。
 このすごい奴は、道徳的に正しい人ではない。道徳的善悪は関係ない。悪党だって感染的模倣を引き起こすことが出来る。模範的な人間ばかり出てくる道徳的な物語が説教臭くてつまらないのは、強い衝動が欠けているからである。
 本当の善は、スピノザ的に言えば、端的な衝動に突き動かされることだからである。 

 次は、この衝動に突き動かされた人間の悲劇について書きたいと思う。 

 

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コナトゥス(自己肯定の努力)について

2013年11月19日 08時30分15秒 | 社会・政治・思想哲学

 コナトゥスは、ラテン語で哲学用語の1つである。スピノザ哲学では、かなり重要な言葉である。コナトゥスとは、自己の存在に固執しようとする努力をいう。もうすこし噛み砕いて言えば、自己肯定のエネルギーである。
 
 まず、スピノザのエチカから正確な言葉を引用してみよう。読み飛ばしてもらっても構わない。


「どのようなものでも、それ自身にとどまる限り、自己の存在に固執しようと努力する」(エチカ第3部定理6)

「 あらゆるものが自分の存在に固執しようとする努力は、そのものの現実的本質にほかならない」(エチカ第3部定理7)

この努力は、ただ精神にかかわることによって、意志と呼ばれる。しかし精神と身体に同時に関係するとき、衝動と呼ばれる。その結果、衝動とは人間の本質そのものにほかならなず、その本性から自己の維持に役立つような多くのことが必然に導かれる。このことから人間は、その本性から導かれたものをなすべく制約されることになる。
 次に、衝動と欲望のあいだには、もっぱら欲望が自分の衝動を意識している人に関してのみ妥当する点を除けば、両者を区別するものは何もない。このようなことから、次の定義づけが可能になる。すなわち、欲望とはみずからの衝動を意識している衝動である、と。
 そこで以上のことを総括してみると、われわれは、どのような場合にも、ものを善と判断するから、そのものへ努力し、意欲しあるいは衝動を感じあるいは欲求するのではない。むしろ反対に、あるものを善と判断するのは、そもそもわれわれがそれに向かって努力し、意欲し、衝動を感じあるいは欲求するからである」(エチカ第3部定理9注解)

 
 エチカは何を言っているのかイマイチ分かりづらい。
誤読を覚悟でうーんとわかりやすくしてみる。

 あらゆるものは、自己を肯定するよう努力する。その自己肯定の努力は、そのものの本質である。この自己肯定の努力は、精神と身体に同時に関係する時は、衝動と呼ばれる。つまり、衝動とは、自己肯定のエネルギーである。
 私たちは、ある行為が善であると判断してからそれになろうと欲するのではなく、むしろ反対に、先に衝動や欲求を感じるから、その行為を善と判断するのである。つまり、自己を肯定するエネルギーを感じることが善なのである。

 

 スピノザはこの圧倒的な自己肯定のエネルギーを哲学の中核に置く。個人的にはこの点が一番すごいと思うのだが、レヴィナスなどには、あまりに利己的ではないかと批判される。
 しかし、わたしは自己の存在に固執しようとする努力を、単なる利己的で長生きに執着するエネルギーだとは思わない。自分のすべてを投げ出し、愛する者を守ろうとすることも、それが自己を肯定し、自分(精神)の存在を維持することになるのなら、それに含まれると思っている。 それが自己肯定の意志だからである。

 物語も人生もパラレルである。この自己肯定のエネルギーが感じられない物語も人生も、そのものの本質から外れている。

 ちょっとスピノザ哲学の解説になってしまったが、次回のブログも物語論でいこうと思う。まだまだ続く。

 

 

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なぜ?と何のために? 動機と目的の違い

2013年11月17日 19時09分56秒 | 社会・政治・思想哲学

 前回のブログの続き。前回、私は物語において「動機」が重要だと言った。動機とは、行動を起こすことになった原因である。
 
 私が今日ご飯を食べたのは(行動)、お腹が空いた(動機)からである。
 ご飯を食べる「目的」は生命を維持するためである。
 ちょっとややこしいが、この太字に注目してほしい。
 「ご飯を食べたのはなぜですか?」という質問に対しては、「お腹が空いたからです 」と答える。
 何のために食べたのですか?という質問には、「生きるためです」との答えが対応する。
 なぜ=why 
 何のために=what for である。
 「なぜ」は行動の動機をきいているのに対して、「何のために」は、行動の目的をきいている。
 動機はスタート、目的は結果、と考えると分かりやすいかもしれない。

 

 そこで、もう一度スピノザの言葉を引用してみよう。
 「われわれをしてあることをなさしめる目的なるものを、私は衝動と解する」(エチカ第4部定義7)
 
 この言葉は、どう考えてもおかしいように思う。行動する目的が、衝動なんてことがあるのだろうか。むしろ、行動の動機が衝動なのではないだろうか。
 だから、このように言い換えると、しっくりくる。
 「われわれをしてあることをなさしめる動機なるものを、私は衝動と解する」と。

 ただ、スピノザは「目的は衝動だ」と言っているので、それに従うしかない。
 このわけの分からない言葉の使い方を、一応、理解するためには、「コナトゥス」について考えなくてはならないだろう。

 それについては、次のブログで書いてみようと思う。だんだん、物語論から離れていくようだが、戻ってくるのであしからず。 

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物語における「動機」の重要性

2013年11月16日 21時41分38秒 | 読書・書籍

 最近、時間の合間を利用して頑張って一日一冊くらい小説を読むようにしている。今ハマっているのは今野敏である。読みやすくて面白い。もちろん長いものは一日では読めない。
 いろいろたくさん小説を読んで思ったことがある。いろんな人がいろいろなことをいうが、結局、物語を構成する上で最も重要なのは、「動機」なのではないかということである。
 
 そう言いつつ、動機とはなんだっけと思い、検索すると、こんな感じで出てきた。
 1 人が意志を決めたり、行動を起こしたりする直接の原因。
 2 心理学で、人間や動物に行動を引き起こし、その行動に持続性を与える内的原因。
 3 倫理学で、行為をなすべく意志する際、その意志を規定する根拠。義務、欲望、衝動など。
 いろいろと難しそうなことを言っているが、要は、主人公を行動させる原因のことである。


 例えば、プロットに関する書物を読むと、物語の中に、危機や葛藤を取り入れることが重要であると書かれている。
 危機とは、自分の生命や安全また社会システムの安定が、ある事件によって脅かされることである。しかし、自分の生命が脅かされたり、社会が混乱に陥るほどの危険があれば、それから逃避するのが合理的である。別にその危機に立ち向かう必要はない。
 危機的状況にあるにもかかわらず、あえて主人公が行動に出るのは、強い動機があるからなのである。例えば、愛する人を守るためだったり、である。
 また、葛藤も同じようなことがいえる。葛藤とは相反する2つの事柄があり、そのどちらかを選ばなくてはならず、その選択で迷うことである。選択する行為自体が行動となる。なぜ主人公はそれを選んだのか。それを選ぶ強い動機があったからである。結局、葛藤も行動の原因となった動機の強さを示す状況にすぎない。
 例えば、ロミオとジュリエットでは、家の名誉(家族への愛)と恋人への愛情が相反するかたちで現れる。彼と彼女が家族の名誉を捨て、恋人へと向かったのは、相手に対する強い愛情があったからである。家族の名誉の重要性が強調されるのは、愛の強さを示すためである。
 
 危機や葛藤は物語を停滞させる機能を持つ。決して物語を進める要素ではない。あくまで主人公の強い決意を表現する機能を持つに過ぎない。私たちは強い障害や困難にあるにも関わらず、それでも行動する主人公に感動するのである。
 また、その行動が納得のいくものでなくてはならない。菓子パン1つのために命を投げ出す主人公にリアリティーはない。
 そう考えると、気持よく物語を読み進めるためには、主人公の強い動機が示されなければならない。


 ちょっと話は変わるが、ここで動機の意味3を見てもらいたい。あえて衝動のところを太字にしておいた。それにはちゃんと意味がある。
 そもそも人間における行動の動機って何なのか、という疑問である。
 ここで私はスピノザの第四部・定義7を引用したい。
 スピノザは、
「 われわれにあることをなさしめる目的を、私は衝動と解する」
 と言っている。
 
 これについて、次回のブログで突っ込んで考えてみようと思う。




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島倉さんの歌について

2013年11月15日 09時02分44秒 | 日々の出来事・雑記

 島倉千代子さんの死の直前に録音した歌がテレビで流れていた。死ぬ直前とは思えないくらいきちんと声が出ていることに驚いた。さすがプロの歌い手だ。
 島倉さんは、美空ひばりほどの歌唱力はないかもしれない。しかし、その歌い方は独特で、唯一無二の個性がある。なんとなく守ってあげたくなるような声の調子が心地よく響く。
 毎年たくさんの歌手が生まれては消える。その厳しい業界の中で、彼女が生き残っていけたのはその唯一無二の個性があったからだろう。彼女の歌は聞けば聴くほど心を動かされる。
 
 彼女は、状況ではなく、方向性を重視した歌い手だったのではないかと思っている。
 状況とは現在の自分の置かれた環境のことである。方向性とは、希望的な方向に向かっているのか、絶望的な方向に向かっているのか、その矢印の向きである。
 わたしたちは、絶望的状況にいながら希望を抱くこともできるし、恵まれている環境にいながら絶望に陥ることもできる。
 島倉さんの歌は、やさしく矢印を上に向けていくように私たちを導いてくれる。そのポジティブな歌と彼女自身の生き方が、私たちの心を静かに揺り動かす。彼女はつらい状況の中でも前向きになることを歌で導くことのできた稀有な歌い手だったと思う。
 彼女の死を聞いて不思議とさみしい気分になったが、ご冥福をお祈りしたい。

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警察を見たら、逃げるな

2013年11月08日 09時01分41秒 | 日々の出来事・雑記

 昨日、歩道で自転車に乗っていた。かごに置いていた傘が落ちたので急ブレーキをかけた。その時、たまたまパトカーがゆっくり道路を走っていて、その車の中の警察官が私を凝視していた。多分、私をパトカーを見て逃げようとする不審者だと思ったのだろう。パトカーは、私が傘を落としてそれを取っただけなのを確認してから、通り過ぎていった。
 ちょっと気分は悪かったが、なかなか優秀な警察官だなぁと思った。パトカーは警察官二人組で乗っているので、その二人の連携がうまくなければ、犯罪は防げない。
 例えば、私が覚せい剤を所持していたとする。連携がうまくいかなければ、逃げようとする不審な動きに対応できないだろう。

 昨日、闇サイトで知り合った男三人が、車で田園調布の女子中学生を拉致し、身代金を要求しようとしていたところ、その車を甲州街道の検問で見つけたらしい。これはお手柄だ。
 単なる外見からその人が、犯罪を犯しているのかどうかは分からない。しかし、その人自身は知っている。その心の動揺が外部に現れる。だから、警察官を見て逃げたり、汗をかいたり、口ごもったりすると怪しく思われるわけである。
 犯罪者になるのだったら、タフな精神を持っていなけれなならない。基本的にタフな精神を持っているのは異常者である。だから、普通の人は犯罪を犯さず、正直に生きていくほうがいい。
 
 今回のお手柄や傘の件から想像するに、警察もなかなか優秀であると思う。少ない人員で頑張っているのだと思う。その辺は素直に評価したいところである。



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三頭山から笹尾根縦走 2

2013年11月07日 19時27分41秒 | 登山

  笹尾根は日本山岳耐久レースのコースになっている。歩いているとトレランをしている人とよくすれ違う。
 最近は、トレイルランニングをしている人と年配の登山者が、すれ違う時にぶつかったりしてトラブルになっているそうだ。
 たしかに、狭い道なんかだとぶつかる可能性はある。そのへんは譲りあいの精神で、うまくやっていきたいものだ。

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 冬でもモンベルの#3で頑張っていたのだが、冬は寒いので#2の寝袋を買った。使うにはちょっと早かったようだ。暑くて寝袋から出て寝てしまった。

 
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 笹尾根は東京都檜原村と山梨県上野原市の境目になっている。面白いのは、右の山梨県側は杉が植えられていて、左の東京都側は広葉樹林になっている。杉は紅葉しないので、あまり面白くない。

 
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 生藤山の頂上はあまり広くないが、富士山が見える。

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 陣馬山付近に来ると、急に人が多くなる。大きザックを背負っていると、ちょっと恥ずかしい。私を見て小さい子供が「でっかいザック背負ってるね」と言った。「そうだよ」と言ったら、目をぱちくりしていた。最近ガタイがいいので怖いのかもね。


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 紅葉はまだ早いようだ。



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 景信山山頂。この時点で16時。もうそろそろ下る時間だ。そうしないと暗くなってしまう。高尾山まで行くのが目標だったが、達成は出来なかった。
 そして、想像以上にきつかった。低山だからといってナメると大変なことになる。
 また、そのうち荷物を軽くして挑戦しようと思う。

 

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三頭山から笹尾根縦走 1

2013年11月04日 13時30分54秒 | 登山

 長い間ブログを怠けていた。
 こんなブログでも、きちんと読んでくれている人がいるので、できるだけ毎日書こうと思う。
 
 ところで、今年もあと二ヶ月。秋も深まり紅葉の季節になった。ということで、11月2,3日に奥多摩の笹尾根を縦走してきた。
 まず、11月2日
 奥多摩駅からバスで峰谷橋まで行き、ヌカザス尾根から三頭山まで。三頭山から笹尾根で水場のある日原峠でテント泊。
 11月3日
 日原峠から浅間峠、生藤山、和田峠、陣馬山、景信山から下山し、小仏バス停から高尾駅。
 こんな感じで笹尾根縦走してきた。予定では、高尾山まで行くはずだったが、時間切れで景信山で断念。
 

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 峰谷橋バス停から、浮き橋で奥多摩湖を渡る。途中、TBSが浮き橋を見下ろせる上の方で、何かを撮影していた。

 
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 三頭山登山口。


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 ヌカザス尾根は奥多摩三大急登の1つである。
 だから、テントを背負って登るのはかなりきつかった。少し前に、三大急登の1つの稲村岩尾根に登ったが、ヌカザス尾根のほうがきつい感じがした。もちろん、体調などによっても、きつさの感じ方は変わってくるので、正確なところは分からない。
 特に、鶴峠分岐前の「オツネノ泣坂」がきつい。
 
 このオツネノ泣坂には、歴史的逸話がある。
 奥多摩湖畔に川野の集落があり、そこに杉田入道広重という豪族がいた。
 そこの召使にオツネという美しい娘がいた。また、同じ村の浄光院という禅寺に香蘭という若い修行僧がいた。その香蘭とオツネは恋仲だったたそうだ。
 二人は夜の逢引きを重ね、次第に深い仲になっていく。
 住職はその二人の関係が修行の邪魔になると考えた。そこで香蘭を三頭山の向こう側にある西原の宝珠院に移すことにした。
 しかし、オツネは香蘭を忘れることが出来ず、三頭山を超え西原の香蘭の元へ向かう。
 短い逢瀬の後、夜が明ける前に急いで川野の屋敷に帰らないと、主人に逢瀬がバレてしまう。
 オツネは一生懸命山を駆け抜ける。やっと三頭山を超えるあたりに、滑りやすい急な坂がある。夜は明けそうになるし、膝はガクガクしてくるし、坂は急だし、オツネは泣きながらこの坂を下っていったという。
 
 実際にこのヌカザス尾根を歩いた事を踏まえて、感想をいうと、オツネさんは相当きつかったに違いない。片道だけでも死にそうなのに往復するわけだから。
 それにもかかわらず、山越えの逢瀬をするということは、よほど香蘭の事を愛していたのだろう。愛の力はすごいと言わざるをえない。
 ちなみに、このことを歌った「ツネ泣き峠」という歌があるので、その動画をアップしてみた。



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 鶴峠を超え、三頭山山頂。すごい人だった。三頭山山頂はいつも人が多い。

 

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 山頂付近は、紅葉が始まっていた。見頃なのかどうか定かではない。最近の紅葉は、赤みが足りないような気がしているのだが、私だけだろうか。

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 槇寄山、西原峠、笛吹峠、小棡峠、土俵岳、日原峠と笹尾根をわたる。
 日原峠に着いた時は、もう16時半になっていた。本当にクタクタだった。久しぶりにへろへろになった。そのため、日原峠の写真を撮ることを忘れていた。
 日原峠を5分ほど下ると水場がある。ほとんど滝のように水が流れていて、冬でも凍りつかないのではないかと思われる。水場にカメラを持っていくのを忘れて、写真を撮れなかったのが残念だった。
 その日は、飯を食べて、すぐに寝た。
 
 2へ続く。

 

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