フリードリヒの日記

日常の出来事を、やさしい気持ちで書いていきたい

みのもんたのラジオを聴いて思ったこと

2013年10月26日 14時31分10秒 | 日々の出来事・雑記

 休みに三頭山から笹尾根で高尾山まで縦走しようと思っていたが、あいにくの台風で中止にした。
 雨が強く降っている午前中は、今野敏の「隠蔽捜査」を読んでいた。なかなかおもしろい。
 
 午後になって、とりあえず本を置いて、今、文化放送の「みのもんたのウィークエンドをつかまえろ」を聴いている。多分、朝スバを降板することが決まってから初めての生番組だと思う。
 今はそれほど視聴率は取れなくなってしまったが、一時は日本のテレビ界を代表する司会者で、その影響力は絶大なものであった。
 その影響力については、功罪さまざまあったと思う。政治や行政の暗部に切り込んでいく部分は「功」の部分だった。しかし、それにもかかわらず、個人的にあまりみのもんたが好きになれなかったのは、日本のマスコミ特有の左翼的思考に嫌悪感を感じていたからだろう。これは個人的なことなので、みのもんたに罪はないのかもしれない。
 
 時代には流れというものがある。
 ちょっと話はそれるが、アメリカの財政状況は信じられないくらい悪化している。彼らは日本の助けを必要としている。
 アメリカはどうしても日本との連携が必要なのである。
 日本のお金を上手に取り込もうとするために、また、中国が軍事的に台頭してきて、いずれアメリカに脅威を与える可能性があることが、その理由である。
 アメリカは韓国を中国共産党の防波堤にしていたが、韓国を捨て、日本との連携を強めていくことに決めたようだ。
 戦後、アメリカは日本に自虐史観を押し付ける政策をとっていた。それに従属するように韓国は日本に歪んだ歴史観を主張してきた。日本のマスコミはGHQがつくったものなので、そのような自虐史観を繰り返し日本国民にすりすり込もうとする。韓国とマスコミに親和性があるのはそのせいである。
 しかし、時代は大きく変わってきている。保守系言論の力がどんどん強くなっている。保守系の言論の場はネットである。
 韓国は中国と連携しつつ、いずれ属国化するだろう。もしかしたら、北朝鮮を中心に統一がなされるかもしれない。それに対抗し、アメリカは日本と連携を強めていく。それしか中国の台頭を止める方法はない。
 このようにして、新しい冷戦の軸が出来つつある。オーストラリア、インド、インドネシアは私たちの陣営に入るようだ。ロシアはその対立をじーっと見守っているという感じだろうか。
 このような流れの中で、反韓が強まっていくのは、仕方ないことだ。在日特会などのヘイトスピーチすら止められなくなっている。
 日本のマスコミが、まだ自虐史観を続けていくようなら、ますますその勢いは落ちていく。
 そして、話は戻るが、前時代のマスコミの力の象徴だったみのもんたの影響力が落ちていくのは、当然の流れである。

 とはいっても、ラジオを聴いていて思ったことがある。やはり、みのもんたは一流である。人の心を引く声のトーンや感情を動かす言葉の使い方などは、簡単には真似のできない芸を持っている。さすが話のプロだと自分でいうだけのことはある。つい内容に関係なく説得されそうになってしまう。逆にいうと、そこが危ないのだが。
 思うに、ジャーナリスティックな政治的・道義的な責任追求などはやめてしまって、人の心を癒やす優しい語りに集中していったらどうだろうか。
 一度失敗したことや人間的弱さなどを経たほうが、単純ではなく複雑な感情を表現でき、語りに説得力が出てくる。
 そのように深みのある円熟した方向に舵を切ったほうが、世の中のためにも、自分のためにもいいように思う。
 
 

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笑いにおける言葉と身体

2013年10月24日 09時01分07秒 | 日々の出来事・雑記

 お笑いについて色々な分類が出来るが、ここではあえて言葉と身体に分けて話を進めてみよう。
 言葉はお話の滑稽さで笑わせる。典型的なものは落語である。もちろん、純粋な言葉だけではなく、表情やしぐさも付随するが、言葉が優位するという意味で。
 身体とは、滑稽な体の動きで笑わせるものである。チャップリンやミスタービーンとかはその典型だろう。
 昔のドリフターズ(特に志村けんの変な踊り)とか欽ちゃんの笑いは、身体が優位していた。激しい動きによって人々を笑わせていた。
 それから、たけし、タモリ、さんまなどのビックスリーと呼ばれる人達によって、言葉の笑いが優位になっていった。ダウンタウンが、それを決定付けたといえるだろう。
 ただ、言葉による笑いは、別にテレビでなくてもよい。ラジオだって十分笑わせることは可能である。
 身体を使った笑いは、テレビや舞台でしか実現できない。聴覚ではなく視覚を必要とするからである。そして、ライブ感が重要となる。
 子供は、この身体を使った笑いが大好きである。だから、小島よしお、はんにゃなど、動きの面白い芸人は子供に人気がある。
 言葉から身体へというのが、テレビの生きる道だと思うのだが、言葉で笑わせるほうが安上がりなので、テレビ局はどうしても言葉に頼ってしまう。
 笑いは、ある意味、観念の格闘技である。人をたくさん笑わせるものが、世間を支配する。
 手練手管のベテランのお笑いタレントをバッタバタをなぎ倒していくのは、舞台を走り回れる生きのいい身体である。言葉では敵わないが、身体の動きで勝負すれば、まだ勝てる可能性がある。それにもかかわらず、若者は言葉で勝負にいっている。
 このへんに硬直したバラエティーに、風穴を開けるヒントが隠されているように思うのだが。

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松戸の女子大生殺害事件について

2013年10月23日 08時57分59秒 | 社会・政治・思想哲学

 2009年10月に千葉県松戸で強盗に入り、女子大学生を殺害する事件があった。
 一審では裁判員制度で死刑判決が出たにもかかわらず、その高裁判決では無期懲役になったそうだ。
 その理由がこうである。先例の傾向をみると、被害者の一人の強盗殺人で計画性のない事例について、死刑判決はない。今回の事件については計画性が認められないので、死刑ではなく無期懲役が妥当、だそうだ。
 この結果について、被害者の家族は納得出来ないだろう。私が被害者家族だったら、絶対に許せない。
 問題は、判例をどう考えるかにある。刑法の構成要件は、犯罪が成立するかしないかについては書かれているが、原則として量刑については裁判官の判断に委ねられている。その判断のよりどころが判例なのである。今回の事件について判例の基準に従えば、「被害者が一人であること、計画性がないこと」の二つが揃えば、無期懲役になる。
 ただ、判例を変えることはありえる。裁判官に度胸と納得のできる理由付けがあればだ。
 裁判官が、過度に判例を重視していたら、裁判員制を導入した意義は薄れるだろう。

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雲取山 三峯神社コース (2013 10月13・14日)

2013年10月16日 18時50分08秒 | 登山

 東京の最高峰・雲取山にはいくつかのコースがあるが、秩父方面から登る三峯神社コースには行ったことがなかった。というのも、家から行くとアクセスも悪いし、電車代も高い。ただ、一回は行きたいと思っていた。
 そこで先週の土曜日に一泊で行って来た。
 道はきれいに整備されていて登りやすいコースだった。初めてテント泊をするとするなら、おすすめのコースだ。
 雲取山荘に、人がたくさんいてびっくりした。登山人気も一過性のブームではなく、いよいよ本格的になってきたようだ。

  

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 ちょっと分かりづらいが、ギザギザしたのが両神山。

 

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 下山してから、三峯神社をまわった。広くて良い神社だった。


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 やたら手のデカイ日本武尊像。ちょっと笑える。

 

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 みんな神木に触れてパワーをもらっているようだ。その御利益を得るために、行列ができていた。
 ただ、神木に触るだけではパワーはでないと思っている。一回だまされたと思って、山に登ってきてみればいいと思う。次の日は筋肉痛になるだろうが、その後、信じられないぐらいのパワーが体にみなぎってくる。パワーは安易な方法では得ることはできない。
 
 紅葉はまだまだだったが、楽しい登山だった。
 今年は紅葉を楽しむために毎週登山に行こうと思っている。いい写真が撮れたら、その都度アップするつもりだ。よろしく。

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三鷹市で女子高校生が刺殺された事件について

2013年10月10日 09時03分17秒 | 日々の出来事・雑記

 三鷹市の事件について検索していたら、被害者のプライベートエロ動画にヒットした。2,3分の短い動画で、多分、携帯かスマホで撮ったものだと思われる。
 確実に本人だと分かるもので、あの動画が流出した時点で、本人が望んでいた女優への道はほぼ不可能だったのではないだろうか。

 彼女のブログのコメント欄に、ビッチだとかの書き込みがあるらしい。しかし、私はすこし違うイメージを持っている。動画を見る限り、やさしい気持ちでやってあげている感じで、エロさは全くなかった。その点で、優しい子だったという報道と矛盾しない。もちろん、私の主観的感想だが。
 ちなみに、この動画はもう消されて見れなくなっている。

 
 ところで、女性の性欲を科学的に分析したところ、10代、20代はそれほど性欲は強くないそうだ。歳を重ねるうちにだんだん強くなって、30代後半にピークがやってくるらしい。
 生物学的に考えても、そのほうが合理的である。若い時は、特に何もしなくても男性に言い寄られる。だから、少数の優秀な遺伝子を残すという観点からは、あまり興奮しなく性欲は少ない方がいい。男を選ぶ冷静な判断の方が優先されるからである。逆に、閉経に近くなると、早く子供を作ることが優先される。それ故、性欲が強くなっていく。もちろん、個人差はあるだろう。ちょっとした余談。



 このようなストーカー事件が報道されると、いつも思うことがある。
 まず、刑務所に入ろうがどうなっても気にしない相手をコントロールすることはできない。そのような相手から逃げることは不可能である。私たちは、四六時中、周りに注意を払っているわけにはいかない。
 だから、このような状況に身をさらさないことが重要である。このストーカー的状況に陥りやすいのは、魅力的な女性である。だから、魅力的な女性は、相手の性格を見極め、判断を間違えてはならない。そして、傷つけないように男をあしらうことも学ばなくてはならない。


 また、ストーカーをする男の立場から考えてみよう。相手の女性が好き過ぎてストーカーをする場合は、殺すまで発展はしない。相手を殺してしまおうとする男は、相手を愛しているというより、自己愛が傷つけられたことが原因で怒っている。つまり、振られたことでプライドが傷つけられたわけである。
 このような男には一定の特徴がある。それを、見抜かなくてはならない。どの男も綺麗な女性の前では、紳士的に振る舞う。だから、男が第三者的な立場の人間にどのように振る舞うかを観察しなければならないだろう。人間を深く知らなくては、世の中をうまく渡っていくことは難しい。

 ストーカーに関する法律を厳しくしたところで、このような事件が減るとは思えない。国家は事件が起こったあとの事後的な処理しかできないからである。自分の身は自分で守ることが基本である。

 

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親友の娘

2013年10月07日 23時47分41秒 | 日々の出来事・雑記

 高校時代の親友の娘が、日曜日にお台場に遊びに来ていた。帰りにお台場から東京駅まで送ってくれないかと頼まれたので、送ってやった。
 この娘は昔からよく知っている。お母さんのお腹の中にいる時にディズニーランドを案内したのだけれど、その時からの付き合いである。その後、
何回か家族で東京に遊びに来るたびに、私の狭いアパートに泊まったりして交流を深めた。私には子供はいないが、もし子供がいたらどんな感じなのかなぁと想像すると、思い浮かぶのがこの娘である。
 早いもので、もう高校を卒業して働いているとのことだった。何年かぶりに会って、大きくなってびっくりした。レディと言うにはまだまだ程遠いが、それでも十分に大人で軽く扱うことはできないくらいになっていた。
 ただ、たわいもない話をいろいろしていくうちに、基本的な部分は変わっていないなぁという印象を受けた。この「基本的な部分」とは何なのか自分で言っておいてよくわからないが、本質的な部分はいくつになっても変わらないということだろうか。三つ子の魂百までも、である。その辺の性格的な部分が見えてくると、昔のちっちゃい頃を思い出して、すごく可愛らしく感じてしまう。
 自分が育てた子供でもないのに、すごく愛情を感じるのだから、お父さんはすごいだろうなぁと想像する。
 愛情というのは不思議なものだ。うまく言葉にすることができない。いちいち言葉にしなくてもきちんと愛していれば分かるという考え方もあるだろう。私も半分はそう思っている。しかし、表現しなければ伝わらないこともある。だから、それを恥ずかしがらず、きちんと伝えることも時には必要なのだろう。



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式年遷宮

2013年10月03日 08時51分50秒 | 日々の出来事・雑記

 昨日、伊勢神宮で式年遷宮が行われた。式年遷宮は、二十年に一度社殿を建て替え、奉納する宝物や装束なども新調して、神様に引っ越してもらう儀式である。
 正確に言うと、昨日の儀は、遷御の儀といい、八年間にわたって続けられてきた祭事や行事のクライマックスで、新しい社殿のうち正殿にご神体を移すものである。
 この式年遷宮は、約千三百年前の飛鳥時代から続く神事である。社殿や宝物などを二十年ごとに新しくすることで、常に若いまま、いつまでも変わらない永遠の姿を目指し、国の繁栄を願う。今回が六十二回目だそうだ。
 このような歴史ある儀式を維持しつづける日本を誇らしく思う。

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