思考の踏み込み

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雑記2

2014-01-31 08:49:10 | 
こういう不思議なシンクロはよくあることだが、王について書いて僅か二、三日だったので多少驚いた。

藤平氏の本によれば、王の一本足を指導したのは藤平光一その人であり、荒川博も、榎本喜八も藤平の指導を受けていたという。これは知らなかった。

そればかりか、広岡達郎も彼の弟子であり、広岡が指揮した西武ライオンズの選手たちも藤平の指導を受け、西武の常勝軍団としての道筋をつけたという。

大相撲の千代の富士も藤平の影響を受けており、藤平がその著作で説く理論が広く身体技法の世界で受け入れられていたことがわかる。

いずれにせよかつての日本球界にいた魅力ある選手達はこの藤平や、前途した "武" の系譜の影響を多少なりとも受けていてそこに選手としての魅力があったように思う。

体格もよくなり球種も増え、データ、戦術様々に発展し、競技としてのレベルは明らかに現在の方が高いだろう。

だが、プロ野球ファンとは果たして野球そのものが好きなのか、選手が好きなのか?
個性的な魅力はかつてとはくらべるべくもなくなってきていることは確かである。

さて一本足打法成立については、当時はかなり冒険的な決断だったようだ。
その頃は足を高くあげるフォームなど存在しなかったからで、王自身も成績を残せていなかった時期だから、選手生命をかけた、まさに命がけの挑戦だったのだろう。

詳しくは藤平光一の著作を直接読むことをお勧めするが、面白いのは長嶋茂雄に指導したときの話だ。

やはりこの男は天才か。
というよりも彼もその "系譜" の中にときに顕れる達人なのだろう。
それも一流派を起こしてしまうタイプの自己の世界観の確立した人物だったと思われる。

長嶋が野球ではなくて、武術をやっていれば長嶋流~道が生まれていたことだろう。
どちらにせよ理解し、ついていける弟子はごく僅かな天才だけだろうが…。



雑記

2014-01-31 08:14:16 | 
集中力について考えていて、王貞治という人を主題に投稿して僅か数日。

偶然というか、まったく意図していないのに知り合いに藤平光一氏の本を借りることになり、そこに一本足打法の成立の秘話が書かれていた。

藤平光一。



合気道開祖、植芝盛平翁より唯一十段を授けられた巨人である。

彼の存在はもちろん知っていたが、不思議とその著作などに触れる機会は今までなかった。

世間的にも塩田剛三氏の方が名前も知られているのではないだろうか?
もちろんそれは合気会と気の研究会の相克の問題もあるのかもしれないが、そんなことは門外漢の自分にとってはどうでもよい。どんな組織であれ、完璧な組織などないから、初代が亡くなれば多少の分裂や相克は当然のことだからだ。

(塩田剛三の演武の鋭さと美しさはたとえば定期的に黒澤映画が観たくなるように、今まで何度も観て知っていた。)



間違いないことはどちらもつい最近まで存命していた天才的な達人であるということだが、その藤平氏の本が面白い。

何冊か読ませて頂いたが、中村天風や植芝翁との出会いと影響、そして山岡鉄舟の高弟、小倉鉄樹との邂逅。

何というか、例えば剣豪小説を読んでいてその世界観が ー 我々現代人には剣豪小説イコール歴史小説なのだが ー それがはるか昔の事でなくその系譜が繋がっていて、実際に神技の使い手としてついこの間まで実在していた人達であるということに改めて驚きを感じた。

そしてその系譜はいまも細々とではあるが、繋がっているだろう。
本物の名人達人ほど表には出てこないものだ。


処理と創造8

2014-01-30 08:27:44 | 
ともかくも、あの空海という宗教的大天才でさえ、自前で宗教を作ることをせず密教を "輸入" しただけであるという事実をよく考えてみる必要はある。



その意味で日本史上、真にクリエイティブに何かを創り出した最大の人物は利休であろう。

彼には明らかに新しく"価値観" を産み出そうという意識があり、実際にそのために命がけで闘った。

古臭いイメージさえある茶道は本来、極めて新しいモノであり、それは現代においてさえ具眼のもの達にははいささかも色褪せていない。

長次郎黒楽茶碗

"知っている" ということは大事なことである。

こうした "創造" に関しての我々日本人としての性質と歴史を知ったならば、あえて粗雑なものから始めることに挑むということもできるようになるかもしれない。

そして想像力が乏しいという思い込みを外すこと。本来どんな人種であれ、人間の能力に限界などないからだ。

そうなると日本人は歴史上はじめて (そういっても大袈裟でないと思う) 民族としての "創造" という未知の領域を開発していけるようになるだろう。

もちろんそのために必要なのは "処理" の問題をきっちりと整理して行うことだ。

歴史の整理という課題をいつまでも棚上げして政治の駆け引きの道具に使われることを許し続けてはならない。

本物の想像力の生まれる母体には偏りのない歴史認識に基づいた正統で、連続性のある文化的環境が必要といえるからだ。

そうすればこの先、おもしろい国になっていくのではないか ー 。
そんな風に信じてやまない。


処理と創造7

2014-01-30 08:17:20 | 
さて創造のことである。

日本人は常に創造力について批判されがちであった。かつては猿真似文化とさえいわれた。

本来、人種間で能力の差はないと思うが、文化的影響によってその差は出てくる。

その意味で日本人の創造力に対する指摘はけして外れていない。

なぜか?

日本という国は地理的条件によって新しいモノは常に海外から持ってくるだけで十分であった。

しかも、良悪の選択も自由に行えた。
やがてそれは新しいものを生み出すより、既にあるものを研ぎ澄まし、高めていく方向へと向けられていく。

日本の文化のあらゆるものが高い水準にあるのはこのためである。

以前、海外の新しいスポーツを紹介している番組を見たが、なんだか粗雑で不恰好なおもちゃでもみるような想いがした。

( 変なスポーツ)

しかし、創造とはほぼ全てがこの粗雑なおもちゃから始まるのではないか?

常に新しくて綺麗なおもちゃばかり選んではとってきて充足してきた日本人の感覚では、わざわざ粗雑なもので遊ぶ気が中々おこらない。

しかもたかが粗雑なものでも産むときには血みどろな産みの苦しみが伴う。

これまで日本人はそれをあえて行う必要がなかったし、その気も起こらなかった。

そう考えてくると日本人に創造力がないという批判は当たっていなくもない。
正確には創造 "力" がないのではなくてその必要に迫られにくかった、ということだが。


処理と創造6

2014-01-29 08:21:28 | 
白洲正子という人は敗戦間もない時代に語っている。

戦争に負けてこれから世の中はもっと変わる。
ー 私は 変わらないものをみつめよう。



これは怒涛のように新しい価値観が流れ込んだ時代にあっても、人間が目を開けて本当の価値観を見つめうることができるということを示してくれた言葉といえよう。

彼女のような人が少なからずいてくれたお陰でこんにち "日本" はようやく息をしていられる。

一度冷静に考えてみるといい。

ブランドのバックに果たしてどんな価値があるのか?
高級車を買い、恥ずかしげもなく乗り回すことが一体何だというのか?

食通を気取って贅を尽くし、味わうことの本質を理解しないものたち。

愚にもつかないステータス心理、誰かが意図して流布させているとしか思えないセレブリティという言葉、見栄や外聞を取り繕うのに精一杯で奴隷の様に働き続け、たいして価値もない生活レベルを必死で維持する社会構造、、

白洲正子の見ていたものや、かつての日本人が見につけていた感覚。

その感覚を正常に取り戻さなければ日本人にとっての創造的な活動はスタートできないだろう。

なぜならどんな創造もその文化的背景の中からでるものであるから、この作業を経ずして何をしたって欧米の物真似と言われて終わるだけである。

明治期の様な物真似をせざるをえなかった時代とは違うことにそろそろ気づかなければならないと思う。