思考の踏み込み

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前田智徳3

2014-07-31 00:22:59 | 
前田を天才と評する人物は数えきれないが、私はその事自体にはあまり興味はない。このことは後述する。

またよく言われる事だが、前田が "怪我さえなければー " という仮定の話でもって、記録を色々引き合いに出して他者と比較する事もそれほどに意味を感じない。
記録は記録でしかない。

記録に現れないところに、計り知れない魅力があるからこそ、人はわざわざ球場まで足を運ぶのである。

どんなにOPSやRCWINとかいった詳細な評価のシステムが作られても、野球選手の全ての価値をデータ化することなどできない。

当然、私が前田に感じている魅力はそんな所にはない。




前田の魅力はその生き様にこそある。


尽きることのない "高み" を目指し、一切の妥協をしない厳しさ。

その為には余分なモノを全て切り捨てる、ストイックなどという言葉で説明していたら物足りないほどの追求心。

前田には宗教性は見当たらないから、求道という言葉も本来当たらないのだが、その推進力を既存の言葉で表すにはやはり "求道" という言葉を選ぶしかない。

その片鱗は高校時代のエピソードで既に見受けられる。



高校三年の夏、熊本県大会決勝。
0ー1で前田の熊本工業がリードしている四回表、前田の打席。

既にその実力は知れ渡っている前田に対し、相手ベンチは歩かせても良い、と指示する。

相手投手は指示に従い、ボール球を二球続けた、そのとき ー 。

「ストライクいれんかい!勝負せんかい!」

バットを持ったまま前田はマウンドに歩み寄り怒鳴った。
相手投手もまた立派な "肥後もっこす" 。
「何やとこら!?。」


審判が間に入り、「こらこらお前ら、喧嘩と違うぞ」と取りなして事なきを得たが、プレー再開後、相手投手がベンチの指示を無視して真っ向勝負で投げ込んできた球を ー 前田はライトスタンドへ叩き込んだ。




ー こんな高校生が何処にいるだろうか?
これは戦後の大時代的な雰囲気の頃の話ではない。

昭和すら終わった平成元年夏の ー 実話である。






前田智徳2

2014-07-30 00:15:32 | 
前田の魅力や凄さについて語られるとき、決まって取り沙汰されるのがイチローの発言であろう。


「僕は天才じゃない。本当の天才、それは前田さんの事 ー 。」



そう語り、若き頃のイチローは憧れの選手として公言していた。

しかし、現在のイチローは前田について語ることはないし、内心では前田などとっくに超えている、と思っているかもしれない。

そんな事はどちらでもよい。
要は何年も前のイチローの発言を引っ張り出す必要など今さら無い、ということである。

そんな事をしなくとも前田の野球界における打者としての天才性は、そのムダのない動きを観ていればプロでなくとも判ることである。




イチローの古い発言を引っ張り出す事は、今さらイチローもいい迷惑であろうし、前田もむず痒いだけだろう。

だが身勝手なファン心理というのは、この手の話題が大好きでたまらないものでもある。
今回はあえてそこに乗っかってみてもいいかもしれない。

天才は天才を知るというが、前田の天才性を評価しているのは、いずれも超一流のプレイヤーばかりである。

落合博満は現役時代の前田を評して語っている。


「今の野球界で真の天才は前田だけだ。子供に真似させていいのは、前田のバッティングだけだ。」


たしかに落合のフォームは子供にはマネできないだろう。
というより "オレの高度なバッティング技術は誰もマネできまい" という落合の強烈な自信が、この言葉の奥底にはあるかもしれない。



だがこれは深読みのし過ぎかもしれない。
落合は前田の打撃についてこうも言っている。

「それはプロ野球50年の歴史の中でずっと理想とされてきたフォームなんだ。皆がお手本として良い打撃だー 。」


前田自身もまた、落合の事は認めていた形跡がある。
前田は謙虚な男であるから目上の人物には礼儀正しいが、それを差し引いても落合は別格に見ていたと思われる。

イチローについては 「内野安打なんか打って何が嬉しいのか」という前田の発言が痛烈である。


これはイチローと前田の、ヒットに対する考え方の違いに過ぎないが、理想の打球を追求して求道者の如くあり続けた前田だからこそ言えるセリフでもある。



(イチローの為に弁護しておこう。彼の内野安打は、彼の高度なバットコントロールの結果である。即ち野手の間を抜く ー 狙った所に打つ、という彼にしか出来ない技術が、たまたま野手に追いつかれた、というケースのモノであって、やはりそれは尋常なテクニックではなく、メジャーも含めた野球の長い歴史の中でも "至宝" と呼んで差し支えない程の技術である。)






前田智徳

2014-07-29 00:31:18 | 
"前田" といえば私にとって、前田敦子でも前田吟でもなく、前田日明でもないし、前田太尊でもない。
むろん前田慶次郎でも利家でもない。

私にとって前田といえば、広島東洋カープの前田智徳以外にはない。




以前榎本喜八についてふれた時、いずれ前田智徳について書きたいと予告していたので、ここらで書いてみようと思う。

近年のカープファンにとっても前田といえば "マエケン" 前田健太の印象の方が強いかもしれない。

前田健太は素晴らしい一流の投手である。
人間としても野球選手としても明るくて努力家で立派な人物といえよう。




だが、人間として、少なくとも "男" としての魅力で前田智徳には及ぶべくもない。
私にとっては生涯前田といえば、前田智徳であることは変わらないだろう。

"前田智徳" ー この孤高の天才は去年惜しまれながら引退した。

しかし、不思議と悲しくはなかった。

それよりも前田の為にホッとした、というのが正直なところである。
これは前田を愛する者たちであれば共通した感覚ではないだろうか。

あまりにも永く厳しい怪我との闘いの日々、何度も倒れては立ち上がり孤高の道を歩み続けた二十有余年…。
前田はもう十分にやった、ゆっくり休んで欲しい…。

前田引退の報を聞き、感じた想いは以上の様なモノであって悲しくはなかった。しかし、もう前田は観られないのか、と思うと広島カープ自体よりもプロ野球自体に対する興味まで薄れていった寂しさを感じたことは覚えている。



"長嶋" 引退の頃は私は知らないが、長嶋ファン達が感じた寂しさは何となく想像できた。

その長嶋茂雄をもってしても、"天才" と呼ばしめた男 ー サムライ前田智徳という男について書いてみようと思う。


黄色15

2014-07-28 00:20:22 | 
ー 空間 (真空を含む) に、電界が生じると磁界が発生する。

磁界の変化は電界を変質させるが、それを行っているのが "電磁波" である。

電磁波の速度は秒速30万km。
光もこの電磁波の一種なのであり、色はその一作用にすぎない。

さらに地球の大気には電磁波を吸収する性質があるから、ほとんどの電磁波は地上までは届かない。

電波とごく一部の赤外線の他は可視光 ー つまり我々が "光" と呼ぶ範囲の電磁波しか大気を通過できないのである。
その波長の範囲を "光の窓" と呼ぶ。

(電波の波長が無限に長い範囲を持つ事から比べてみれば、可視光の幅の狭さ、そして大気を透過してくるという奇跡!それが鮮明になってくる。)



" ー 光あれ。 "

とは旧約聖書創世記の有名な一節だが、その "光" が地上の我々の目に届くという事実がいかに奇跡的な確率かを思えば、まさにそれは "神" によって開けられた "窓" だとしか思えない気がする。

その、窓から差し込む七筋の波長は人間の視界では一つの "色" にまとめられる。
すなわち "白" である。



白が民族国家を問わず、神の色であることは言うまでもない。

その中の一つ一つの "色" は従って質としては "神" の内容そのものであり、ここで展開してきた様に、例えば "黄色" や "青" や "赤" などが、それぞれに固有の "力" を有し、我々に様々な作用をもたらす事も当然の事といえるかもしれない。




ー この辺りで今回はやめておこうと思う。
相当に寄り道し、脱線し、まとまらない内容であったが、黄色を中心に七つの内の五色に立ち寄れたから個人的にはまずまず、良しとしたい。

いずれにせよ普段、人に混じってこの世界で暮らすなら、明るく、楽しく、"黄色" の様な空気感をまとって行きたいものである。
(もちろん自己の内側は別であるが…)

黄色14

2014-07-28 00:19:05 | 
例えばシリウスやヴェガなどの星は青白く夜空に光る代表的なものだが、その実際の色はまったく異なる。

だいたい星の色は表面温度で決まる。
シリウスなどは太陽よりもはるかに高温の天体で表面温度は9500℃にも達し
色で言えば本来紫に近い。

(まるで紫の花が咲いているかの様なオリオン大星雲。)


"紫" ー それは赤の情熱と青の冷静の両面を併せ持つ最も複雑で深淵な色である。現代有彩色の中で唯一、まだ開発の余地のある色だとも言われる。

紫外線は物質を変質させる作用を持つが、紫が我々の心理に与える複雑な変化もまたそれに似た要素を感じる。
実際、紫の短い波長はDNAの損傷を修復する作用を持つとさえ言われる。

"紫" が高貴な色とされてきた秘密はこの辺りにあるのかもしれない。

ともかくこの辺りまで来るともはや黄色の要素は完全に姿を消すが、かといって対立もしない。

黄色の無邪気で明るくて騒々しい性質を、"紫" は落ち着き払って大人な態度で静かに見つめる ー 。



さて、そのオリオン座の中のベテルギウス。これなどは赤、それも赤外線に近い赤い星 (赤色超巨星) であるし、ぎょしゃ座のカペラなどは太陽と同じ様に緑の天体だと考えられる。

星空の色彩一つとっても、世界は我々の概念を覆し、いかに我々が見ているモノが極めて狭い範囲で、なおかつ事実と乖離したモノであるかを教えてくれる。

シリウスよりも高温で1000℃を超えてくれば紫外線星となって我々の可視光域を超えた色彩で輝くことになるし、さらに100万℃という超高温となるとX線を放出するX線星、つまりブラックホールとなる。

それは色などは存在出来ない世界である。



全ての光を反射する完璧な黒体、完全無欠の "黒" などは存在しないが、ブラックホールにあえて色を見出すならばそれに近いかもしれない。

だがブラックホールは反射ではなく、光さえも吸収してしまうのであるからやはりそれは黒という "色" にはなりえない ー 。