思考の踏み込み

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ブッダ35

2014-06-07 05:20:25 | 
さて ー そろそろこの長くなった主題も終わりにしようと思う。
(そもそも28で一度終えるつもりだったが筆がすべるという慣用句はキーボードやタッチパネルでは何と言えば良いのか、ともかくも29以降は蛇足の感が強い。)

それはともかく、一つ補足しなければならない。


"悟り" とは身体の変化であると述べたが、どうもこれは説明不足であった。

正確には身体の変化による世界の見方、つまり宇宙の本当に正しい捉え方、というのが "悟り" の本質であろう。



宗教とはどんな宗派であれ、必ずこの宇宙がいかに成り立っているかを説いている。
そこからスタートしなければいかに生きたらいいか導き出せないからだ。

この世界の仕組みに適った生き方を見出す以外に本当の幸せはない。
なぜなら我々もその世界の一部であるからだ。

(「環境保護」などはその意味で本当は思い上がった言葉である。環境に保護されているのは我々の方であることに立ち戻らなければ、環境破壊など止むことはないだろう。)

現代人はこうした世界の理解を物理学と自然科学に求めているが、どうにもそれだけでは説明できないことが多すぎることに、賢明な人々はすでに気付いている。

そして、その世界の成り立ちを把握するにも、正しい感覚がないと間違った解釈が生まれるだけである。

邪教などはそこから生じる。

その正しい感覚をどこに基準を求めればよいのか、ブッダでさえ抽象的にしか説明できなかった。
(八正道というやつがそれである。)




しかし、それをD先生は具体的な身体技法としてわかりやすく説く。
何が正しいのか正しくないのか、その基準をどこに置くのか ー 。

これはまったく革新的な事である。
D先生の研究によって人類が一段階進める可能性があると言えるのもそれ故である。



ー ようやく、我々はここまでこれた。

ブッダが血みどろになって切り開いた道を ー 永い歴史の中で、埋もれて消えそうだったその道を、ようやく我々は再発見して歩み出すことができるようになり始めた。

これから ー 我々はそういう時代に入っていくだろう。
ブッダがこの世は "苦" だ、と言わざるを得なかった悲しみから、ようやく抜け出せる時代が訪れようとしている。

私はそう信じている ー 。









…随分と ー 長くなってしまった。

本来、文字だけで伝えられる内容でないものを無謀にもここまで長々と書いて、果たしてどれほど意味があるのか我ながら疑問を感じている。

それともう一度断っておかねばならないことは、ここで書いた多くの内容はD先生の研究に対してのまったくの私個人の考えであってD先生その人の思想ではない。
何よりもD先生の研究が歪んで解釈されてしまうことを私は恐れる。

願わくば ー お読み頂いた方々が、この拙い文章の至らぬ表現をそのまま受け取ることなく、その奥の真意を汲み取りたまわれば幸いである。

ともかくも最後まで読んで下さった方に謝意を表してこの "ブッダ" という主題を終わりにしようと思う。


妄言多謝。

ブッダ34

2014-06-06 07:26:12 | 
だが ー その武士道教育の内容を洗い出してしまえば結局のところ、肚と腰を据わらせるという一点に尽きる。
彼らは死を常に身近に置くことで、それを日常的に練り上げていたのである。


(全身肝っ玉と言われた勝安房守海舟。気力の充実が眼力に及んで智力まで満ちていることが写真からも感じられる。特別な修練を積んだ形跡のない勝がこれほどの下腹の充実を有していることに特殊な武士道教育の一端が垣間見得る。)



結局 ー 甘えの構造からも、立姿という非構造からも脱却し強くなるにはやはり臍下の一点に立ち戻る以外にはないのである。

その具体的な集め方や鍛錬の方法もD先生の研究内容には当然含まれる。


だがD先生の研究はけして武士道教育や修行僧の様な極端にストイックな世界ではない。
もっと楽しみながら学べる様に作られている。これはまったくありがいことだろう。

D先生の願いは人間がいかに佳く生きるか、いかに溌剌とその生命を輝かせるか、という事にあると私は思っている。

求めれば厳しい世界も、高みも用意されている、というだけで普通の者は多少の甘え構造の中にあったところで問題はない。
そうやってかばい合う事も人間らしさであるからだ。
いや、もっとも人間らしいことといってもいい。

そういう果てしない優しさがD先生の世界観にはある。

結局人間性の開発をしていくには、二本の足でしっかりと大地に立つ覚悟が必要とされるから、こうした事をわざわざ書いてきたが、全ての者がそこまで強くならなければいけないとも、したがって私は思わない。

大事なことはいかに明るく、楽しく生きられるかである。
ことさらに "苦" を求める必要などない。
しかし、弱き者は人に優しくする余裕もないし、花を観て美しいと感じる心も弱い。




やはり強さは求めるべきものなのだが、それを求めるところまでいけない弱き人々でもD先生は受け入れてくれる。

それはブッダが説いた "慈悲" と質として同じものである ー 。

そしてブッダの果てしない優しさは同時に悲しさの表れでもある。
世界中の苦しむ人の為に心を痛めたブッダの想いはいつになれば和らぐのか。



ブッダが千手観音と化し、文字通り八面六臂に駆け回っても追いつかない。

そろそろ一人一人が何かにすがることをやめ、半歩でも前に進む決心をするべきではないか。



ブッダ33

2014-06-05 06:38:42 | 
少なくとも口だけで世界平和や人権や人道支援を叫ぶよりも、一人でも多く "正しく立てて、深い呼吸のできる" 者が増える方がより良き世界への近道だと思う。

なによりも現代社会の真の支配者にとって、一番御しやすいのがこの手の何かに依存する人々なのである。
現代世界は一般の人々が考えている以上に支配者に搾取される構造になっている。

彼らはいかに搾取するかを、いかに人類を洗脳して家畜化するかを、世界トップの頭脳を集めて研究している。
そして搾取し家畜化させるには、依存させることが一番近道なのである。




そうした事実に対抗するためにも、一人一人自ら立つ覚悟は必要なのである。

悟りを開くためではない。

この矛盾した現代社会を生きるためにどうしてもその覚悟は必要となってくるから、わざわざ本筋から逸れてこんな話をしている。

それを都市伝説と思うか思わないかは、まさしくあなた次第であるのだが、都市伝説ですむならすんでほしいものだ。
だが世界の現状を深く鑑みれば答えは自ずと出てしまう ー 。

その上でどう動くか動かないか。
本当に問われているのはそこなのである。



ちなみにこの依存の精神構造ができあがるにも止むを得ない理由はある。

人体は全ての機能が完成するまで時間が他生物に比べて圧倒的に長い。

呼吸器ができあがり、内臓系が発達し出すと物ごころがつき始める。
性器の発育と共に思春期にはいる。

全てが完成するのは27歳頃だという。
なぜそれほどに時間をかけるのか?

単細胞の生物ほど成長に要する期間が短い事を思えば、その答えは明白といえる。
それほどに人体は高度に複雑な構造であるということだ。



言いかえればそれほどに "愛情" を注ぐことで人間は他生物と違う "何か" を獲得してきたともいえる。
大人として完成するまでの長期間、周囲に護られることを必要とする生物として進化したということだ。

その代償として人には、抜き難い甘えの構造が刷り込まれるのである。
何かに寄りかかる精神構造もここに端を発している。
これはよほど鍛錬しなければ抜けないものでもある。

屈強な軍人でも戦場で死にかけると、決まって叫ぶ言葉は母を求める声であるという。
なんと情けない話ではないか。

死に臨んでなお泰然とあり続けることをかつてのサムライは幼少期より教えこまれたが、それほどに特殊な教育環境でなければこの甘えの構造はなかなか外れない。



しかしこんにち武士道教育などは成立しえない。
なぜならサムライとは文化的軍事集団とでもいうべきか、ともかく特殊な存在であるから、ごく一般の生活者がどんなにその形や精神を真似たところで核心の部分がまったく違う。
(このことはいずれ「日本人論」というテーマで投稿するつもりだ。)


ブッダ32

2014-06-04 01:18:34 | 
正しく二本の足で立つ ー 。

それは腰が弱いとできないものだ。
しっかりと足の内側に重心をかけ、第一蹠骨で立たねば、腰は決まらない。
猿はついにこの第一蹠骨を発達させることができずに猿のままでいる。




だが心と身体は表れが違うだけで、一つのものであるから覚悟を決めるだけで腰は強くなり、中心がでて拇指球で立てるようになることもある。

身の密なるを心といい、心の疎なるを身という ー 。

光が粒であり、波でもあることに似ている。

真に寄りかかるべき柱の無いことに気づけばこそ、肚が座って身体が統合に向かい、大悟にも至れる。

"撃竹大悟" や "桃花悟道" といったエピソードも同じであろう。
なぜそんな事で悟りに至れるのか、頭で考える者には禅坊主の虚言にしか聞こえまい。

狩野元信 香厳撃竹。

しかしこれも身体の統一へ向かう鍛錬の果てに、ブッダ16で触れた他の一点との統合というのが実際だろう。
芭蕉の "蛙飛びこむ水の音" も質として変わらない。


当然だが理屈でその事を知ったからとて誰も彼らと同じわけにはゆかない。
その前段階のその鍛錬をしるべし。



たとえば ー 国の制度に寄りかかる者、病院に寄りかかる者、家族に依存する者…

スピリチュアルという観念世界に寄りかかって現実から目をそらす者。
(もちろん中には本物もいるが、ほとんどは観念であろう。観念とそうでない確かなものとを区別する方法はD先生の身体技法にある。)

またはパワースポットとかいって何かの力を手軽に得ようとする者。境涯や運命のせいにして自己と闘わない者。
占いに一喜一憂する者…。



政治家に社会の責任をなすりつけること。
(政治家などは真の権力者の操り人形か御抱えの役者でしかない。彼らの政治劇場に振り回されるのもそろそろ止めにしてはどうだろうか。)

あるいは教育そのものを学校や教師に丸投げする親達。
教育とは親もしくは社会が行うものだ。学校は勉強を教わるところである。

一人でも二人でも、こうした寄りかかりの精神構造から抜け出してゆけば少しはマシな世の中になってゆくかもしれない。


ブッダ31

2014-06-03 10:04:11 | 
"溺れる者がつかむ藁さえも奪う"

ー とはD先生のそのまた師の言葉だが、そうしなければ人間は本気で自ら泳ごうとしない。



本来泳げない人間はいないのである。
なぜなら死体は必ず浮くのだから、カナヅチの者には別の理由があるとみるべきだろう。

だが別に泳がなくとも生きていける。藁にすがって生きることも悪くはあるまい。

だが人としてせっかく生まれたのだから、泳ぐ喜びを味わってみようとしてみてもいいのではないか?

藁をも捨てる覚悟は容易なことではないが、人間の能力は限界を越えたところでようやく真価を発揮するものだ。

古来の行者たちが厳しい修行で身体をいじめ抜いた理由もそこにある。

そして我々はその限界値の設定が常に手前過ぎる。自らの限界値を設けた瞬間に人間はそこまでしか行けなくな
る。
もっと "いのち" の力は無限なものである。




本当は天才も凡人もないのだ。
ただ開発の速度の差があるだけである。
その速度の差が生じるのは身体の状況と使い方なのである。

この研究はD先生が現れるまで誰も系統だててすることができなかった。

だがそのD先生の研究を持ってしても、自分で泳ぐ気のない者、藁どころか浮き袋を二つも三つも掴んで離せない者にはなんの助けにもならない。


ある禅僧は柱にもたれかかろうとして、そこに柱がなく後ろに倒れた。
そのときに大悟した、という。

寄りかかるべき真理は我が内にこそある。それに気づくことはすでに寄りかかることから離れている。

かつて ー 太古の昔に、前足に寄りかかることを止め、二本の足で立つ覚悟を決めた人類は、もう一度自力で立ち上がることを考えるべきではないか。