思考の踏み込み

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真田昌幸7

2014-01-19 02:28:15 | 歴史
今まで何気なく素通りしてしまっていた歴史的事象にすこし踏み込むことで思わぬ方向へ思考は進む。

今回、何気なく秀忠遅参という事実が家康の心理にどう響いたのだろうかとふと疑問に思ったことから発したものが意外にも教育の問題につながってしまった。

ここでこの問題に戻ってみると、家康は実際どうだったのか?
少なくとも合戦という大博打にあって主力軍不在は大きな痛手であるはずである。

それでいてなお多くの武将が東軍につき、家康に味方したのはどういうことか?

家康の根回しの周到さによるのか、三成との器量の差か。
あるいはほとほと戦乱の世に疲れ切っていて皆が平和を願っていたか。

おそらくどの要素もあてはまるだろう。これが歴史の必然とか時代の流れというものの正体だと思う。

家康の見事である所は、その時代の勢いを掴み秀忠を待たずに合戦に踏み切った決断力にある。

機を逃さずつかまえることは準備を完全に整えることよりも大切である。
そして戦とは本来想定外のことが必ず起こるものだ。

この家康という百戦練磨の老獪な男がその生涯に行った幾つかの決断のうち、これは最大のものの一つといえよう。

その時勢に乗った男を最後まで恐怖させたのは真田昌幸とその子幸村こと信繁。



信繁は夏の陣において家康本陣まで攻め込み、二度までも家康に自害を決意させかけた。

真田の六文銭は冥銭、即ち三途の川の渡し賃である。
真田親子は時勢はどちらに向いているか知っていただろう。
それは信繁の兄信之を東軍につけていることからもわかる。

それでも昌幸、信繁は義を通し、美を貫くために時勢という名の家康という力に立ち向かった。

これを反骨という。

東京一極集中で脆弱になった昨今の日本の地方からはこういう人間は出てこないだろう。
地方立ち上がるべし。


真田昌幸6

2014-01-19 02:23:35 | 歴史
天海は公式には関ヶ原以後に家康幕下についたとされるようだが、別の資料には家康関東入府時にすでに同行していたともいわれる。

いずれにせよ、現代の我々はこの天海と家康が行った国作りのシステムにもっと注目すべきだろう。



明治期において強烈な中央集権は当時の世界情勢を考えれば必用であった。

だが今日においてなお、その体制を続けることは危険である。

特にマスコミが行う東京史上主義を煽るような媒体行為は地方から自信を奪い、萎えさせるばかりである。
これらが一部のマス勢力によって意図的に行われている洗脳工作であるという陰謀論まである。

その事実の詮索はどうでもよい。

たしかなことは間違いなく地方が脆弱になっていっているということである。

田舎にいくとどの町も似た様な作りでウンザリする。
パチンコ屋とファミレスと大型ショッピングモール…
スタバがわが町にもやってきた。それが一体何だというのか。

なぜ東京の雛形のような町作りばかりを目指そうとするのか?
価値観が一つしかなくなると文化は弱くなるだけである。
そろそろこの偏ったマインドから脱却することを考えるべきでないだろうか。

江戸期、優れた人材は都会にばかりいるとは限らなかった。
己を高めようとするものは全国を旅してその人材を訪ねたものだ。

地方の復権、それは政治的な地方分権などでは成し遂げられない。
ではどうすればよいか?

簡単である。
教育を地方分権に委ねればよい。
文科省の支配をやめさせる。
悪名高き日教組を解体させる。
仮にも世の教育者と呼ばれる者たちはもっと真剣にこのことを考えるべきだ。

この問題を真剣に考えもせずに唯唯諾諾としてサラリーを貰うだけの職業教員には罪悪があるとさえ言ってしまったら過激すぎるだろうか?

だが政治の害は十年あれば取り除けるが教育の害は三十年はかかるといわれる。
教師が何故聖職者と呼ばれるか、そのことをもっと考えるべきである。



真田昌幸5

2014-01-19 02:22:21 | 歴史
勝の冗談がまるっきりデタラメではないのではないかという根拠は秀忠遅参が演出だったという説があることからもみえる。

つまり、完全な徳川独裁を達成した方が強いのは間違いないが、その分反発も強く起こる。

永く徳川体制を維持するためには、その反発心を抜く範囲で程よく外様勢力を残すべきだ、だから秀忠は関ヶ原で合流すべきでない ー という戦略論である。

この説は秀忠遅参に関しては成り立たないかもしれない。
だが、こうした方針と考え方は幕府初期になかったとはいえないかもしれない。
即ちこれが勝の言うところの "しつけ糸" になってゆく。

これが事実ならこれは人間の心の動きの仕組みに精通している者でなければ思いつかないものだろう。
これは人間の "気を抜く" 高等技術である。
そして権力が一ヶ所に集まる事を嫌う日本人の性質を知り尽くしていなければ出来ないことでもある。

家康という男にそこまでの力はない。

このしつけ糸を提案したものがあるとするならばそれは怪僧、南光坊天海しかいないだろうと思う。



徳川三百年という世界史上でも特筆されるべき平和と高い文化世界を作り上げたことは近年、評価される向きが強いが、それは家康によってなされたというよりもこの "怪僧" の人智を超えた尽力が大きく働いているのではないかと考えられる。

天海について触れていくと主題が変わってしまうのでここではこの位でやめようと思う。