思考の踏み込み

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祈り3

2014-02-28 13:33:17 | 
以上のように大衆を動かす方法論はかなり研究されている。

だが一人一人の心を洗脳やマインドコントロールではなく、真に動かすモノはいったいなんだろうか?

人の心を動かすモノ、それは性質上余分なもののない純粋なモノであるべきではないかと思う。

人間一人の存在などちっぽけなものだ。そのちっぽけな存在が、追い詰められ、なす術も無くなったときに祈り、願う。

宗教的な意味を抜きにしてこの行為に私は "美" を感じてしまう。



こうした行為は命そのものの行為である。
ちっぽけながら一つの命が全力で存在しようとしているその発露の作用である。


そしてそこには一切の虚飾がない。
見栄や外聞や打算といった余分なモノが混ざっていない。

それは本当の意味で極限まで追い詰められたことのない者にはわからないことかもしれない。

溺れる者が藁にもすがりつく気持ちは溺れたことのある者にしかわかるまい。
人の強さには差があるが、悩みに大小はない。

ある者にはたいしたことのない事でも、別の者には深刻な悩みであることなどいくらでもある。

それがその者にとっての "悩み" である以上、その大小は外からは判別など出来ないということだ。

そこでどこまでその者の気持ちに寄り添えるか。
こうした事をしていかねば人間同志の本当の意味での理解になどたどり着けない。

これを "同調" あるいは "感応" という。

祈り2

2014-02-27 08:58:00 | 
初めは人の心を正しく導く為に研究されたはずの心理学は、今や支配者の "見えざる手" と化し、政治的洗脳や商業目的の心理誘導か、といった一部の者の目的の為に使われるばかりになってしまった。

情報化社会と言われ、我々は何でも知ることができると思っているが、この社会の真の姿 ー 実相はけして語られない。
マスコミは報道する自由と共に報道しない自由も持っている。我々の知る権利などその前にはなんの価値も与えられていない。



その "実相" を構築しているごくごく一部の権力者たちは、人間はいかにしたら洗脳できるか、という専門の研究機関を有していて日々世界最高の頭脳を持つ心理学者達を使ってその研究をしている。

これがいかに危険なことか、それだけでも知らなければ現代人は極めて危うい立場に立たされている。

こうしたことは、近年ようやく様々な人が発信するようになった。
それは都市伝説扱いされ、多くの者は頭から信じようとはしない。

真実の中にウソをどの程度の割合で混ぜられると人はどこまで判断力を狂わされるか、そんなことも全て研究されているから当然、都市伝説に過ぎないモノも混ざっている。

だが、現在の世界の在り方をみればどれが真実でどれがウソなのか判断するとこはけして難しいことではない。

そのためには思い込みを外して、全て(オフィシャルな情報ほど) 一度疑ってみる作業が必要で、情報発信者の中にはその作業をしない層の人々を愚民でしかないとか言ったりさえする人もいる。

しかし私はそうは思わない。
全てを疑ってみることなど多くの人がすべきこととは思わない。
騙されたくない人がすればいいだけで、間違っているのは疑う事のない人々ではなくて、そんな世の中の方だからだ。

こうしたことは調べればいろいろな所で情報に辿り着けるし、ここでの本題でもないからこれ以上は触れないが、人の心を動かすモノということを考えたとき、この "大衆操作" はその一例であるということである。

祈り

2014-02-26 21:40:06 | 
祈り、願い、あるいは執念…。

これらの行為が純粋に行われるとき、その者の姿はきわめて美しく、人の心を動かす。

"塚も動け 我が泣く声は 秋の風"

ー と芭蕉はその弟子の死を哀しんだが、人の心を動かすモノとはいったい何だろうか?



大衆心理を握り、動かすことはさほどに難しいことではないかもしれない。

なぜなら人間は "集団" という心理状況に置かれると個人でいるときとはまったく違う心理の力学下に置かれるからである。
これは意識して注意している者か、ひねくれ者以外は必ず無意識に巻き込まれる現象である。

1番わかりやすい例は "流行り" や "ブーム" 。または "軍隊" も同じ作用の中で成立している。

"集団" でなければ人殺しなど普通人の成し得る所ではない。



そこでは個人個人の正しい判断力や分析力、あるいは良識や人間性さえ極端に低下する。
心理学というと一般に個人を対象とした学問と思われがちだが、人間の心理の働きは複数であるときの方が変化は多様で複雑である。

この集団心理を情報操作や洗脳教育でコントロールできることは歴史の事実がいくらでも教えてくれるのでここであえて触れるまでもないが、残念なことに "歴史" ではなく、現在進行形でこの操作は行われている。
それは他国のこと、他人事と思われるだろうか?
我々さえも常にそれを受けていることに気をつけなければならないということをほとんどの人は気付かない。

なぜなら集団心理の中にいるからである。そこでは前途したように分析力判断力は働き難い。





寿司 後記6

2014-02-23 00:26:53 | グルメ
人はその求めるところ以外のものは結局において "佳い" とは感じないのだから、各人の求めるレベルにおいて応じた料理が様々にあればそれで良いのだろう。

そして栄養学などという幼稚 ( 栄養学が個人差と同化力の研究をしない限りは幼稚な学問と言わざるを得ない。) で小賢しい知識など捨てて、身体の感覚に従って本当に食べたいモノを食べればそれで良い。

身体に必要なものは身体が知っている。
だが人間とはこの身体でもって生きているのだから、その身体の感覚を嵩めていけば向う方向は同じはずだ。

それが "基準" というもので、"食" に関して言えば "真味" というものなのだと私は考えている。

そして我々日本人が恵まれている点は、本質に向かいたいと思ったとき、果てしなく奥深い世界が既に先人たちによって培われているという事である。

和食の奥深さは我々にとってなんと幸いなことであるか。

そこに参入したいと思っても思わなくても、そもそも例えばイギリス料理にはそんな奥深さが欠如していることと比べれば、和食の有難さがより鮮明になってくる。

漫画「美味しんぼ」で ー "よくぞ日本人に生まれけり" というタイトルの話があったが、日本人として生まれ、日本食を味わえるということがいかに幸福なことか、という内容であった。

瓢亭 朝がゆ

それ程に和食は優れている。
我々はそれをただ楽しめばいい。
“食" とはそれだけ人生に豊かさと彩りと喜びを与えてくれるものであり、栄養補給といった要素などその本質のごく一部でしかない。
( 鍛錬すれば人間は極端な話、"霞" を食って生きていくことだって不可能ではないからだが、しかしそれではつまらない。)

食の喜びと楽しみは "嗜み" のある範囲であれば人生の喜びには不可欠なものであろう。


それらの要素を与えてくれるモノの中でも "寿司" は極めて洗練されたモノであり、今回 “食" について思考する上でのきっかけとさせて貰った。


それはたしかに ー よくぞ日本人に生まれけり!と大きな声で叫びたくなるほどのものであるといってもけして大袈裟でない。


寿司、あるいは "食" について ー 。
この辺でこの主題を終わりにしよう。

寿司 後記5

2014-02-22 07:58:21 | グルメ
自己の内面を整え、静めていくことは世界の本質に迫る唯一の手段である。

なぜなら我々が感覚器を通して世界を認識するとき、身体的心理的状況によって個人差が生まれ、それはある種のフィルターとなってそこを通る以前の本質を歪めて通すからだ。
このフィルターはなくなりはしないが、本質を見つめようと思うならばこのフィルターを出来るだけ薄くしていかなければならなくなる。

その作業の果てに "食" と向き合うと、余分な味付けは自然と要らなくなるものだ。そのとき初めて "内" と "外" は本当の意味で調和する。即ちそれは "食物" との「同化」をすらすらと可能にする。

この整えられた内的身体にあってはおかしなものでなければ、何を食べても美味しく感じるものである。
贅を尽くさなくとも、僅かに塩気があるだけで事足りる様になる。




それは健康と直結する感覚である。
健康に繋がらないモノを美味しく感じているとしたら、それは "食" の本質とは違うところの欲求によるとみなして、わが身を振り返ってみる必要がある。

( 例えば "性" の快が、生殖器の部分的な感覚に過ぎないと思い込んでいる者が、 "性" の本当の喜びを知らないのと同じで、"食" もまた舌の ー あるいはせいぜい舌と鼻くらいにしか働きかけないと思っていればこれもまた “食" の本当の部分の楽しさを知らない者といえる。)

感覚とはすべてー 全身で行うものである。それ故に心身をキレイに調えておく意味もそこにある。


本来、本当の意味で「同化」出来ない栄養物などほとんど排泄されるだけか、もしくは体内に不燃物として残り、皮膚という臨時の排泄器官を荒らすか、それも出来ないと癌などの遠因になっていくだけである。
現代病の多くは栄養の過剰摂取にあることは誰もが否定できないことであろう。


"真味" とはこれらの事象への答えである。

それは石斎たちが追求していたものであるが、信長は必ずしも必要とする段階になかったものでもある。

それでいいのだと思う。

要求するものが違うのだから、本来どちらかが歩みよらねばならない。その意味で行くと料理人たる石斎が本当は信長に合わせるべきで、料理人とはそうゆうものであるし、初めから二度目に出した味を出すべきだったのだが、石斎は自らの料理に自身があり過ぎたのだろう。

( だが、 魔王信長に対して己がプライドを一度は示してみせたということは石斎は "職人" としては見事であったと個人的には思う。)