思考の踏み込み

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処理と創造5

2014-01-29 08:20:56 | 
要するに戦後日本人は一体何に価値をおいてきたのか?

価値観とは時代ごとに変わるものだが、千古不変の揺るぎない価値があるのも事実である。




日本文化はその揺るぎないものを追求し続けた文化だった。
それをたかが "敗戦" という現象だけで見失い、あまつさえ古臭いものとして否定してしまった戦後日本人のなんと愚かなことか。

だがその時代を知らない我々が考える以上に "敗戦"というショックを "処理" していくという作業は生半可ではなかったのかもしれない。
それが今回のテーマでもある。

総じて西洋文化とは若者の文化である。それは思想、哲学、文化、芸術等をみれば明らかだろう。(唯一音楽だけは何故か例外だと思う。唯一といって間違いないとも思う)

一方の東洋文化は我がD先生の言葉を借りれば "老境" の文化である。
しかしそれは真に価値あるものの追求がなされていった時間的な結果に過ぎずけして年寄り臭いものでは本来ない。

戦後日本においておきた文明の衝突の本質はこの二つの質の衝突であった。

銀河の衝突。


そして敗戦で自信を失った大人たちに変わって若い力はその "老境" を嫌い、真逆の方向へ走った。

これは考えてみれば自然なことかもしれない。
だが本当に価値あるものは何なのか?

余分な感情を取り払って、正しい目でモノを見る事ができる、そんな時代に今ようやくなってきていると思う。
これは喜ぶべきことだろう。

処理と創造4

2014-01-28 12:15:56 | 
少し表現が強くなっている感を禁じえないが、これはしかし "踏み込んで" いくと止むを得ない部分でもある。

過激な発言というものをする人がよくいるが、過激な表現は多くの場合、内容の追求による結果よりも、当人の個人的事情によることがほとんどである。

つまり、何かを避難、攻撃批判する。それは個人的な鬱屈を晴らす行為に過ぎない。
それが理屈に適っていたとしても出発点が低いと何も得るものはない。

人間は他者に関わるとき、他者を利用して自己の "快" を求めると間違ってしまうということである。





わかりやすくいえば、子どもを叱る母親がいる。叱っているその内容は正しいかもしれない。
しかし、子どもは大人ほど理性で自己を制御できない。


それを無視して頭ごなしに叱る母親をよく街でみるが可哀想なことである。

もとをたどってみれば旦那との些細な喧嘩だったり性生活への無意識な不満だったりが、母親本人も気づかない鬱屈であることが多い。
その鬱屈を子どもへのお説教に混ぜてしまえばそのお説教は無価値であるばかりか、罪深くさえある。

人間の発言行為は全てこれと同じであろう。
個人の事情をどこまで排してから純粋に動けるか。

その作業のないものには価値はない。
ここでは常にこのことに留意しているつもりだが、前回3は少しぶれてしまったように思うことを反省したい。

さてだいぶ主題とそれたので戻ります。



処理と創造3

2014-01-28 12:13:46 | 
戦後の日本を考えるとき、様々に起きた事象は、文明と文明の衝突の力学から生ずる自然現象のようにも思える。

今からみれば吹けば飛ぶような内容の文物や流行、それらのいちいちについて新鮮さと圧力を感じるエアポケットの故に、当時の日本人は実際に価値があるかないかを見抜くことをせずにその圧力に流されるだけであった。




そしてすでに自分達が持っていた価値あるものを見失い、見失うばかりか積極的に否定した。

なんてバカな世代なのか。真に価値のあるモノをなぜ理解できなかったの
か。なぜ連綿と続いたモノを切り捨てたのか。

しかしこれは止むを得ない歴史的段階であったのかもしれない。
人間の処理能力とは結局それほど高くなく、そしてそれほどに流れ込んできたものが多かった。

例えば人体における処理機能を担っている場所は主に消化器である。
強いアルコールや毒素は肝臓が処理してくれる。

この消化器が健全かどうかということは命に関わる問題である。
文化における消化器の主体的なものは言語であろう。

言語を失った文明が今日発展し得た例はほぼ無い。

戦後日本はこの言語を含めた消化器系統全体が限界に達し、病みきっていた。

敗戦という心理ショックが生んだ悪性の腫瘍の様なものもあったといえるかもしれない。
消化器が壊れれば人は死ぬ。

つまり、その文明の発展は止まるのである。
今、日本はようやく消化器が回復し、正常に働きだしはじめた。

しかしまだ完治はしていない。
今日世に流布されるもの、もてはやされるもの、それらを見ればあきらかなことであろう。

処理と創造2

2014-01-27 09:33:04 | 
歴史上滅んだ文明も、吸収され同化し消滅していった文明もいくつもある。

それらはたとえば高度な天文学をもっていたり、優れた道徳性を有していたりしても飲み込まれるときはあらがうべくもなく飲みこまれている。

飲み込む側の圧力の強さの主因は多くの場合、"武力" であることがほとんどである。

日本も戦後、科学力や物量を背景とした圧倒的な "武力" にコテンパンにやられた後、ある種のエアポケットができていた。

そこへ、自由や民主主義、平和、命の尊重、消費社会、個人主義、、あらゆるものが洪水のように流れ込んできて日本人は溺死しかけた。



最近、ようやくにしてその溺死の危機からは抜け出してきているように感じている。

そう、ようやくである。
戦後70年とか、もはや戦後ではないとかいろいろに言ってきたが、以前として日本は "戦後" である。

歴史とはそう簡単に次のステージには進まない。
平和ボケ "させられている"現代人はなかなかこのことに気づきにくい。

しかしそこからスタートしなければ正しく社会も文化も前に進めるはずがない。

処理と創造

2014-01-27 09:18:18 | 
人間の処理能力について考えてみる。

ある文明とある文明が出会った時、気圧の高いところから低いところへ空気が流れ込むように、圧力の強い側の文明が一方的に流れ込んだとき、 ー 流れ込んだ原因は気圧の低さであるとみることは正しいだろうか?

ここでいう気圧とはその文明の価値や魅力という意味にあたる。

価値観というものは時代ごとにかわるから一方に流れ込んだ側の文明が必ずしも気圧が高いものであったとはいえない。

むしろ流れ込むべき空間 ー エアポケットが潜在していることの方が多い。

受け身の側は流れてくるものの処理に追われる。
受け入れる段階での葛藤、戸惑いがまずあるだろう。

ついで気圧の高さ故に無条件に崇拝したり、あるいは反射的に拒絶したり、批判したりしながら、いくつもの段階を経ていくとやがては結局高い圧力に押し切られていく。



何が言いたいか、戦後日本の文化段階の話である。