思考の踏み込み

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処理と創造4

2014-01-28 12:15:56 | 
少し表現が強くなっている感を禁じえないが、これはしかし "踏み込んで" いくと止むを得ない部分でもある。

過激な発言というものをする人がよくいるが、過激な表現は多くの場合、内容の追求による結果よりも、当人の個人的事情によることがほとんどである。

つまり、何かを避難、攻撃批判する。それは個人的な鬱屈を晴らす行為に過ぎない。
それが理屈に適っていたとしても出発点が低いと何も得るものはない。

人間は他者に関わるとき、他者を利用して自己の "快" を求めると間違ってしまうということである。





わかりやすくいえば、子どもを叱る母親がいる。叱っているその内容は正しいかもしれない。
しかし、子どもは大人ほど理性で自己を制御できない。


それを無視して頭ごなしに叱る母親をよく街でみるが可哀想なことである。

もとをたどってみれば旦那との些細な喧嘩だったり性生活への無意識な不満だったりが、母親本人も気づかない鬱屈であることが多い。
その鬱屈を子どもへのお説教に混ぜてしまえばそのお説教は無価値であるばかりか、罪深くさえある。

人間の発言行為は全てこれと同じであろう。
個人の事情をどこまで排してから純粋に動けるか。

その作業のないものには価値はない。
ここでは常にこのことに留意しているつもりだが、前回3は少しぶれてしまったように思うことを反省したい。

さてだいぶ主題とそれたので戻ります。



処理と創造3

2014-01-28 12:13:46 | 
戦後の日本を考えるとき、様々に起きた事象は、文明と文明の衝突の力学から生ずる自然現象のようにも思える。

今からみれば吹けば飛ぶような内容の文物や流行、それらのいちいちについて新鮮さと圧力を感じるエアポケットの故に、当時の日本人は実際に価値があるかないかを見抜くことをせずにその圧力に流されるだけであった。




そしてすでに自分達が持っていた価値あるものを見失い、見失うばかりか積極的に否定した。

なんてバカな世代なのか。真に価値のあるモノをなぜ理解できなかったの
か。なぜ連綿と続いたモノを切り捨てたのか。

しかしこれは止むを得ない歴史的段階であったのかもしれない。
人間の処理能力とは結局それほど高くなく、そしてそれほどに流れ込んできたものが多かった。

例えば人体における処理機能を担っている場所は主に消化器である。
強いアルコールや毒素は肝臓が処理してくれる。

この消化器が健全かどうかということは命に関わる問題である。
文化における消化器の主体的なものは言語であろう。

言語を失った文明が今日発展し得た例はほぼ無い。

戦後日本はこの言語を含めた消化器系統全体が限界に達し、病みきっていた。

敗戦という心理ショックが生んだ悪性の腫瘍の様なものもあったといえるかもしれない。
消化器が壊れれば人は死ぬ。

つまり、その文明の発展は止まるのである。
今、日本はようやく消化器が回復し、正常に働きだしはじめた。

しかしまだ完治はしていない。
今日世に流布されるもの、もてはやされるもの、それらを見ればあきらかなことであろう。