少し表現が強くなっている感を禁じえないが、これはしかし "踏み込んで" いくと止むを得ない部分でもある。
過激な発言というものをする人がよくいるが、過激な表現は多くの場合、内容の追求による結果よりも、当人の個人的事情によることがほとんどである。
つまり、何かを避難、攻撃批判する。それは個人的な鬱屈を晴らす行為に過ぎない。
それが理屈に適っていたとしても出発点が低いと何も得るものはない。
人間は他者に関わるとき、他者を利用して自己の "快" を求めると間違ってしまうということである。
わかりやすくいえば、子どもを叱る母親がいる。叱っているその内容は正しいかもしれない。
しかし、子どもは大人ほど理性で自己を制御できない。
それを無視して頭ごなしに叱る母親をよく街でみるが可哀想なことである。
もとをたどってみれば旦那との些細な喧嘩だったり性生活への無意識な不満だったりが、母親本人も気づかない鬱屈であることが多い。
その鬱屈を子どもへのお説教に混ぜてしまえばそのお説教は無価値であるばかりか、罪深くさえある。
人間の発言行為は全てこれと同じであろう。
個人の事情をどこまで排してから純粋に動けるか。
その作業のないものには価値はない。
ここでは常にこのことに留意しているつもりだが、前回3は少しぶれてしまったように思うことを反省したい。
さてだいぶ主題とそれたので戻ります。
過激な発言というものをする人がよくいるが、過激な表現は多くの場合、内容の追求による結果よりも、当人の個人的事情によることがほとんどである。
つまり、何かを避難、攻撃批判する。それは個人的な鬱屈を晴らす行為に過ぎない。
それが理屈に適っていたとしても出発点が低いと何も得るものはない。
人間は他者に関わるとき、他者を利用して自己の "快" を求めると間違ってしまうということである。
わかりやすくいえば、子どもを叱る母親がいる。叱っているその内容は正しいかもしれない。
しかし、子どもは大人ほど理性で自己を制御できない。
それを無視して頭ごなしに叱る母親をよく街でみるが可哀想なことである。
もとをたどってみれば旦那との些細な喧嘩だったり性生活への無意識な不満だったりが、母親本人も気づかない鬱屈であることが多い。
その鬱屈を子どもへのお説教に混ぜてしまえばそのお説教は無価値であるばかりか、罪深くさえある。
人間の発言行為は全てこれと同じであろう。
個人の事情をどこまで排してから純粋に動けるか。
その作業のないものには価値はない。
ここでは常にこのことに留意しているつもりだが、前回3は少しぶれてしまったように思うことを反省したい。
さてだいぶ主題とそれたので戻ります。