思考の踏み込み

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完璧8

2014-04-30 06:39:24 | 
"自由自在" であるためにはやはりそれだけの能力がなければならない。


この世に生まれ落ち、当たり前の様に我々は暮らしているが、そもそも立って歩くという何気ないことですら重力への抵抗や身体バランスといった課題があり、それらを技術的に突き詰めていくだけでも "達人" への道は繋がっている。



したがって何かしらの技芸や競技をやらなければその道に参入できないという様なものではない。

この意味でスポーツが抱える問題点はその多くが選手寿命が短いという点であろう。

"達人" への道は当然だが遠い。

人それぞれある一定の境地にいくまでには、時間の遅速があるものだが、スポーツはそれが遅い者たちをけして受け入れはしない。

そして体力や瞬発力、筋肉量といったある意味物質世界での勝負に限られている。

それなら圧倒的に筋量の強い黒人選手にアジア人は百メートル走で永久に勝てまい。

だがウサイン ボルトでさえ、チーターより速くは走れない。



果たして人間が追求すべき課題はそんな事なのだろうか?

人体の持つ可能性はもっと奥深い世界があるはずである。
その答えを明示しているものが我が国における武道や芸事なのだが、こんにちその多くはスポーツ化、形式化してしまって本質からは離れているものが多い。

"自在" であるためにはそれだけの実力、能力が必要だと書いたが、それははじめから開発されている者もいる。
もしくは開発がスラスラと進む者たち。
彼らは天才と呼ばれるだろう。

もちろん努力と鍛錬でそれを掴むものもいる。

(野村克也。監督としてはともかく選手としての彼の評価は今だに十分にされていない。仮に "素材" だけによる場所をスタート地点とするなら、野村ほど遠くまで歩いた選手はいないだろう。)



問題は能力とは天賦のモノと思い込み、自分は全くの凡人だと決めつけ小さくなって生きてしまうケースである。

人間には向き不向きは絶対にある。
しかしその可能性はもっと広大な筈だと思う。

スポーツの問題点はその競技寿命が短いために、もっと深い可能性を追求するところまで時間的にいけないということにあり、さらに困ったことにはそこで生まれた能力の差が、努力や忍耐力が足りないことや心が弱いことなど精神的な問題にすり替えられて、脱落者たちからみれば自信を奪う役割りしか果たしていないという点である。



完璧7

2014-04-29 05:18:07 | 
さて、「完璧」という主題でいくつかの実例をあげて書いて来たが、そもそも完璧とは一切傷のない完全な「璧」をいう。

璧とは宝玉のことで、「壁」ー かべではない。



だが、この世に果たしてまったく傷のない完全な玉 (ギョク) など存在し得るだろうか ー ?

または完璧過ぎることは人間の社会性という観点からはけして至上の価値観とは限らない。
完璧主義者などは近くにいたら息が詰まってしまうだけだ。

本当にモノが観えている者は、完璧であるところからあえて一点ズラすことで気を抜き、他者と協調するために柔らかく自然体であろうとするものだろう。

だが完全な球体が存在しない様に ー 地上には本来 実在 (sein) しない "璧" という、ある種架空の "至高" への憧れというものは、尽きる事のない人間の本能でもある。



それは構造上において "美" と同質であり、芸術や技芸の世界において完璧を目指す事は当然な欲求なのだが、容易な事では満たされない感情でもある。

その容易でない事を、仕事や生き様や、記録や作品といった何らかのカタチで現出してみせた人々というのが今回の主題である。

そして "完璧" であるということは、仮にその "璧" を円として捉えるならば、そこには "美" の他に "自在性" を伴う。

"自由" という、近代語として使われて複雑なイメージを持ってしまった言葉よりもこの "自在" の方が個人的には好きな言葉である。



それは融通無碍という言葉につながり、前途した達人たちの境地に近く、生きていく上で目指すべき指針として考えると極めて優れた「思想」といえるだろう。




完璧6

2014-04-28 01:59:19 | 
定期的にバッハが聞きたくなる事がある ー 。

しかしその場合の六割くらいまでがカザルスを聞きたいと思うことと、私の場合同じであることが多い。



大バッハの宗教的世界観とその昇華へと向かう感覚は、けしてキリスト教徒だけで独占されるようなものではなく、人類が時代を超えて共有できる価値を持つ。

パブロ カザルスによる無伴奏チェロ組曲はその表現の極みであろう。

それまで練習曲程度にしか考えられていなかったこのバッハの名曲を掘り起こし、光を当てたカザルスだが、曲と出会ってから人前で演奏するまでに12年かかったと自身述べている。

このことからもわかる様に、この天才は強烈な完璧主義者で納得の行くまで物事を追求する芸術家であったことがわかる。

そのためにチェロ奏法を改革し、相当に修練を積んだであろうことは彼のチェロを持つ "型" をみれば一目瞭然である。

腰が決まり、余分な力が抜けていてあたかも武術の達人の様な気配さえ漂っている。

(剣、禅、書、多岐にわたって達した人 ー 山岡鉄舟。まだ若い頃の写真とはいえ、何気なく座っている様でいて隙のない構えがみてとれる。)


いろんなチェリストの音を聞いてみても、カザルスだけ違う楽器なのではないかと思う程に音が異なるのも、その要因は彼の高度な身体技法に帰結すると思われる。

したがってカザルスには "天才" という陳腐な評価よりも "達人" とか "至人" とかいった賛辞を送りたい。

それは素材そのままで、その才を食い散らかして終わるだけの天才とは違い、永い自己修練と飽く事のない探究心、"完璧" を追求しけして妥協しない厳しさ ー がある。

持って生まれた才能には誰も抗えるものではないが、人間に与えられた可能性は等しく無限なものであるはずである。

鍛錬や修練によってそれを引き出し、一定の境地に達した者を達人と呼ぶ。

それは人間がいかに生きるかというヒントさえ与えてくれるものだが、かつて日本にはあらゆる職種に有名無名問わず、この達人、もしくは名人がたくさんいたものだ。



その達人たちに共通する内容を分析し、踏み込んでいく事はまたの機会にしようと思うが、カザルスはその達人たちの中でも突出した存在といえよう。





完璧5

2014-04-27 02:08:59 | 
ヴォルフガング アマデウス モーツアルト。

モーツアルトというよりも彼の音楽。



伝えられた彼の人物像や残された手紙などを見る限りにおいて、小学生もいわないような低俗で卑猥な冗談を言って大喜びしていたり、軽薄としかいいようのない行動に終始したりと、知性や人格の高さなどは微塵も見られない。

問題はその事と彼の生み出した音楽の内容がまったく関係していないということだろう。

いや関係しているとすれば、気取る事なく直感そのままに、子供の様に生きていた ー という、好意的にみればその点が音楽という ー 知性より感覚が多く支配する世界において、有効に働いていたと取れなくもない。

同時代を生きたもう一人の "ヴォルフガング" ヨハン ヴォルフガング ゲーテはこの天才の音楽の理解に苦しんで次のような言葉を残している。

「モーツアルトという現象は説明のつかない奇跡のような現象であり、決して誰も到達できないデーモニッシュ(魔神的) な力によって生み出されたものだ ー 」

モーツアルトという "現象" とはまったく上手く言ったものだと思う。

彼は人間であるよりも確かに何かの現象とみた方が的を射ているかもしれない。

あるいは音楽の女神ムーサの使い魔か堕天使あたりが地上に間違って紛れ込んだか?

(musaが転じてmuseやmusicとなる。)

モーツアルトの音楽が ー 例えばベートーベンのそれが、大地を踏みしめる様に手触りの確かで人間くさい音楽であることとは違って ー 天上の澄み切った軽やかな音の様であることも、彼が譜面に書き始めると既に完成していてほぼ手直しがなかったという事も、彼が天から降って湧いたと考えればなんとなくわかる気もする。

その人格からは知性を感じ難いと言ったが、彼の作曲法はバッハやハイドンの古典を踏襲し、その上で天才的な独創を加味したものであるから、こと音楽に関しては知性どころか人類史でも最大の頭脳の一つだろう。

雑談しながら数曲同時に作曲してたとか、短い生涯で41もの交響曲を書いていることなどに加えて、彼の作曲法は真似ようとしても誰も出来ないものだといわれることも、モーツアルトがまぎれもない天才である証だろう。

その音楽はやはり "完璧" で他の追随を許さない超絶した世界である。



この ー 地上に紛れ込んだ天才は自らを天上へ送り返すように鎮魂曲 ー レクイエムを作曲してこの世界を早々に去ろうとしたが、現世の肉体は彼の魂のスピードに追いつかなかったのか、残念ながら未完で終わった。

それでも揺るぎない名曲である。




完璧4

2014-04-26 06:17:16 | 
"双葉の前に双葉なく、双葉の後に双葉なし ー "

いわずと知れた角聖、双葉山定次。



国技大相撲に求道性をもって臨み、それを実績でもって体現した点で偉大な横綱であった。

有名な双葉の記録といえば、69連勝というのがあるが、これは今日と同様に測れるものではない。

当時は年二場所制であったから、足掛け三年に渡って無敗を誇ったわけである。
無理やり年六場所にあてはめれば、少なくとも250連勝くらいしているということになるが、まあそういう見方もできるというだけでこういった比較はあまり意味はない。

いずれにせよ、まる三年勝ち続けたということは驚異的であることは間違いない。

しかも彼はどんな相手でもまず受けて立ち、相手に力を発揮させてから勝つのであるから、これはより偉大な記録として浮かび上がる。

制限時間前の奇襲にさえ対応し、力水も一度しかつけないスタイルを確立させたりと、まるで剣客のような緊張感でもって相撲を取っていた。

歴代横綱の映像を見る範囲で比べても、明らかに双葉は強い。
それは腰の安定感をみれば一目瞭然である。

体重の上がった今日でもその強さは揺らがないだろう。

しかも彼は現役時代は明かさなかったが、片目が見えず、右の小指が使えないというハンデを背負っていた。



片目は言うに及ばず、小指の機能がいかに重要か、少しでも武道をかじったことのあるものなら知っていることだ。

それらを克服した上でのこの成績、やはり "完璧" な強さである。

近年でみると平成八年頃の、小錦を真正面から寄り切っていたほどの貴乃花は、あるいは双葉に近いところまで行くかと期待されたが、ハワイ勢の巨漢と立ち向かう為に無理な増量をして力士生命を縮めてしまったことは残念だった。

現横綱の白鵬はこの意味で戦後、双葉の次に強いと個人的には思う。



既に年齢的なピークは過ぎつつあるが、精進次第では今後なおも期待できる。
一相撲ファンとしては白鵬の存在はまったくありがたいものである。

異国から来た少年が、日本人でさえ忘れ果てそうな求道性という、双葉の精神を体現しようと精進しているということはまったく国民栄誉賞をあげて欲しいと思うくらいだ。

双葉は69連勝が止まった夜、恩師安岡正篤に電報を打ったという。

"イマダモッケイタリエズ ー "

木鶏 ー 木彫りの鶏の様に泰然とした、最強の闘鶏の境地には我未だ届かず ー という意味だ。

凡人には完璧に思えたその強さも、当人にとってはまだ納得のいくものではなかったのかもしれない。