思考の踏み込み

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前田智徳39

2014-09-04 00:14:58 | 
ー 少し、長くなり過ぎてしまったが今回の主題ばかりは書いていても楽しくて仕方なく、ついつい話を拡げ過ぎてしまった。


だが際限もなく続ける訳にもいかないので、最後に私個人として一番印象に残っている前田智徳のシーンにふれて終えたいと思う。


やはりそれは07年、9月1日広島市民球場での2000本安打達成である。





この日、すでに優勝争いなど関係なくなっていたカープの試合に満員の客が詰め寄せていた。

一人の男の、ヒット一本だけを観るために。

その瞬間はカープナインの願いでもあった。すでに四打席ヒット無しの前田に、この日はもう回らないだろう、
誰もがそう思っていた八回裏。
カープナインはなんとか前田にもう一打席、という執念から八人が繋ぎ、この回九人目となる前田の打席を創りだした。

ここで "打たない訳にはいかない" とは前田談だが、我々前田ファンからすればここで前田が打たないハズがない、という感覚だった。

いい流れだった。
全ては前田の為に、舞台は整えられたー 。




そして赤一色に染まった市民球場は歓喜に包まれた。


ライト前ヒット!




塁上で前田はひたすらファンに、頭を下げていた。
私は涙を抑えきれなかった事を覚えている。

この ー 険しく長く、孤独な道のりを歩み続けた男にとって、2000本安打という記録ばかりは特別であろう。

ファンの期待にも応えたかったし、ケガから這い上がってくる為の、一つの具体的な目標でもあった。

ヒットを打った前田の下へ、花束をもった息子二人が駆け寄る。

何より家族に ー 自分の理想の為に全てを犠牲にしてきたこの寡黙な男は、それを支えてくれた家族へ、形に残る結果を残すことで感謝を伝えたかったのだろう。




「お母さんはどこ?
ありがとうっていっておいてねー。」


そう ー 前田は息子たちに語りかけたという。

前田結婚を報じた当時の記事ではたしか、「結婚は別に励みにはならないが、いいきっかけくらいになれば…」とかいう意味の事を語っていた。

前田らしい照れ隠しのコメントに苦笑したのを覚えている。

結婚後、前田がたしかに変化していった事はファンならば誰もが知っている。

抜き身のギラギラした刀の様だった男が、少しづつだが丸くなっていった。
野球に対する鋭い追求心は最後まで一ミリもブレなかったが、人間前田智徳は最後はだいぶ穏やかな人になっていた。

最も近くで前田を支え、前田と共に苦しみ、しかし優しく見守り続けた前田夫人にはファンとしても感謝したい。

最後に前田智徳は試合後のインタビューで涙ながらに語った。





" ケガをしてチームの足を引っ張ってきた。こんな選手を… 応援してくれてありがとうございますー 。"


ー この日、前田は引退を決意したと後に語っている。




"前田智徳" 終。











前田智徳38

2014-09-03 05:45:41 | 
前田の見ていた景色は、"凝縮の快" が息づく統合の世界であったのではないか ー そう前途した。

そこはけして平易な道のりではなく、険しい場所であるが、必ずしも苦しいだけの場所ではない。
そこを歩む者は、その険しさが与えてくれる凝縮感によって "快" を感じているはずである。
(これはマゾヒズムなどという精神の下降様式と別物である。)

人はなぜ山に登るのか?そこに山があるから。では答えにならない。そこに "凝縮の快" があるからである。



だからこそ、前田智徳はあれほどに努力できた ー そういう意味の事を書いてきた。

しかし、二度に渡るアキレス腱のケガ、プロ野球の過酷な日程、ファンの期待という重圧、強すぎる責任感…。

そして、自己に対する厳しさ。
一切の妥協を許せない性格。

前田の現役生活はやはり苦しかったであろう。
その長いプロ生活24年間で、満足にプレーできたのが始めの僅か6年ほどであった事を思えば、4分の3は苦しみと共に歩み続けたという事になる。
(球団側に引きとめられるまま、最後の五年程は本人の引退の意思とは別に、現役生活を続けざるをえなかった。)


だが、その姿は我々ファンにとってはいつも勇気を貰えるものであった。



前田は闘っている。
オレもー 。

そうやって励まされた者がどれほどいるだろうか。

その前田も今はいない。

だが選手としての彼の "生き様" は前田ファン達はけして忘れることはないし、今後も生きる力となり続けるであろう。


ー 前田はよく泣く、と思っている人が多い。
実際彼は公の場で涙を見せる事が多々あった。




これは前田の飾らない人間らしさであるし、前田が愛される理由でもある。

しかしその涙はけして軽いものではない。

真に ー 苦しみに耐え抜いた男だけが流す事のできる質の涙である。

それは、やはり見るものの心を揺り動かし、かつまた涙を誘う。

前田が引退を発表した後、2013年10月2日の阪神戦。

試合前に前田は、阪神のコーチを務めている恩師水谷実雄に引退の報告をした。

水谷はその時の様子をこう語る。


「前田ぁ、もう ー 苦しまんでええのぅ。」


「そう、声をかけたらあいつ、ワシの胸にすがってポロポロ泣きよった…。」




前田がいかに闘い続けたか、それを最もよく知る男に言われたその言葉に、前田も万感の想いであったことだろう。

その ー 涙は余りにも気高く、尊い。


前田智徳37

2014-09-02 00:39:27 | 
前田智徳という、孤高の天才と呼ばれた男の ー その天才性の本質と彼が見ていたのはどんな世界なのかをいろいろに考察してみたが、結局推測でしかないから実際はまったく違うかもしれない。

しかしそれは別にどちらでもよい。

彼を主題に思考を踏み込ませていった結果、こういう内容になっただけで、前田智徳伝を書いているつもりはないからだ。

しかし、前田智徳が見ていた世界の捉え方について書いた内容は、それほど間違っていないのではないかと思っている。




なぜならもし、前田が単なる異常な負けず嫌いなだけの人間だったとして、それが彼のひたすらな努力の理由であるとするならば、前田が甘いボールを見逃して難しい投球ばかりを狙った事の説明がつかないからだ。

勝ち負けや記録だけにこだわるなら、結果で明示する為にも甘いボールほど見逃してはならない。

前田がもしそれをやっていたら、四割などは楽に打っていただろう。
この事に気づいている人は意外と少ないのではないか。

だから私は一番始めに前田と他の選手と、打率やOPSとか記録で比べることには興味がないと述べた。
(近年のセイバーメトリクスによる新しい分析と評価のシステムの構築は、野球の見方を変えるという点でとても面白いモノではあるが、前田智徳の様なタイプの選手はなおその枠には入りきらない。)


前田の生涯打率が三割を超えて歴代では何位で、もしケガがなければもっと打てていた、とかそんな仮の話もどうでもよいのである。

ケガをしていたって、前田が難しい球ばかり選んでなければ ー つまり、理想の打球など追求していなければ、打者としての全てのプロ野球記録は塗り替えられた可能性がある。



それ程の打者であったと言って過言でない。



…いや、だがそれも仮の話。

前田が理想の打球を追求していなければ、彼の打撃への熱意はそれほどでもなく、その技術の進歩もなかったかもしれない。

世の中とは、うまくできているというべきか、ままならぬというべきか ー 。

前田自身が語っている。

" 本当の天才なら三割八分とか、四割とか打ってますよ ー 。"


この言葉の裏側には、記録なんか狙えばいつでもオレは打てる、という確信に近い自信が潜んでいる様に思えなくもない。



だが、記録の為に理想を犠牲にする事は彼にはできなかった。
それは彼にとって堕落でしかないからだ。

その "気高さ" こそ、私が前田が好きな理由であるし、彼が "孤高" と評される所以でもあるだろう。


前田智徳36

2014-09-01 00:26:28 | 
さて、もう一度考えてみようー 。

前田智徳の追求した理想の打球とは一体どんなものであったのか?

それには前田智徳の極めて高いレベルにおける、打撃技術と速度に釣り合うだけの鋭く厳しい投球がまずなければならない。それを彼が求める完璧なプロセスで捉えるというものだったのではないだろうか。
つまり彼の理想の打球には、まず理想の投球がなければならない。




その全てが完璧に揃うことは確率的には天文学的な数値が出る程に実現性の低いモノかもしれないが、それが果たされたときの統合感は計り知れないだろう。

その時身体には極めて高次元の凝縮感が生ずると思われる。
それは仏教徒が悟りといって表現する世界に近いところまでいくのではないかとさえ思う。

たかだか野球というスポーツでそこまでの世界を拡げてみせたという意味でやはり前田智徳は、とてつもない天才であると言える。
そしてまた彼が修行僧とかサムライとかに例えられる事も、やっている作業の内容やそのための自己への厳しさが同じ次元である以上、正確な指摘であることがわかる。



従ってその理想の打球とは飛んだ角度とか強さとか方向などであろうはずはない。
ましてホームランかヒットかなんて問題にならない。

また前田自身が語らない理由も当然かもしれない。言葉で説明するのがきわめて困難な、感覚的な世界の理想であるからだ。

実際前田はホームランを打っても首をかしげ、納得いかない表情をよく見せるが、内野ゴロで凡退して満足そうな顔をする事がよくあった。

アウトかセーフか、ヒットかホームランか、なんて二元論的な結果の世界は高次元の統合による一元的な世界からみればなんの価値もない。





ー 前田智徳とはそういう打者であった。




前田智徳35

2014-08-31 01:00:31 | 
人体もまた同じである。
ただほったらかしで、そのシステムにだけ身を委ねていれば分散の支配下で老いと病と死に怯えて暮らすしかない。

だが、凝縮力を高める手段を講じればその不安を取り除く事が可能になる。
その為の具体的な身体技法はいろいろあるが、そこまではここで触れるつもりはない。

だがその内容は全て、"集中" する事である事に変わりはない。
その時、ポイントとなるのは他の一点を設けることだけである。


勘の良い方はすでにお気付きだろう。


前田智徳にとって他の一点とは、投手の放る白球である。



これを最高のタイミングとポイントで理想的な角度で捉える。
その時、自己の身体は高度に統合へと向かい、高い凝縮感が生まれる。


それは野球経験者ならなんとなく想像できる筈である。
バットの芯でボールを捉えたときの心地よい感覚はなんとも不思議なものである。

それは方向性の違う力と力が衝突し相殺し合うという様な質のものではない。明らかに二つの力の統合による別の力の発生であると思う。

即ち "凝縮力" である。





ー 人間の身体はそれを "快" と感じる様にできている。


この物質世界においては二元論は揺るがない真理であり、強力な支配力を持つが、そのもっと前の世界においては二元論は必ずしも真実ではない。


二元を統合し、一つのモノとする事は物質世界おける様々な矛盾を解決する唯一の方法であろう。



その為に芸術によって美に命を懸ける者もいれば、神という架空の一点を設けて信による統合を果たそうとする者もいる。

直接呼吸と瞑想によってそこへ向かう者もいるし、アスリート達が極限まで身体を鍛え抜くのもそれぞれの競技における統合の瞬間に全てをかける為である。


だがそれは、わずかにでもそういう感覚による喜びを経験した者でなければ、そこを目指すという事を普通知らないというのが厄介な部分ではある。

その意味で "付与された者" ー 天才達はその経験をしやすいという点で恵まれている。

その "快" を知っているから、彼らはまた尋常でない様な努力もできるし、己を普段から厳しく律していく事ができる。