思考の踏み込み

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虹4

2013-12-30 07:25:33 | 
以上のことから簡単に考えればやはり、太陽と共に暮らし、人間社会という集団の中で関係性を築いて生きる、ということが人間らしい生き方であり、我々人間にとっての "現実" なのであろう。



「酒」というテーマでふれた精神の正常異常の判断。「虹」 における仮想と現実。
これらを見極めるには人間らしい暮らしということに基準を求めるしかなく、それには社会への帰属と個の主張という矛盾した問題の解決が求められる。
現代社会は個に偏り過ぎている。
それは怪しげな "仮想" を生み出しやすい。

オカルト宗教や無差別殺人、愉快犯。
社会が個を重く押しつぶしていた時代もまた偏りだが、個がひとり孤独になりすぎて狂いかねない現代よりはマシであったかもしれない。

集団と個という ー 偏りの遍歴の経験の時代がようやくにして過ぎつつ有り、バランス感覚のよい、本当の意味で人間らしい ー 誰もが幸福になりやすい社会の形というものはこれからやっと見出せる時代が来るであろうと思う。

国宝 夕顔棚納涼図屏風




最後は再び陶淵明で締めよう。
同じく「飲酒其五」より ー


" 菊を採る 東籬の下
悠然として南山を見る
山氣 日夕に佳く
飛鳥 相與に還る
此の中に眞意有り
辨ぜんと欲して已に言を忘る "

虹3

2013-12-30 07:24:31 | 
さて、今までは小説や文化といった外側の仮想世界に触れてきたが、これが人間の内側になるとどうだろうか?

そもそも人間が目で見ているモノさえ人間が脳の中で創り出した仮想世界ではないのか?



真の世界の景色はもっと違うモノかもしれない。
(虹の正体はただの水蒸気である。そこに太陽と人間の目との位置関係、光の屈折の性質等が揃うことで、鮮やかな色を生む。だが本来水蒸気に色などない )

目で見えない世界もあるいはあるだろう。
それを感じることのできる人間など稀ではない。
霊的な世界や音楽によるトランス状態、宗教的な憑依状態、幻覚や幻聴。

これら様々な現象の虚と実の境など実にあやふやなものだと思う。

赤外線の世界

それでも我々が大体において共通した感覚を持ち、ある程度認識をわかち合えるのは人体の構造が均一であるからではない。

もちろんそれもあるだろうが、それよりも我々が共有している空間、重力、磁力、天体の動き、月の波、気候、、
などが我々の現実世界の共通認識の基底にあるのだと思う。

虹2

2013-12-28 18:18:31 | 
茶道という文化があるが、これもある種仮想の文化といえる。

世界中どこにいっても金や宝石といったきらびやかなものに価値を置いているのに、日本人だけは土をこねただけの器に破格の価値を与えたのである。



日本人の美意識と価値観の中だけからみていると、このことはそれほど気にならず、ことさらに気づきもしないが、世界的な視野から眺めるとやはり独特でバーチャルなものに見えてしまう。

もちろんそれは茶道の一要素に過ぎないし、文化としての高尚性もいわゆる現代のジャパニメーションとは比べるべくもない。
だが共通している点は現実世界との距離というところだろう。

戦国乱世において完成された茶道は一期一会などの言葉 (これは幕末に拡がった言葉だが ) にみられるように、いつ訪れるかわからない現実世界の "死" に対する緊張感から、美を敷き詰めた仮想世界において抜け出すためのものというのが本来の姿だったのではないだろうか?

その点ではアニメ文化も似てはいる。
が、現実から仮想への移行の仕方が消極的であるところが決定的に違う。
茶道が文化と呼ばれ、アニメがサブカルチャーといわれる差はそこにある。



とはいえ、アニメ漫画に限らず小説や映画も仮想の世界であるし、そこに入り込み過ぎると人間は現実を忘れがちになってしまう。

おもしろいことは、それほどこうした媒体の無い時代にドン キホーテという物語が書かれ、それが人気を呼んだということである。

それはこの "仮想" と "現実" というテーマやはりが古くから人間の関心を集めるものであるということなのかもしれない。

2013-12-28 17:54:50 | 
「ドン キホーテ」という17世紀に書かれた物語は、世界中で翻訳され聖書の次に多く読まれた本であるとさえいわれている。



主人公のドン キホーテは老い先短い現実から逃れたいあまり、次第に仮想の世界と現実の区別がつかなくなってゆくという話である。

当時の人々はその滑稽さを面白がって読み、また作者の意図もそこに留まっていたように思われる。

しかし実は意外に深いテーマを内包し、問題を提起した物語なのではないか ー 。

そもそも、仮想と現実の区別というが、果たしてそんな区別など存在しうるのであろうか?

近年、日本のアニメ文化が世界的に拡がりをみせ、サブカルチャーどころか日本を代表する文化として認識されそうな勢いがある。

アニメや漫画はもちろん仮想の世界である。
たしかにそこにのめり込んでいる人々、いわゆるオタクと呼ばれる人たちはどこかいびつさを感じさせる。

それが世界に拡がるほどのものとはまだ思えないのだが、世界中に似た性質の人間が多いのであろう。

だがよく考えると日本の文化の多くは仮想とは切り離せないモノかもしれない。
閉ざされた島国故に、昔から外から入ってくる書物だけをたよりに想像力を働かせて文化を作り上げてきた民族である。( もちろん独自に創造されたモノもある )



だとすると、オタと呼ばれる人々はむしろきわめて正統な日本人の姿なのかもしれない。

酒5

2013-12-28 17:18:38 | 
心は常にぶれている。

感情に左右され、生理的な身体状況に左右され、環境で左右される。

人の苦しみも悩みもこのブレにふりまわされている所にある。



その問題と向き合うとき、ブレそのものを受け入れ達観するか (達観と呼べるところまで行けず、諦観に陥るケースの方が多いだろう )、ブレを感じないほどに感性を鈍らせるか ー つまり酒や薬物や快楽に逃げるか。

果たして他に手段はないのか?

それはバランス感覚を養うことである。だがこれは、鍛錬することでしか得られない感覚である。

経験を積み、身心を整え、呼吸を深くし、己れを真正面から見つめ律する。

即ち鍛錬である。
本当にできた人間というものはそういうものであろう。かつて東洋の英傑たちはそうした揺るぎない感覚を"正気" と呼びその心胆を練り上げた。

鍛錬によって重心が安定し ー つまり腰が決まり肚が座れば、もはや外的な酒成分にも内的なそれにも頼る必要はなくなるだろう。

もちろんそのためには健全な身体が必要になるが、たとえば拷問だとか、天災だとか、催眠や洗脳といった心理操作を受けるなどの極限の状態やバランス感覚を崩しかねない外的変化に出くわせば、生半可な鍛錬では崩れてしまうのが人間の精神である
(前出、"音羽の城戸"は激しい拷問にも口をわらなかったという。やはり半端な人物ではない)

拷問器具 ヘッドクラッシャー

さて今回のテーマ、主題を変えてもう少し続けたいと思う。