思考の踏み込み

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真田昌幸2

2014-01-17 14:04:16 | 歴史
第一次上田合戦においても敗れている家康は上田城を "軽く蹴散らして" とは思ってはいなかっただろうが、なにしろ四万近い大軍である。

秀忠の初陣であったとはいえ、まさか三日も足止めを食うとは思っていなかっただろう。



しかしいろんな説があり、そもそも秀忠軍は東海道の抑えとして配置していて、上田における苦戦はともかく、美濃関ヶ原においての合流はさして重要でなかったという説。

これは関ヶ原の合戦が一日で終わるとは考えておらず、東を抑えておく必用性という意味でいわれるが、豊臣恩顧の諸将を抱えた家康が長期の戦がいかに不利かわからぬはずがない。

しかも秀忠軍無しでは関ヶ原において数の上で西軍に劣るのである。

従って秀忠の合流というものは計算に入れられていた、と考える方が自然であろう。
古来名将は、戦力の分散をけしてせずに一ヶ所に集中させるものだ。

事実、合戦の後に到着した秀忠に対し家康は激怒、面会すらしなかった。

他家の者たちが徳川の為に血を流したのに惣領が遅参したということへの諸将の怒りをかわすためにも、この秀忠に対する処置は当然だが、それは家康の政治的な演技にすぎないのか?
それとも真に怒っていたか?

また、そもそも家康が秀忠に関ヶ原に合流せよ、という使者を出すのが遅かったという説や、途中河川の氾濫などで使者が遅れてしまったという説もあり、秀忠遅参が真田昌幸の功ではないとする見方もある。

真田昌幸

2014-01-17 09:47:01 | 歴史


真田幸村の父、真田昌幸。

二度に渡って徳川軍を破った名将である。

特に二度目の第二次上田合戦では関ヶ原に向かう途中の徳川秀忠を大将とする、徳川の主力軍ともいうべき38000もの大軍を、わずか3500の兵力で相手にしたというものであった。

徳川軍 (家康) が城攻めを不得手といていたことを差し引いてもこの時期、小牧長久手で秀吉軍を破っていわば "最強" ともいうべき徳川を破った昌幸。

まさに名将の面目躍如たる場面であろう。

たがここでは昌幸に注目するわけではない。それよりも家康のことである。

彼の思惑では信州上田城など軽く蹴散らして、そのまま徳川主力軍を中心として関ヶ原に臨む、というものが当然の構想であったはずだ。

ところがその構想は昌幸によって見事に崩された。
このときの家康の動揺はいかほどであっただろうか。

歴史では東軍が勝利を招き、この上田合戦における秀忠遅参という事件を軽く見過ごしているが、このことはもっと重大な意味を後にもつのではないかと考えられる。

その辺りに迫ってみよう。