思考の踏み込み

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再開4

2015-01-28 07:54:06 | 日記
寺山修司の秀逸な言語感覚がどこから来ているのだろうかと考えると、やはり俳句にあるのではないかと思う。

学生時代から相当にその世界にのめり込んでいたようで、彼の多彩な肩書きのまず始めにくるのはやはり、俳人、歌人という呼称である。

劇作家や作詞家としての彼の在り方はその延長にあるのではないだろうか。
寺山の簡素でムダのない、それでいて豊かな内容を内包したその言霊たちには、そういう背景があるのではなかろうか。




俳句とは本来三十一文字で表現していた内容を十五文字に凝縮したものであった。

少なくとも芭蕉の句はそういうものだった。だから芭蕉の句は中身の濃さが違う。
そういう密度の濃さが寺山の言葉にも見られる。

ただそれは彼の歌や句よりもむしろ舞台演劇における台詞の中で、見事に発揮されているように思う。

そこが彼の一番得意な場所だったのだろう。
だから彼の源流は俳人としてあるが、世間に対してはやはり演出家、脚本家という寺山像がもっとも実際に近いのかもしれない。




寺山について書くつもりはないと前置きしておきながら、少し触れ過ぎた。
それはこの俳句を含めた "歌" と日本人について触れたかったからである。

歌 ー この、日本人が二千年に渡って謳い続けてきた伝統を、それが敗戦後あっさりとその文化を捨て去られたことのその意味を ー どれほどの人が考えた事があるだろうか。

寺山修司の、まるで魔術のように精神の内側に響いてくるその日本語を、舞台演劇という形式で耳にしながらそんな風に思考は巡った。


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