思考の踏み込み

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時空7

2013-11-30 08:45:42 | 
"時間" というものを、考える上で個体ごとの空間と、その外側の宇宙そのものという空間と、もう一つ重要なのは心理的な空間である。



あるいはこれは時間という概念が生じた後の二次的な産物といえるかもしれない。

心理的空間の大きさと外的空間上の時間感覚の差によって時間軸というものは成立、変化しているのではないか、ということである。

例えばわかりやすい話で、余命が一日と言われた者のその一日は、日常の一日とは全く別な時間軸となるであろう。
つまり、心理的空間の大小とは、空間の終わりがいつ頃訪れるのか、というひとつの "思い込み" である。

この "空想" は誰もが無意識レベルで必ずしていることである。
人の死期はある程度、その無意識レベルにおける空想によって決まっているという説は、こうして心理的空間として形にして捉えると少し理解することができるかもしれない。

時空4で挙げたいくつかの異質な時間軸の例 ー日常の時間軸の崩壊 ー は、こうした心理的空間の変化と肉体的空間の状態が、外的空間における日常の時間軸との差異を生むことによって起きる、と説明できると思う。



肉体的なものが先か、心理的なものが先なのかはケースごとに違うであろうし、擬似的な現象もあるだろう。

しかし、身体的に高度な鍛錬によって神経系の伝達を開発し、一般的な時間軸とは違う世界に到達した者を除けば、やはり日常の時間軸が崩壊するということは一時的な現象でない限り、精神的ににとても耐えうるものではないし、心配しなくとも人間の精神構造上でも時間軸の崩壊は持続はしない。

時空6

2013-11-30 08:26:29 | 
さて、個体種によって時間軸は大差ないのではないかと前途したが、かといって同じ時間を同じに感じているわけではない。



なのになぜ "時計" などというものが成立するのか?

実に不可解な気がする。
人が時を感じる要素には脈や呼吸、血液の循環レベル、神経系統の伝達レベルなどが関わってくるが、それらは体と心の状態によって刻々と変わるものである。

であるのに何故にして時計という概念を我々は理解するのか ー

即ちそれは天体の動きに他ならない。

個人個人という空間内の差はあれど、宇宙という空間は誰もが共有している。
もし宇宙が何の規則性もなく動き回っていたら、我々は "時間" という概念を生み出すどころか、まともに生存すらしえないだろう。

これは人が持つ "時間軸" の重要な要素の一つでもある。

つまり、宇宙 (天体) は絶対に規則正しくうごく、という思い込み ー 夜が明ければ必ず朝が来るという思い込み、鼓動は止まることなく連続するという思い込み ー こうした思い込みがひとつ崩れるだけで、人間の "時間軸" などというものは簡単に崩壊し、同時に精神が正常であることをやめるであろう。



人の精神が正常か異常かを見分けることは難しいが (多くの者は自分は正常なつもりでいる) その手がかりの一つに、この同空間内における共有感覚と心理的な思い込みということが、挙げられそうである。
これはここでの主題と逸れるので後の機会に譲る。


時空5

2013-11-30 08:07:33 | 
時間と空間は不可分のものであるから、我々が感覚で感じ取る時間が空間上に拡がるものであることはわかる。

その際、それを感じている我々の身体そのものも一つの空間であるし、その空間に拡がる神経の長さや、伝達速度は同じ生物種であればおそらく大差はないのであろうと思われる。

ハエには人の動きがスローモーションの様に見えているというが、まさしくそれは生物種における時間軸の相異であろう。




ただここで問題にすべきことは、ハエが人間より速い時間軸を生きているということを個体の大きさ ー 即ち空間の大小 ー とみるのか、それとも運動の速度差によると見るのか、という点である。

これは後者の方に原因として力がありそうだが、もしハエが人間並の大きさで今と同じ速さで動き回ったら、我々はハエの速度をどう感じるだろうか?

相撲を観ているとよく思うのだが、幕内上位の者同士の立ち会いは幕下や序の口の体が小さく細い力士達の立ち会いよりゆっくりに見えることがある。

立ち会いの鋭さ、速さという点では実際はまったく逆なのにである。
しかしこれはあくまでも観ている側の時間感覚である。



ここで外から見る時間と自らが体験する時間にも同じ現象なのに違いが生ずることに気づく。

とするとハエが大きくなっても見ている分には速度はそれほど感じなくなるのではないかと思う。

従って生物の速度をいうときには、個体の大きさと運動能力の速度との比率というものが重要であるということがいえそうだ。

時空4

2013-11-30 07:52:15 | 
ー 例えば、ある格闘家が極限まで鍛錬し、その神経を研ぎ澄ましたとき、相手と対峙する。

彼には相手の動きが止まっているかの如くに見え、勝ちを制するに何の苦もなかった。




こうしたことは様々な競技、勝負事において稀ではあるが、しばしば起こりうる現象である。

だが何もそうした現象は競技の世界や特別に鍛錬された者にだけにしか起きないとは限らない。

有名なタイタニック号が沈没した際、乗客達は巨大な氷河の塊になす術もなくぶつかっていく瞬間が無間地獄の様に長く感じられたという。

同じ様なことは交通事故を経験した人ならよくわかることではないだろうか。
これらの事例を "そうした現象" といったが、それはつまり 「日常の時間軸が崩壊する現象」 といいかえることができる。



なぜこうしたことがおこるのか?
そもそも日常の時間軸とは何か?
いや時間というもの自体その概念がよくわからない。
その辺りに踏み込んでみたい。

時空3

2013-11-29 09:56:00 | 
もちろん我々が感ずる時間感覚というものは呼吸や心音、脈といった要素が刺激として ー 触覚や内臓感覚を経て ー 考えられる。

光や音はその生まれる場所を頭で考え、理解しやすい。

だが時間と空間はその発生の大本を中々、日常的な頭では理解し難い。



光や音ですら時間と空間がなければ成り立たないのであるから、宇宙の本質は時間と空間にあるといっても過言ではないかもしれない。

かつて、ギリシアの哲学者が「時間をずっと遡り、発生の瞬間までいったとすると、それ以前はどうなっていたのか?」と、問われこう答えたという。

「世界も時間も神が作った。それ以前はだから時間など無かった ー 」

話術としてはうまいが、本質に迫っている言葉とはいえない。

よく "時が止まる" というが、本当に時が止まったら世界はどうなるだろう。
漫画のように静止状態を維持するだけだろうか。
だがその状態を時が止まった、と本当に言えるのか?
本当に時がとまれば宇宙はどうなるだろうか ー

時は止まっていても、止まっていた "時間" はやはり存在する。
逆に "宇宙" という空間がなくなったらどうか?時間など存在しえないだろうか?
時間と空間がぶつかるなどという仮説は成立しないことははじめからわかっているが、あえてそこからモノを考えると思考は思いのほか発展する。



変則的思考の踏み込みとでもいうべきか ー 時空、もう少し続けてみます。