思考の踏み込み

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真田昌幸4

2014-01-18 13:28:17 | 歴史
もし徳川の支配が全国に及んでいたとしたら、幕末の維新という出来事は起こり得なかったかもしれない。

江戸期一杯を通して、外様大名は最後まで徳川幕府のアキレス腱であり続けた。

大袈裟にいえば、真田昌幸がいなければ日本史自体が変わっていた可能性すらあるのではないか ー 。

国家というものは難しくて、外圧に対しては中央集権の方が強い。
しかし、中央集権が続くと多様性を欠き国家としての底力はやがて薄れてくる。

徳川三百年とは様々に功罪合わせ持つ時代だが、教育と文化に関しては一定の評価をされるべき内容がある。

三百諸侯が独自の藩風を持ち、互いが競い合い当時世界的にも例のない高い教養社会を作り上げた。

そこから近代日本を引き寄せる人材も出てくるのだが、これが徳川独裁であったならこうはいかなかっただろう。

李氏朝鮮が五百年その体制を維持しながら、近代化を内部からはついに起こせなかったという事実を思うべきである。

明治も二十年頃、勝海舟は今をときめく政府の顕官達を前にしてこう嘯いたという。



徳川幕府というのは国を内乱にさせないよう、しつけ糸一本抜くだけでバラバラになるように東照大権現様がお作りになっていたのさ ー 。

だから維新の最大の功労者はその糸を抜いた慶喜と自分にある手前たち勘違いするなヨ、という勝一流のドスの効いたユーモアだが、あながちこれは冗談とはいえないかもしれない。



真田昌幸3

2014-01-18 13:27:06 | 歴史
事象というものは全てひとつの因から起承するようなことはない。

複雑な原因が絡み合い、あるいはまったく逆の要素が影響し合ったりして起こるものだ。

2で触れたもの以外に、今回の関ヶ原における秀忠遅参という事象におけるいくつもの原因の中に、徳川方における真田昌幸という男に対する恐怖心、あるいは過剰意識があったことは想像できる。

わずか2~3000人の城など初めから抑えの人数だけ置いて素通りすれば済む話なのに、第一次上田合戦の汚名をすすごうとして失敗している。

また後の大阪の陣において真田が挙兵したと聞いた家康が 「それは親 (昌幸)か、子 (幸村) か?」と言ったという逸話はこの辺りの心理を伝えている。

真田の抜け穴

しかもその時の家康は身を震わせながら尋ねたというから、もしこれが事実なら昌幸像は彼の中ではかつての武田信玄のように巨大になっていたのかもしれない。
ちなみにこの時昌幸はすでに九度山で死んでいる。

以上の点からも秀忠遅参という結果に対して真田昌幸自体には原因はないとする説は果たして正論といえるだろうか?

そしてこの秀忠遅参になぜこれほどにこだわるのか ー それは秀忠の徳川主力軍が参加していた場合、徳川が独力で関ヶ原で圧勝した可能性があり、それはつまり他の諸将に対する気配りの必用が無くなるということである。

もしそうなっていれば合戦後、幕府の力は全国に及んだであろう。
が、実際はそうならなかった。

西日本のほとんどは外様大名に与えざるを得なかったのである。