思考の踏み込み

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運命論14

2014-01-13 00:30:41 | 
その男はこう考えたという。

ー "運" の生まれる場所の一つは己が身心の内にこそあるのではないか。
それはまた未来を作る場所でさえあるのではないだろうか ー 。

空想や観念、潜在意識と未来の関連性については先に少し触れたが、この考えだと確かに人の未来は「意思」ではないところで、自らの思った方向へ進んでいるのかもしれない。

いずれにせよ、"運" の変転の多くを左右するものは実は己が中にこそある、という考えは面白い。

もちろん、それとは別に外界の変化というものも当然あるだろう。
月の満ち欠けと波、重力や磁力、、
女性の生理を出すまでもなく、男女関係なく明らかに人間は天体の動きやその動きの大本となる様々な "力" の影響下で生存している。



それらが我々の身にまとわりついている "運" にも影響を与えるのは当たり前のことだし、多くの占いはこの外界の変化を研究したものといえるだろう。

それが常に当たらないのは、外界の研究に留まっていて個人の内側を見ないからだとすれば、優れた占い師とそうでない者の差はそこにあるのだろうと思う。

例えば、味覚によって人が不味いと感じるものは食物として危険性を持っている可能性が高い。

この感覚がなければ当然、生存そのものに関わってくるであろう。

当たり前の事の様だが、もしかすると "運" の正体もこうした諸感覚と同じ様な、生物が生存のために必要とした感覚の一つなのではないか?



つまり "運" が悪い、と感じる。
そのことは違和感であり不快さである。
その状態を変えようと誰もが思う。

何か縁起の悪い場所には近づかない。
カーテンの色を変えてみる。
明るい音楽をできるだけ聞く、、

これらが不味いものは食べない、危険である、と感じる生存のための働きと似たような現象だとは考えられないだろうか。





運命論13

2014-01-13 00:30:30 | 
ある男がいた。

彼は常に強く有りたいと望んでいた。
周りの者は彼を強い人間で、己に厳しい男だと思っている。



しかし彼自身は知っている。
強くなりたいと願うのも、自己をいつも鍛えていないと不安なのもそれは弱いからに他ならない。
弱さをそのまま大肯定してその上にあぐらをかく様な強さはない。

そんな彼はいつも "何が起きても" 動じない自己を作り上げようとし、"どんなことにでも" 対応できる男になりたいと思っている。

そこにあるのは逆境の想定である。
ここで運、不運を考えて縁起をかついだりすることさえ、彼には弱さに感じてあえて遠ざけた。

だがあるときその男はどうもそういうことではないのではないか、と思い始める。

仮に "運" が自然現象のようなものであるとするならば、そもそも "運" は遠ざけたり闘ったりするような相手ではない。
向かい風にむかってことさらに勝負を挑む者などいないのと同じである。

陰陽神社の陰陽石

むしろ "運" の持つプラスの部分をいかに引き入れようかと考えることは、人間の行為としてごく自然のことであり、それを積極的に行ったとしても
そのこと自体に囚われてしまわなければ ー けしてそれは弱さであることにはならないのではないか。

彼が逆境を想定し、自己鍛錬してそなえる。
このとき己の内には「陰」の要素が生じ、その親和性によって "運" はマイナスの要素を近づける。

彼の想定した通りに "逆境" はやってきて、確かに彼はその都度鍛えられた。
だが、本当の強さとはそんな事を繰り返さなくては得られないのか?

その男は生きるということはもっと違うものではないかと考え出す。
そしてまた観念や空想が未来を作り出すという説の整合性を思わざるを得なかった。