思考の踏み込み

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再開6

2015-01-30 07:57:02 | 日記
和歌の伝統、そしてそれをより先鋭化させた俳句という文化、そしてもののふ達の猛き心を昂ぶらせ、或いは鎮めてきた漢詩の世界。

現代の教育者が本当に力を入れなければならないのは、ほとんどの者がどうせ話せるようになどなりはしない英語教育などではなくて、以上のような悠久の歴史を誇る日本語世界についてこそであると思うのだが如何だろうか。

余分な話だが、明治の革命は和歌ではけして起きなかったと言う説がある。


慶応元年 高杉晋作。

" 猛烈ノ奇兵 何ノ志ス所ゾ
 一死ヲ将(も)ッテ 邦家ニ報イントス
 欣(よろこぶ)ベシ 名遂ゲ功成リテ後
 共ニ招魂場上ノ 花ト作(な)ラン ー "



幕末志士達の心を揺り動かし、時代を廻らせたのは先覚者達の "漢詩" であった。

我が国における漢詩とは紛れもない中国古代詩であるが、発音は日本語で行われる。

不思議な事だが、漢詩を日本音で "読み下す" と独特なリズムが生まれる。
漢詩を作り、平仄、つまり韻を整えるところまでは中国詩と何も変わらない。

ところがそれを日本語で発音するところから、これはまったく別の文学に変わると私は思っている。

それは精神を高揚させ、引き締めて鍛えあげる独特の律動を持っている。
読み下し文の響きは日本語世界が持った一つの芸術世界である。


そして多くの志士達は死を賭してこの国の為に動いた。そして止むを得ず死を迎えるしかないとわかった時、彼らは無念の思いを辞世の歌にして鎮めた。

それは和歌であることも多いが、漢詩の形で遺されたモノも少なくない。

その詩はその独特のリズムと響きによって、遺された者達の魂を震わせ、あるいは鬼神の心さえ揺り動かして時代を旋回させた。


平野国臣の辞世。"成敗ハ天ニ在リテ 魂魄地ニ帰ス "


私は寺山の言葉の魔術から ー こうした効果に近い響きを、どういうわけか感じてしまうのである。

それでついつい漢詩とか和歌という日本の伝統文学に思いを馳せてしまったが、一定の教育を受けた者であれば歌の一つくらい読める様な時代が来ないものだろうか。

それだけで日本人の在り方は大きく変わるのではないかと思う。


" ー 歴史を書くのは右の手で、舵を取るのは左手だ!"


文化という強力な潜在意識教育の泉に身を委ねると、実はそれほど教育の問題などは難しくはない。

あとは左手で正しく舵さえ取ればいい。上の寺山の言葉の真意がそういう意味なのかどうかはわからないが、その "響き" は我々がどう生きて何処へ向かうべきなのか ー 誤る事なかれ。


ー そう叫んでいる様に私には感じる。

寺山修司という、革新的な事を次々に世間に対して行ってみせた異端児の舞台の感想で "日本語" にまつわるところへと展開させたことは、やや強引であったかもしれないが、まったくの検討外れでもないであろうとも思う。



寺山修司については彼の作品にもっと触れてからまた書きたい。

今回はこの辺でー。



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