思考の踏み込み

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運命論8

2014-01-09 08:41:24 | 
以前ニュースで、クラブ活動の合宿の帰りにマイクロバスの非常ドアから高速道路に落ちてしまい、トラックに轢かれて子供が亡くなってしまうという悲しい事故の報道があった。

一体誰が悪かったのか?

非常ドアのチェックを怠った運転手か、バス自体の製造会社か。
あるいは実際に轢いてしまったトラックの運転手なのか ー 。

どうすればこの事故は防げたのか。
なぜ何の罪もない子が亡くならなければならなかったのか?

遺族にしてみればなにか答えを見出さなければ気持ちの整理がつかなかったであろう。

人はこういうとき、最後には「運が悪かった ー 」
そう思うことしかできない。

人の死に方には、自然な死と観念死と二通りあるという。

そして多くの場合は観念死である事の方が多いという。
つまり、その者の空想 ー 意識しない潜在意識の中で描いていた方へいつの間にかいってしまうという事実である。

自らの人生を勇気をもって真正面から見つめうることのできるものならこの事はよく理解できるはずだ。

人は誰もが自分の意思で生きていると思っているが、意思の力など無意識の及ぼす影響力と比べれば大海に浮かぶ木の葉程もない。

なぜあんなことをしてしまったのか、と悔やむことは誰でも経験している。
なぜあの人を好きになったのか?
意思によるものではない。

そうして考えると観念死ということは確かにあり得ることかもしれない。

この空想と未来の問題については後にもう少し触れる。

運命論7

2014-01-09 08:21:57 | 
"運命" という言葉がある。

単純に考えて "運" を小さな波だとすれば、"運命" はより大きな波、その者の人生を大きく左右するような事柄に対して使われる。



人が「運命的な ー 」と言うとき、共通してそれは思ってもいなかったことに出くわし、その後の人生がそれによって強く影響されたときに出る言葉である。

これが "宿命" になるとマイナスなイメージの方が強くなる。
何か逃れられないことに対して、人があきらめの理由付けとして造りだした言葉のような気もする。

よく "運命的な出会い" などというが、同じ人間と出会っても、それを運命と感じられるものが自分の内になければそんな出会いは成り立たない。

つまり、"運命" というとまったくの偶然か唐突な出来事のように感じるが、それだけの下地というものがその者の中にはすでにあるのではないかー 。

ということは "自己" という内的な環境と "外界" という外的環境、この境目に現れる性質 ー このあたりに運とか運命の起点があるのではないか?



だとすれば桜井章一が自己の内面を磨き続けた作業の意味も少し見えてくる。