鮎と戯れて・・・魚族に感謝

東北地方を中心とした短い夏のあまり多くない鮎釣りの記録。家族に感謝して。近くの広瀬川の環境等にも拘るも、オフは時事問題も

鮎は元気!?

2022-05-18 14:33:12 | 思いつくまま

   

いやあ、いま午後2時半過ぎです。きょうの天気は最高です。暖かいし、眩しく日差しもあるし、いかにも5月中旬の陽気に感じます。ということで、きょう正午の観天望気です。 

   

天気:くもり、雲量9割以上、気温:21.1度、湿度:44%、風速:5m/s、不快指数:64 となっています。気象台から見える空と家から見える空はそんなに異なるのかなあ~。

   

今朝方のラジオで言っていました。きょうは戊辰戦争・箱館戦争での中核司令部となっていた五稜郭を開城した日だと。それで手元にある「戊辰戦争年表帖」を開いてみました。旧暦で5月18日、新暦にすると6月27日です。

   

この本は慶応4年(1868)年から昭和16年(1941)の最期の戊辰戦争参戦者・戊辰戦争を知る大名 林忠嵩(ただたか)(元上総国請西藩3代藩主)没までを、佐幕派をメインに記載したものです。

   

全416ページ、2013年11月26日発行、1500円+税 という本です。この本は、旧暦5月18日の項も6段に区切って詳しく出来事を記載しています。その3段目で五稜郭開城を開設しています。

   

戊辰戦争全体は、慶応4年(1868)年1月3日から始まり、明治2年(1869)5月18日に終結とされ、戊辰戦争の中でも箱館戦争は、明治1年(1868)10月20日に始まり、明治2年(1869)5月18日終結とされています。

   

この日の朝7時、榎本武揚・松平太郎・荒井郁之助・大鳥圭介の4人は、庭に整列した全員の見送りを受け亀田会議所へ赴き、駕籠で函館へ護送され、また、午後1時過ぎには、郭内の1000人余も箱館へ護送されて称名寺、実行寺等の寺院へ収容されました。

  

武装解除されたのですが、その時の武器は、元込銃107、ピストル48、ミニエール銃など1600、長カノン9、その他の大砲33門と書かれています。米は500俵を引き渡したそうです。ここまで詳しく書かれた書物は見たことがありません。

   

箱館戦争と言えば、どうしても元新選組副長土方歳三の戦死の模様が気になりますよね。土方の戦死の項では、こう書かれています。旧暦5月11日、新暦6月20日です。戦死の場所は一本木関門の戦い。(学生時代函館を訪問し、土方戦死の地という石碑があったと記憶していますが)

   

””箱館鎮撫隊の面々すべて弁天台場に入り応戦、弁天台場の孤立を案じた土方歳三は、額兵隊、伝習隊、見国隊、神木隊を率いて箱館奪還に出陣。一本木関門の戦いで土方歳三は銃弾で戦死、享年35(1835-1869)。のち、歳三の遺体引取りの使者として、土方の部下の小柴長之助が赴いたという。””

 

きのうの広瀬川本流の朝の写真です。家庭用の長靴で入って行ける浅瀬での撮影です。まだ早いかなあと思いつつ川底の石を注視したらあったのです。

   鮎のハミアトです。この前の放流鮎かな。

                        

何にしても嬉しくなりますよね、鮎のハミアトが見られると。鮎は確かにここで生きていて少しずつ大きくなっているという証でしょう。これからは川底の石の状態を見るのが楽しみですね。ハミアトが日に日に大きくなってくれれば最高です。

ところでこれはきのうの分流の群れている魚の写真です。

 

            

川底の写真を撮るのは私のカメラでは難しいのですが、朝日の加減によっては何とか撮ることができます。その結果何とか撮れたのですが、何じゃこれは?もしかして、これは?とツイツイ思ってしまったのですが・・・・。

これはハヤではなくて、もしかしてモシカシテ 鮎 アユ ではなかろうか? そう思ってしまったのですが、みなさんの目にはどうみえますか?

アユの放流場所はすぐ下流の本流です。その頃はまだ水量もありましたし、群れのリーダーによっては分流に遡上したアユがいてもおかしくはないような気がします。

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