きのうの夜から小雨が降り出しました。日中は今にも降りそうなどんよりとした天気でしたが、降り出すこともなく、夜になってまた降り出しました。 こういう雨の降り方は、変な言い方ですが、「模範的な雨の降り方」ですね。 現役時代は”雨は夜降って朝は止んでくれ”とよく思ったものです。 今となってはどうでもいいことですが。
小雨に霞む桜も何気にいいものです。 桜と水仙のコラボ、堤防の向かい側には新緑をまとい始めた木々、その間を傘を差して歩く人、なかなかいい感じではないですか。 そう言うつもつもりは全くなかったのです、シャッターを切った時には。 写真を見てそう思った次第です、悪しからず。
下の写真は霧にかすむ亀岡方面です。手前が広瀬川。岩盤底もあって、アユ釣りにはいいポイントなのですが。 2枚とも撮影は午後4時半過ぎです。
きのうの朝日新聞の読書欄にあった本の紹介記事です。 本の題名は『魚は痛みを感じるか?』(著者:ヴィクトリア・ブレイスウエイト) ””情動や快不快を丹念に検証””との見出し。
皆さんはどう思いますか? 釣りをしている人はどう思いますか? あの魚が掛かった瞬間の手応え、たまりません!!とくにアユ釣りの場合は、生きたおとりを使って同類を釣るのですから、何とも不思議なよくできた釣り方で、縄張り争いを利用しての釣り方は喧嘩も甚だしいでしょう。攻撃するアユの体のどこに鋭い針が掛かるか全く分かりません。それこそ頭のというか口先からしっぽまでどこに針が掛かってもおかしくはありません。アユ釣り師は何度か経験し、悔しい思いをしたことがあるでしょう、鋭い針先がアユの脳天や心臓に刺さってしまったことが。 循環の釣りのアユの友釣りにおいて、それは大変なショック、時に致命的でさえあります。
私がアユ釣りに嵌ってしまったのは、他ならぬ掛かったときのあのアユの抵抗です。水中糸から竿先を通って手もとに伝わってくる、”力強い手応え”、それを味わってしまったがゆえに現在までアユ釣りが続いているわけです。 今これを書いているだけでも、アユが掛かったときのことを思い出し、想像して身震いさえしかねません。
たった20センチ前後、大きくてもせいぜい30センチ前後の魚が、大の大人を時には10メートルも、私なんか最上川の上流域で30~40メートルも下らされて、その結果高切れでおとりもろともパア~ということがありました。どこにそんなすごいパワーが秘められているのか不思議としか言いようがありません。
つまりはアユは暴れるわけです。流れに乗って暴れるわけですが、なぜ暴れるか?単純に自由を束縛されるから、今まで自由気ままに水中を泳ぎまわっていたのが、糸がついた針によって否が応でも魚自身ではない別の力によって、本能とは別の動きをさせられるからではないかと思っていたのではないでしょうか。
もしかして痛がっているのかもしれないと思わないでもなかったです。でも、誰からともなく魚には痛点がないと聞かされ、そう思っていたのは事実です。また内心ではそうであって欲しい、と誰もが思っていたでしょう。 せめてもの罪滅ぼし?という意識もあります、あったはずです。
でも、しかし、この本によると魚には痛点がある、魚も傷みを、痛みを感じているというのです。 魚の脳にも情動を担う部位があること、快不快に基づく行動をとること、外的な刺激を情動に変換する感覚力をもつというのです。科学的に検証したのです。
でも(でも、という言葉が多いですね、毎度のことですが)救い?は”釣りを攻撃してはいない”ということです。
求めているのは、『人間のおごりを廃止、痛みの共有』だそうです。助かります。 楽しませてくれる魚に対して謙虚に、感謝しながら釣りをしなさい!ということですね。決して魚を邪見に扱ってはならないということです。外道だからといって、投げ捨てたりしないということです。
謙虚に、感謝の気持ちを忘れないで魚を釣って、釣ったからには命に感謝していただく、これが大切なことになるのでしょうね。
【きょうの広瀬川(河畔)】
分流の様子です。雨のために少し濁っています。
きのうは澱橋を紹介したので、きょうは牛越橋です。 工事の槌音が聞こえてきました。
小雨模様なのに、さすが若者です、ときに若者は馬鹿者にもなります。何も傘を差して河原で飲み会をやらなくても・・・・、まあこれが若さですかね。若いという字は苦しい字にも似ていますから、若いうちはいろんなことをやって苦しんで、成長していってほしいです。
きょうの最高気温は15.8度でした。きのうより5度高かったです。