秀策発!! 囲碁新時代

 「囲碁は日本の文化である」と胸を張って言えるよう、囲碁普及などへの提言をします。

正義が生むひずみ~手割論と方向性~

2013年12月02日 | 囲碁と、日本の未来。
 小判三枚の入った巾着を拾った大工職人。持ち主は困っているだろうと届けるが、落とした左官職人は、「俺の懐から逃げた薄情な小判にはもう用はねぇ」と、お金の受け取りを拒否する。そこからどちらが小判を受け取るかで大袈裟ないざこざに発展してしまう……


 ご存じの方もいらっしゃるでしょう。大岡裁きでも有名な、『三方一両損』のエピソードです。この騒動の解決に、大岡越前は自らの懐から小判を出し、三両に一両を足して四両にし、それを大工と左官の二人に二両ずつ分け与えます。

  今回注目したいのは、この揉め事が引き金になったトラブルについて。三両の受け取りを拒んだ左官は、さすが江戸っ子だと持て囃される。しかし、三両分のツケを払えず借金取りを困らせてしまう。また小判を届けながら突き返された大工は、「情けねぇ野郎だ、見損なった」と、大工仕事を首にされてしまう。
  脚色された話ではありますが、気っ風の良さを誇りとする江戸っ子の特徴がよく描かれています。
  平成の世であれば拾い主に何割か受けとる権利があるそうですが、江戸時代の法律ではどうだったのか。
 ところでこの対立、大工も左官も間違った事はせず、傍目に見ればどちらも正しい事をしました。しかし、お互いがお互いの正しいと信じる倫理観を押し付け合ったが為に、他人を巻き込む要らぬ騒動にまで発展してしまったのです。

  正しい事が実は間違いであった。あえて損をする方策を選択する事で全体的な釣り合い、誰かが不条理な損をする事がない。こんなあべこべな事態を《合理性の誤鏐》という言葉も使われます。たしか平成22年頃、NHKにてマイケル・サンデル教授の講義が放送されました。現代社会で起こりうるであろう倫理的トラブルをどう平和理に対応すべきかを、ハーバード大学の学生と議論するという内容でした。講義で取り上げられる問題は、日本人の感覚からすると突拍子もない、理解しがたい物ですが、それを平成の日本人が受け入れたというのは、大岡政談や一休さんのとんち話を大衆娯楽として楽しんできた土壌がある為かも知れません。

  正しい事が間違い、そんな事は囲碁の実戦でもしょっちゅう現れます。本には厳しい打ち方と書いてあり、囲碁教室の指導者もそれを良い定石と勧めている。ところが、武宮正樹先生の指導碁を受けたら打たない方がいいと…… これは私が間近で見た指導碁の風景。武宮先生が下手の打ち方を訂正した理由は、下手の方がアマ十二級であったから。どんなに正しい打ち方であっても、その人の実力では使いこなすのが難しいと考えれば、最善手では無く次善の策、あるいはさらに一ランク下の策を教えます。ただし最善手では無いとしても、囲碁が上達する為のエッセンスは確かに含まれています。またいくら大事な事とはいえ、下手が困る様な事ばかりを一方的に教えたのでは指導碁ではない。指導碁とは知識の伝授のみにあらず、どうすれば下手が無理なく上達出来るか、あるいは末長く囲碁を楽しめるのか、様々な事が配慮されているのです。

  これは級位者に限りません。手割り論を過信する人、石の方向にこだわる人、戦わなければ強くはなれないと力説する人、色々います。しかし大勢の愛棋家は、有段者にあっても、知識の偏り、誤解、思い込み等、囲碁の基本土台にゆがみがある。基本がゆがみ、囲碁の力学を無視した戦いをしていては、勝ち負け以前に、上達の妨げにもなってしまう恐れすらあるのです。宮沢吾郎九段の指導碁にも出てきましたが、厳しいだろうと打った手、実はそれは急所を外した緩着であった。そんな同じ様な失敗を、県代表クラスが打っているのです。
 正しいか正しくないか。この問答はプロの間でも頻繁に行われています。それか、《手割り論》と《方向性》の問題。部分的な損を出来るだけ打たずに石を最大限に働かせ、できればさっさと相手を投了させたい。これは石取りが好きなアマだけではなく、プロだって思っているはず。しかし同じ実力の持ち主が正しい手合い割りで戦えば、そんな都合のいい結果になるわけがない。そこで、まずは局地的に無駄の無い駆け引きをしたかどうかを、手割り論の視点で確かめます。さらにその戦いが別の地域に悪影響を与えていないか、方向性の確認をします。つまり囲碁のプロの実戦は、《手割り論》と《方向性》の二つの視野からチェックが行われ、その上で互角かどうかが判定されるのです。

 既存の価値観、囲碁であれば手割論や石の方向。プロの先生が言っていたからと鵜呑みにしてはいけません。本当にそれでいいのかどうか、状況に合わせ、自分の眼で確認しなければならないのです。

余話の選択

2013年11月18日 | 囲碁と、日本の未来。
  囲碁を教えた経験のある人達は、子供に理屈は通じないと言います。その原因の一つは、言葉数の差。いわゆるボキャブラリー不足。いくら丁寧に説明したとしても、その子が知らない言葉を安易に乱用しては、本人に学ぶ意欲があっても理解には繋がりません。

 さらなる問題は、受講者が関心の無い話ばかりをしている指導者が実に多い。例えば子供教室で酒やパチンコの事を話していては、例え講義の合間の余話であっても、ソッポを向かれるのは当たり前。そんな初歩的な配慮にすら全く至らないという実態があるのです。
  例えば企業の営業担当者であれば、経済紙で得た情報や取引先の会社の事を調べる事から始めるでしょう。では、囲碁や学問の場合はどうか。例えば人気講師が使う話題、いわゆる「テッパンネタ」を拝借すると言う方もいるでしょうが、それは止めた方が良い。「テッパンネタの使い回し」は受講者、特に子供にはすぐに感づかれてしまいます。それに何より、指導技術の向上には全く役に立ちません。
  名指導者と言えば、兵庫県の名門・灘高校の国語教師、橋本武先生。戦後の頃から、『銀の匙』や『徒然草』と言った名作を、一語一語もおろそかにはせず、じっくりと読み進める方法で授業を進めていました。特に作品中のエピソードを追体験するなど、日本人としての歴史・文化・風習を身を持って学ぶ為の脱線を意識して行っていたのです。

  囲碁の技術を教えるだけならそれで事足りるでしょうが、物事を教えるという行為は、学ぶ人に対し何かしらの影響を与えるものです。子供であれば将来がありますし、大人であればこれまでの人生があります。その為、余話の素材探しをするにはそれをよく意識する必要があるでしょう。それに加えて指導者の教養の幅の広さが欠かせません。
 この手法がうまかったのは司馬遼太郎と池波正太郎。役に立つかどうかはわかりませんが、一読の価値はあるでしょう。

教えるべき内容を厳選せよ

2013年11月04日 | 囲碁と、日本の未来。
日本の野球やサッカーが世界レベルで活躍出来る要因は、高校の部活動という独特のシステムの賜物だそうです。
その下支えをしているのが全国各地の少年クラブ。プロ組織が関与せずとも、早い時期から親しめる組織がある事は世界的に見ても珍しいのだとか。
そこでの練習計画は当然チーム監督やコーチがしきるのですが、問題は指導者の力量差が大きく開いている事です。チームに所属する子供達が全員友達同士で遊ぶ目的だけならまだしも、その中には上達の意思が強く資質にも恵まれている子供が埋もれている場合がある。そんな子供の才能に気がつかず埋もれたまま、それどころか不適切な指導の為にケガやスランプで挫折してしまう子も大勢いるというのです。
こういった場合の原因は、指導者と選手の認識の大きなズレであるようです。

これは『テレビ寺子屋』という番組での、立花龍司さんの講演より。
ある少年野球チームに所属していた男の子。チームでも優秀なピッチャーでしたが、ある時から練習をサボる様になった。この子にはもうやる気が無いのだとチームの監督は判断しました。
これについて立花さんがその子に聞いてみると、苦手なポディションにまわされてからエラーばかり。それなのにアドバイスも練習も無く、叱られてばかり。それが辛くて練習に行けなくなったというのです。そこで立花さんが個別トレーニングを行った結果、チームに復帰。その後プロ野球チームに逆指名で入団したそうです。

この様に、肝心な事を指導していない為に下手が伸び悩んでしまう例は囲碁界にも多々あります。ある女性の対局。上手の男性が13路盤で教えていたのですが、女性は空返事ばかり。後で話を聞けば、実はその女性は囲碁を始めて三ヶ月余り。置碁の三々入り定石すらまだ習っていない……
習い事において、指導者の存在は大きい。まずは教わる人の表情をよくみて、何が必要なのかを察する事が、指導者の最低条件なのです。

ファンの声を集める

2013年10月21日 | 囲碁と、日本の未来。
  前回ご紹介したおばさん(『しゃべりたくなる環境作り』の回)は、お孫さんが生まれてから囲碁を始めたそうです。始めてから10年程で3級になりました。その方にお会いする度、
「小林覚先生の本はいいですねぇ」
  と言う話しを必ず聞きます。
  福島県の事情を説明しますと、地元の二軒の書店には棋書の在庫は極めて少なく、郡山市や福島市の大型書店にまで出かけなければなりません。隣町で買った本の中でも日本囲碁連盟から出版された小林覚先生の本には、面白い打ち方が沢山載っていて、何度読み返しても全く飽きないのだとか。
  囲碁の上達の三要素として、
「良い師匠、良い棋書、良い仲間」
  と中山典之先生がおっしゃっていましたが、良い棋書を見つける。そして楽しみを分かち合える囲碁仲間が増えたとしたら、素人碁打ちとしては至上の幸福でありましょう。

  仮に囲碁に限っても、日本の出版環境は優れていると、中国や韓国の囲碁関係者は高く評価して下さっているそうです。藤沢秀行先生が自叙本等にて書かれていることですが、
「昔の話だが、私には身に覚えのない、私の名前がついた棋書が出回っていた」
 おそらく終戦から数年に渡る時期、人々が娯楽に餓えていた頃、出版事情も悪く棋書も少なく、昭和以前に出版されていた本が多く売られていたそうです。そんな中、何の断りもなく、プロの名前が使われていたのでしょう。

 さすがに今ではありませんが、例えば白江治彦先生から伺った話として、
「有段者向けに出題した詰碁問題が、級位者に解かれた」
  事は度々あるのだとか。原因は読者の感想が関係者になかなか届かず、棋書作製に活かしにくい為。そこで制作者自身の経験、又は都内教室の生徒さんに合わせて本を作るのだそうです。本当に良い教材を作る為には、囲碁ファンの声を今以上に集め分析する必要があるのです。
  今後はクラウド等の活用が進み地方の声も集め易くなりましょう。そうなれば囲碁界全体が活性化し発展すると思うのですが。

囲碁と町興し

2013年10月07日 | 囲碁と、日本の未来。


「都内では、一時は廃れた伝統的な地場野菜を復活させ栽培する動きがあるそうです。そんな地場野菜のメニューをお店で出してみては? お客さんへのサービスにも、都内の街興しにもなるかもしれません」
 そんな内容の事を、碁席秀策の席亭の奥さんお話しした事があります。

 以前稲葉さんが、
「囲碁で麹町の街興しがしたい」
 とブログに書かれていました。私がお世話になっている囲碁関係者数名も同じく、囲碁で街興しがしたいと……
私としては、もしやるなら、囲碁以外の分野にも影響を与えたい。囲碁全盛期の碁会所の商売は、街や地域の繁栄という恩恵を受けていたはず。ならば今度は、街や地域を盛り上げる知恵を(お客さん含めた)囲碁関係者が積極的に発信していく事を考えてもいいはず。その一つが、秋に行われている囲碁フェスでしょうか。
些細な事でもいい。例えば都内碁会所での雑談の中で、
「子供の自由研究のテーマが見つからないので困っている」
 と話があれば、
「どこどこの農家さんは珍しい茄子を作ってますよ。その農家さんに相談されては?」
 そんな様な会話が当たり前に出来る様になれば、地域にも学校教育にもいい影響が出ると思うと思うのですが……

※ウェザーニューズ社刊行の『季刊そら』(2012年梅雨号)という雑誌に、江戸東京野菜の特集がありました。

しゃべりたくなる環境作り

2013年10月07日 | 囲碁と、日本の未来。
  父の代からお世話になっているある店。そこの主人の母親の方、隣町の公民館で開かれている女性の囲碁定例会に参加しています。そこは比較的歴史が長く、普及活動にも熱心。ある年の春、地元の祭りで勧誘活動をし、一度に10人以上の新メンバーが集まったそうです。女性の囲碁人口の少ない田舎で新メンバーを集めたバイタリティーは正直凄い。最盛期と言われている昭和50年代に比べ、囲碁人口が3分の1程にまで落ち込んでいる現代、囲碁関係者が積極的にアプローチしなければなりません。

「商売が成功する要因はこども、女性、素人を大事にする事」
  以前『オーラの泉』にて、レギュラーの三輪明宏さんがおっしゃった言葉と記憶しています。デビュー当時は「下品」と評されながらあれほどまでにヒットした秘訣は、若い女性やこども達に支持された事。囲碁ファンの拡大を考えるのであれば、三輪さんの言葉がヒントになるでしょう。

  東京では女性やお子さんの新しい囲碁ファンが増えていると聞きますが、その人達の多くは、身内に囲碁ファンが居ない。実は院生でも同じ。これまで囲碁との縁が無かった人が、何かしらのきっかけで始める。それが、最近の囲碁界の傾向なのです。それであれば当然、囲碁ファンの間で常識と思われている話題も、新しい囲碁ファンには知られていないと言う事は多々あります。

  ある時の碁会所での雑談の際、
「細川千仭さんの囲碁教材を是非見てみたい」
  という碁会所師範の意見がありました。しかし、それを聞いていた若い男性、細川千仭という名前を知りません。そこで、細川千仭とは誰かという説明に話題が展開していったのです。
  そんな新しい囲碁ファンの声は、既存ファンの声にかき消され、なかなか聞こえない事が多い。囲碁界のこれからの課題は、新しい囲碁ファンの声を集める事。その為には、碁会所や囲碁サロンが、井戸端会議の様に気軽にお喋りできる環境を用意する必要がありましょう。

知らない事は学問の始まり

2013年09月16日 | 囲碁と、日本の未来。
 碁会所の利用者、特に五十代以上の男性の場合、競技として囲碁を楽しみたい人が多いらしい。そういう人達の多くは、実戦で力をつけてきた反面、プロの指導碁や講義で勉強した事が少ないそうです。ある石取りが好きな男性、ビデオ講義を視て勉強したのですが、全く勝てなくなったとか。漢方薬の場合、風邪薬を処方するにも受診する人の体質をよく調べ、その人にあった薬を選びます。ビデオを視て勝てなくなったという男性の場合、その人の上達に本当に必要な情報で無かったのが主な原因。そして何が必要かは、第三者の意見を求めなければならない場合もあるのです。

別の場合。私が碁会所で棋譜を並べていた時、
「ネット碁でよく見る形があるけれど、意味が分からない」
と、ある男性から質問されました。その形は昔から置碁や指導碁の下手対策として打たれてきました。とはいえ、本で調べてもよく分からないと言う人もいますし、そもそも高段者でも見た事が無いと言う人もいます。肝心な事は、先入観や思い込みにとらわれず、正確に状況判断が出来るかどうか。見た事無い、知らないというのは罪ではありません。その男性には定石形についての説明をしました。断言は出来ませんが、納得して頂けたかなとは思います。

考える事は比べる事。これは司法試験受験の指導をしている伊藤真先生の本に紹介されていました。例えば、「核融合と核分裂はどこが同じでどこが違うか」「地熱発電と風力発電はどこが同じでどこが違うか」という様に。
実は、プロ棋士はこれに似た事を常にやっているのです。プロやトップアマは定石をあまり知らないと言いますが、それでも強い。それは、例えば自分の実戦で未知の形が出来た場合、知っている形と比べるのです(これは手割論という分析法)。
もし分からない定石などを見たら、定石書から似た様な別の形を選び、共通点や違いを探してはいかがでしょう。闇雲に暗記するよりは効果的だとは思います。

ほめる事としかる事

2013年09月02日 | 囲碁と、日本の未来。
  以前、木下さんが囲碁未来で連載されていた『私の教え方ノート』。参考になるかどうか、思い出した事がありますので、今回はそれについて。

A;誉める事と叱る事
  ……「YES BUT」と「NO BUT」

  警察官であった佐々淳行さんの本に、こんな事が書いてありました。

  警察内の業務において相手に指示を出す時、
「それならいい、しかしこうした方がいい」
  という YES BUT式と、
「それはダメ、こうしなきゃダメ」
 という NO BUT式の二つがあるそうです。

「YES BUT式」は新人教育や部下に指示を出す際に使い、「NO BUT式」は人質を取っているハイジャック犯との交渉の際に使う手法なんだそうです。
  もしこの使い分けを間違えると、被害者の命が危なくなったり、上司と部下の信頼関係が崩れ現場の士気が下がったりしてしまうのだとか。

  誉めて教える方法を「YES BUT式」、叱って教える方法を「NO BUT式」と言い換える事が出来るかとは思います。
  碁会所で下手を教えている腕自慢の方、「NO BUT式」で教えている人が大勢います。親切のつもりで、「あれはだめ、これはだめ」と力を入れてダメ出しをされていますが、この人たちに教わっている方々は、
《人質を取ったハイジャック犯》
  なのでしょうか( ̄▽ ̄;)



B;賞罰は正確に評価して
 上と同じく、佐々淳行さんの本から。

  昔ある交番に、定年間近の警官がいたそうです。
  職務質問(ア)の途中、別の事件(イ)が発生。それに気がついた警官は急いで追いかけたそうですが、事件イの犯人には逃げられてしまう。
  これは失態であるとして懲戒処分すべきとの意見が上がったそうですが、

1≫事件イの犯人は逃してしまったが、それでも手がかりを掴んでいた為、早い逮捕が実現できたこと。

2≫職務質問の最中に別事件を見付けた事は、若い警官にとってよいお手本である。

  等の功績もあることから、まず「懲戒処分」をし、その後すぐに「表彰状」と「褒賞金」を贈る事になったそうです。その警官、ご自身の仕事を認められた事に感激し、その後よく働かれたとか。


  モノを教える時には厳しくすべき。このやり方は戦後日本のスポーツ界の主流でしたが、東京五輪では柔道の日本代表が負けるなど、思わぬ苦戦を強いられた競技が多かった事から、コーチング法の大幅な見直しが行われたそうです。

  数年前、週刊碁の座談会にて、
「プロは今まで以上に、囲碁指導や普及の研究をすべきでは」
  と石倉昇先生がおっしゃっていましたが、全くその通りだと思います。それを実現する為には、日本棋院の院生システムに、
『インストラクター養成コース』
  を作るという方法もあるかもしれません。


《三の倍年齢》の教育指針

2013年07月15日 | 囲碁と、日本の未来。
 人の成長と教育について。
  『三の倍数』の年齢は、身体・脳・心の変化に関わっているのかどうか。私が今調べている事です。


三歳≫
 「三つ子の魂百まで」(ことわざ)
  三歳になるまで、「英才教育」をさせてはいけない。※脳科学者・澤口教授の著書より。
六歳≫ 日本の伝統芸能。
  「六歳の六ヶ月の六日目」から修行を始める。

九歳≫
 「九歳の壁」……学校の勉強で、得意苦手が顕著になる年齢。

十二歳≫
  武家社会では、元服の年頃。
  職人の世界では、修行始めの年頃。



ざっくりと見る判断術

2013年07月01日 | 囲碁と、日本の未来。

  ウェザーニュース社が配信する映像サービス、SOLiVE24(ソライブにじゅうよん)。2012年06月01日午前11時の放送で、
「人工衛星で撮影した画像を見て、梅雨前線を探そう」
  という課題が出されました。この時気象予報士からのサービスとして、「ざっくりでいい」とのハンデが出ました。
  実は気象の分析は専門家でも意見が分かれる事が多く、判断も困る。専門家で無い人ならば、ざっくりわかれば十分なんだそうです。

   ※上記で紹介しました映像は、YouTubeにて視聴可能。
    またSOLiVE24の配信サービスはモバイル端末の他、BS910のチャンネルで見る事が出来ます。


  囲碁は難しいと言われる原因に、「打って得する場所」がわかりづらいという事があります。 361路の交点の上に打たれた無機質の白石と黒石で争うゲームなれば、その判断には知識と経験の積み重ねに頼る以外にありません。

 ところが有難い事に、名も知らぬ先人達が様々な知恵と工夫を残して下さった。隅のシマリから両辺にひらいた構えを《鶴翼の陣》。そこから高さ5間と幅5間に囲えば《大箱型》。また一回り小さい高さ5間と幅2間の囲いは《小箱型》。この3つの構えを実戦で応用できれば、布石に関しては級位者のレベルではありません。

  戦いや死活においても同じ。特に戦いの急所には、人間の体の部位の名前が付けられている。
   A;二眼の急所(死活の最終的急所)
   B;ボウシ・カタ・ミミ・アゴ(石1つだけの場合の急所)
   C;ハナ・アタマ・クチ・スソ 等

 丈夫な守りの形には、亀の甲、ポンヌキ、犬の首、猫の首。主にこの四つ。

 他にも、馬の首、キリンの首、百日紅(さるすべり)、梅鉢型、等がある。

 これらは読みを必要とするものではなく、見つけられるかどうかが問題。一手完結の型も多いので、初心者でも憶えやすい形も多い。私個人の経験からは、定石を沢山憶えるよりも、この項で紹介した物を優先して学べば、例えば初心者でもざっくりとした判断が出来る様になり、テレビ放映されるプロの碁もある程度楽しめる様になります。



理論学習の始まり

2013年06月17日 | 囲碁と、日本の未来。
 平成21年は、女子サッカーの日本代表の優勝で盛り上がりました。男子と女子のレベル差は勿論あるでしょうが、世界一になった事実は快挙であり、Jリーグが発足した当時ではまず考えられませんでした。
 また、男子の日本代表選手が欧州の名門クラブで活躍、それもゴールを決めるシーンが特集がされるようになったのも、恐らくは最近の事。日本代表選手が欧州にスカウトされる理由、かつては極東への普及が目的と言われていましたが、今では主力戦力として期待されていると。

  近年の日本サッカーの実力が上がった要因は、サッカーの愛好者の人口が増え底上げが実現した事もありましょう。それに加えてコーチングの改善、特に少年サッカーの指導内容の大幅な見直しが行われた成果であると言われています。
  かつての少年クラブでサッカーのゴールキーパーや野球のキャッチャーを任せられる子供は、走りの遅い子供や太っている子供と言われていました。そういった子は戦力にはならず、できればじっとしていて欲しいと思っている指導者が多かったからだそう。実はそれではその子の成長を阻害する事となり、チーム内にも競争の環境が生まれない。結果、チームの強化には結び付かないという。

  さらには《ゴールデンエイジ》なる理論の提唱があった事でした。要は、発育に合わせた適切な指導を行う必要性を訴えたもの。
 成長期を迎える前までは技術の習得。成長期の時期には呼吸器官の強化。成長期を終えたら筋力トレーニング。この三つが代表的な物。
 これはいずれの分野にも共通する事の様ですが、物事を理論立てて考えられる様になるのは12才を過ぎた辺りから。例えば失敗をした時、12才前後から、「何故、どうして」と自問自答する機会が増えるのだとか。それ以降、指導者がどの様にアドバイスをするかが重要で、それをきっかけに実力アップするかスランプに陥るか。それが人生の分岐点になる事すらあり得るというのです。

守・離・破の思想~柳家小さんの場合~

2013年05月06日 | 囲碁と、日本の未来。
  古今亭今輔の話し。彼は自分の弟子に対し、自身の新作落語を一つずつ教え、寄席で演じさせたそうです。ある時、落ち込んでいる弟子に声をかけると、お前の芸は師匠の猿真似、何の工夫も見られない。そんな批判を受けたというのです。その時、今輔師匠は弟子に向けて学問の真理を説いたのです。
  「学ぶ事とは真似る事。文字を習う人も生け花を習う人も、まずは上手な先生の真似をする事から始まるのです」

  似た話に、柳家小さん師匠が面白い指摘をされています。
  「まずは師匠の芸をそのまま真似して基礎を学ぶ『守』、それが出来たら出稽古で別の師匠の芸を学ぶ『離』、そして最後に自ら創意工夫して全く新しい物を作り上げる『破』。これが修行の心得、『守・離・破』と言うものです」
  日本の伝統は猿真似と批難する声がありますが、徒弟制度の歴史がある国では、上手な人の技を模倣する事してこそ、自分の技を磨き上げる事ができる事を理解されていたのです。

  昨今問題の体罰指導、大抵は優秀と呼ばれている指導者が行っていたそうですが、この問題の一因には、
  「この人に任せておけば間違いない」
  という、一方的な丸投げ放任主義
があったのではないか。そんな中で優秀な選手が言われた事だけをやっていては、それこそ猿真似。もしも視野を少し広く持てていれば、事件を起こした指導者やその被害者、どちらも執拗に追い詰めてしまう事は無かった筈です






未来を創り出した経営者 ~小林一三の場合~

2013年04月22日 | 囲碁と、日本の未来。


  「日本経済を強くするには、青少年の育成こそが必要」
  そんな号令の元に始まったのが、旧制中学の野球大会。現在の夏の全国高校野球。始めたのは、関西の民間鉄道会社社長の小林一三。なぜそんな無駄金を使うのかという批判もあった様ですが、今や日本人皆が楽しみにしているイベントになっています。

  赤字路線を再生させ、郊外の沿線沿いの一戸建てを月賦で住める方法を取り入れる等して、当時のサラリーマンからの支持を集めた。さらには、デパートのプライベートブランド戦略、宝塚歌劇など、彼の視野には驚かされるばかり。

  彼の一貫した哲学は、人材育成でした。人身売買とも言われていた当時の芸事の世界、どの様にして少女歌劇の役者を集めるのか。そこで、良家の少女が演じる健全なお芝居である事。きちんとした給金を支払い、教育を施す事。等々をご家族に約束し、娘さんを預かったと言います。
  その一方で、どれだけ努力をしても、役者としてやっていけるのは100人中数人だけ。可能性もない娘達に芸事を続けさせては、人生を破綻させてしまう。ならば芸事を通じて人間教育を行い、三国一の花嫁として送り出そう。そうすれば誰もが幸せになれる。音羽信子等のトップスターにもそれをよく伝えていたと言います。

  彼が貫いた人間教育の意義は何か。今の日本、いじめや体罰が問題化しています。そんな今こそ、それを考え直す必要がある筈です。


暮らしの中の修練  ~横綱大鵬の場合~

2013年04月08日 | 囲碁と、日本の未来。

  平成23年1月、大鵬親方が逝去。この日まで私は、親方の顔や声色を全く知りませんでした。若くに脳梗塞を患い、以来闘病生活を余儀なくされていた為。メディアにはあまり出演されなかった様です。

  力士になる為、北海道より上京してきた納谷幸喜少年。細身の躰で相撲部屋の猛稽古に耐えられるのかと心配されていたそうでしたが、ご本人が語る、人の三倍も重ねた努力や鍛練が、後の大横綱、大記録という偉業に結び付いた。
  しかし、修行時代の猛稽古だけが全てではありません。相撲部屋に入門したばかりの頃の写真をに写された、細身ながらもしっかりとした筋骨。それは、家族の生活を支える為にしていた土木作業の仕事などで、知らず知らずの間に鍛えられていた……
  西鉄ライオンズの稲生投手もまた、漁師であった父親に付き添い、船の舵を漕いだりしていた。それが足腰を鍛え上げたという。

  横綱大鵬にしろ稲生投手にしろ、実はプロになる前に躰が十分に鍛えられており、それがあってこそプロの世界での厳しい修行に耐え抜き活躍出来たのです。ちなみにブラジルのサッカー選手、子供時代には山2つ先のクラブチームにドリブルしながら通っていた。これは珍しくないエピソード。

  練習に耐えられない選手を、やる気が無いと一方的に叱るのでは意味をなさない。これからの時代に肝心な事は、青少年の生活に再び目を向け、健全な身体を育む事の筈です。



強くなれる楽しさ ~王貞治の場合~

2013年03月18日 | 囲碁と、日本の未来。
  長嶋茂雄や王貞治は、今の野球選手の何倍も練習していた。当時を知る関係者はそう振り返ります。但し王貞治本人は、
  「誰よりも才能ある自分が人一倍努力したからこそ、記録が打ち出せた。結果が出たから、野球が楽しかった」
  と、『100年インタビュー』というNHKの番組内で語っています。
  よい成績は、優れた才能と人並み以上の努力から生まれる。その結果、よい成績が出るから野球が益々楽しくなる。王貞治さえ打撃不振の年はあったが、希望が見えていたからこそ野球はいつも楽しく、練習は苦しく感じ無かった。

  自分自身に才能はあるのか、今やっている練習でよい結果が残せるのか、この2つの疑問が、年齢性別を問わず、全ての競技選手が抱えているジレンマ。それを一切無視し、努力と精神力のみで成果が出せると思い込んでいる指導者が実に多い。例えば歯の噛み合わせが少し悪いだけで体全体のバランスが悪くなり、十分な力が出せない、なんて言う事がある。結果が出ないのは練習不足と誤解してしまうと、益々練習量を増やす。その結果、スランプのサイクルに陥り、体を痛めるだけ痛めて、成績不振のまま競技人生を終わらせてしまう。

  正しい方向を向いていない努力は、いかなる事をしても成果は結ばない。では今やっている練習や勉強は何の目的があり、何の裏付けがあるのか、指導者がまず理解しなければ、努力も無益の徒労に終わってしまうのです。