秀策発!! 囲碁新時代

 「囲碁は日本の文化である」と胸を張って言えるよう、囲碁普及などへの提言をします。

正義が生むひずみ~手割論と方向性~

2013年12月02日 | 囲碁と、日本の未来。
 小判三枚の入った巾着を拾った大工職人。持ち主は困っているだろうと届けるが、落とした左官職人は、「俺の懐から逃げた薄情な小判にはもう用はねぇ」と、お金の受け取りを拒否する。そこからどちらが小判を受け取るかで大袈裟ないざこざに発展してしまう……


 ご存じの方もいらっしゃるでしょう。大岡裁きでも有名な、『三方一両損』のエピソードです。この騒動の解決に、大岡越前は自らの懐から小判を出し、三両に一両を足して四両にし、それを大工と左官の二人に二両ずつ分け与えます。

  今回注目したいのは、この揉め事が引き金になったトラブルについて。三両の受け取りを拒んだ左官は、さすが江戸っ子だと持て囃される。しかし、三両分のツケを払えず借金取りを困らせてしまう。また小判を届けながら突き返された大工は、「情けねぇ野郎だ、見損なった」と、大工仕事を首にされてしまう。
  脚色された話ではありますが、気っ風の良さを誇りとする江戸っ子の特徴がよく描かれています。
  平成の世であれば拾い主に何割か受けとる権利があるそうですが、江戸時代の法律ではどうだったのか。
 ところでこの対立、大工も左官も間違った事はせず、傍目に見ればどちらも正しい事をしました。しかし、お互いがお互いの正しいと信じる倫理観を押し付け合ったが為に、他人を巻き込む要らぬ騒動にまで発展してしまったのです。

  正しい事が実は間違いであった。あえて損をする方策を選択する事で全体的な釣り合い、誰かが不条理な損をする事がない。こんなあべこべな事態を《合理性の誤鏐》という言葉も使われます。たしか平成22年頃、NHKにてマイケル・サンデル教授の講義が放送されました。現代社会で起こりうるであろう倫理的トラブルをどう平和理に対応すべきかを、ハーバード大学の学生と議論するという内容でした。講義で取り上げられる問題は、日本人の感覚からすると突拍子もない、理解しがたい物ですが、それを平成の日本人が受け入れたというのは、大岡政談や一休さんのとんち話を大衆娯楽として楽しんできた土壌がある為かも知れません。

  正しい事が間違い、そんな事は囲碁の実戦でもしょっちゅう現れます。本には厳しい打ち方と書いてあり、囲碁教室の指導者もそれを良い定石と勧めている。ところが、武宮正樹先生の指導碁を受けたら打たない方がいいと…… これは私が間近で見た指導碁の風景。武宮先生が下手の打ち方を訂正した理由は、下手の方がアマ十二級であったから。どんなに正しい打ち方であっても、その人の実力では使いこなすのが難しいと考えれば、最善手では無く次善の策、あるいはさらに一ランク下の策を教えます。ただし最善手では無いとしても、囲碁が上達する為のエッセンスは確かに含まれています。またいくら大事な事とはいえ、下手が困る様な事ばかりを一方的に教えたのでは指導碁ではない。指導碁とは知識の伝授のみにあらず、どうすれば下手が無理なく上達出来るか、あるいは末長く囲碁を楽しめるのか、様々な事が配慮されているのです。

  これは級位者に限りません。手割り論を過信する人、石の方向にこだわる人、戦わなければ強くはなれないと力説する人、色々います。しかし大勢の愛棋家は、有段者にあっても、知識の偏り、誤解、思い込み等、囲碁の基本土台にゆがみがある。基本がゆがみ、囲碁の力学を無視した戦いをしていては、勝ち負け以前に、上達の妨げにもなってしまう恐れすらあるのです。宮沢吾郎九段の指導碁にも出てきましたが、厳しいだろうと打った手、実はそれは急所を外した緩着であった。そんな同じ様な失敗を、県代表クラスが打っているのです。
 正しいか正しくないか。この問答はプロの間でも頻繁に行われています。それか、《手割り論》と《方向性》の問題。部分的な損を出来るだけ打たずに石を最大限に働かせ、できればさっさと相手を投了させたい。これは石取りが好きなアマだけではなく、プロだって思っているはず。しかし同じ実力の持ち主が正しい手合い割りで戦えば、そんな都合のいい結果になるわけがない。そこで、まずは局地的に無駄の無い駆け引きをしたかどうかを、手割り論の視点で確かめます。さらにその戦いが別の地域に悪影響を与えていないか、方向性の確認をします。つまり囲碁のプロの実戦は、《手割り論》と《方向性》の二つの視野からチェックが行われ、その上で互角かどうかが判定されるのです。

 既存の価値観、囲碁であれば手割論や石の方向。プロの先生が言っていたからと鵜呑みにしてはいけません。本当にそれでいいのかどうか、状況に合わせ、自分の眼で確認しなければならないのです。