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永遠の野党リーダー、エチエン・チセケディの死(3)〜正義に生きる

2017-02-08 08:30:37 | アフリカ情勢
1日、コンゴ民主共和国政界の重鎮、エチエン・チセケディが逝去した。あまりに存在の大きい「永遠の野党リーダー」が、コンゴ国民に与えた悲しみは深い。そしてその政治的インパクトも計り知れない。


コンゴの危機を前に、あまりにあっけなく逝ってしまったチセケディ。その生涯を振り返れば、光と陰が交錯し、コンゴ、ザイールの複雑で不幸な歴史が深く染み込んでいる。チセケディの死を悼み、少し彼の生涯を振り返っている。きょうはその最終回。

永遠の野党リーダー、エチエン・チセケディの死
第一話 コンゴ民主共和国、過ぎ行く一つのアフリカ史
第二話 モブツ体制中枢から反逆へ

(RFIウェブサイトより)


1980年、独裁者モブツとの袂を決別したチセケディは、野党リーダーとしての道を歩み始める。1982年、UDPSを創設。出身のカサイ州のみならず、キンシャサにおいても、モブツの専制に疑問を呈する知識人や、学生、民衆に支持され、勢力を拡大する。独裁者モブツにとって初めての大きな抵抗運動だった。その後のチセケディに対する弾圧、逮捕、監禁、リンチなどは数々の著作でも明らかにされている。


1989年、冷戦構造が崩壊。アフリカにも民主化と複数政党制の圧力が押し寄せる。特にモブツにとってショックだったのはルーマニアのチャウシェスク体制の無残な崩壊の姿だった。1990年、モブツは複数政党制の導入を容認するし、1991年、チセケディを迎え入れて首相の地位に据える工作を行う。しかし見せかけの民主化など長続きはしない、わずか1ヶ月で首相を解任する。

その後の1992年、国民議会ではチセケディを首相に選出。初めての与野党共存となるが、これも7ヶ月で解消となる。

モブツは、一方で政治、表現の自由を認めておきながら、他方ではこれを厳しく弾圧し続けた。代表的な事件は1990年に発生したルブンバシ大学事件。約50名の学生がモブツの親衛隊に惨殺されたとされている。遠く離れたルブンバシで、とくにモブツの優遇するリンガラ語を話す学生は容赦し、スワヒリ語の学生を意図的に殺したと言われる。


1996年、ローラン・デジレ・カビラによるキンシャサ入城でモブツ体制が崩壊。ローラン・カビラが政権を握るが、チセケディは力による政権奪取を批判。このため、チセケディは新しい体制下でもカサイ州に追いやられてしまう。


政界に再び姿をあらわすのが2006年。複数政党制導入後、いやコンゴ民主共和国で実質初めての大統領選挙が行われた時である。主要候補は暗殺された父を継ぎ、2001年から「暫定大統領」の地位にあったジョセフ・カビラ。対する野党候補は、四人の副大統領の一人であったジャン・ピエール・ベンバ。モブツと同じ赤道州の出身で、西部地域では人気を誇った。

この選挙に際し、チセケディは「新帝国主義を抱える列強が我が国の政治に水面下で干渉している」と非難、ボイコットを決め込んだ。これに対して西側列強各国はほくそ笑んだ。チセケディは強硬な野党支持者を目覚めさせる影響力を行使できる危険分子だったからだ。選挙結果は辛くもカビラが勝利し、選挙後にはキンシャサで大規模な銃撃戦が繰り広げられる事態となった。


5年後の2011年の大統領選挙。カビラ大統領の政権野党PPRDは、国会で憲法改正を強行、決選投票を廃止した。同じ年、コートジボワールで決選投票の結果を巡り、二人の大統領が当選を主張。再び選挙後内戦に入って行くのを見て、慌てて憲法が改正されたのだ。

この選挙ではUDPSは参選を決意、チセケディ自らが大統領に立候補した。78歳、最後のチャンスだった。選挙戦はヒートアップした。チセケディは選挙キャンペーンで狂気じみた発言を行うなど、支持者の失笑を買う場面もあった。また野党は候補の一本化に至らず票が散逸した。

選挙結果は、カビラ大統領が48, 9%、チセケディは32,3%と及ばず、当選しなかった。しかしこの選挙は「多数の疑義と不正が見られた」(EU選挙監視団報告書)として、信頼に足らない選挙結果と結論づけた。

マニアックな選挙の話~コンゴ民主共和国選挙史
前編
後編

2012年10月、キンシャサで開催された仏語圏諸国機構(OIF)サミットにおいて、フランスのオランド大統領は選挙結果を踏まえ、あえて「日帰り滞在」を選択。カビラ大統領との面談は行わず、バイで会談を持ったのはチセケディの方だった。コンゴ政府は「フランスの内政干渉、新植民地主義」を批判した。


そして迎えた昨年、2016年の大統領選挙のタイミング。憲法が禁止する三選禁止条項にもかかわらず、選挙実施を技術的理由で遅滞させるコンゴ政府。これに対し野党支持者が激しいデモを繰り広げ、カビラ大統領の任期切れを迎えた先月には騒然とした。

そんな中、与野党による国民対話においてもエチエン・チセケディの存在は大きかった。このタイミングでの逝去は、コンゴのパワーポリティクス、そして今後を左右しかねない。


4日、ブリッセルでは葬儀がスタートとなった。キンシャサに遺体が戻ってくるのは早くて10日と見られている。リメテのコミューンは主人の帰りを待っている。コンゴ政府は、「歴史的野党リーダーの逝去を、遺族、国民をあわせて国葬として行う用意」があるとのカビラ大統領談話を発表した。対する野党、UDPSは「政府からは非公式な話があっただけ。葬儀は党が準備すべき。」と述べている。

また一つ、過ぎ行くアフリカ史。しかしチセケディの死は、コンゴの政治史において、まだ過去形にできないコンテクストが続いている

(おわり)

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