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永遠の野党リーダーエチエン・チセケディの死(2)〜モブツ体制中枢から反逆へ

2017-02-07 08:00:13 | アフリカ情勢
1日、コンゴ民主共和国政界の重鎮、エチエン・チセケディが逝去した。あまりに存在の大きい「永遠の野党リーダー」が、コンゴ国民に与えた悲しみは深い。そしてその政治的インパクトも計り知れない。

(ブリュッセルで行われている弔問。フランス国際ラジオ放送(RFI)ウェブサイトより)


コンゴの危機を前に、あまりにあっけなく逝去してしまったチセケディ。その生涯を振り返れば、光と陰が交錯し、コンゴ、ザイールの複雑で不幸な歴史が深く染み込んでいる。チセケディの死を悼み、少し彼の生涯を振り返ってみたい。

永遠の野党リーダー、エチエン・チセケディの死(1)〜コンゴ民主共和国、過ぎ行く一つのアフリカ史

1932年12月14日、ベルギー領コンゴ、カサイ地方ルルアブール(現カナンガ)に生まれる。ルバ族の出身。1960年、コンゴの独立を27歳で迎える。この年の9月に法学博士を取得。コンゴ人で初のドクターとなる。

独立まもなく、彼の故郷であるカサイ州は、アルベール・カロンジによる分離独立の渦中となっていた。彼は、初代首相にしてコンゴの英雄、パトリス・ルムンバへの対決姿勢を剥き出しに示し、モブツのクーデターを喝采で支持。のち国家法律行政学校長となる。この組織は、その当時、パトリス・ルムンバを抹殺する任務を負ったことでも知られる。

1965年、モブツの「第二クーデター」が発生。チセケディは新生モブツ政権の内務大臣、のちに司法大臣を務める。当時、四人の野党関係者を公開絞首刑にすることを公然と支持していたという。

1967年、チセケディは人民革命運動党(Mouvement populaire de la révolution: MPR)創設に関し、綱領の策定などでモブツに協力する。MPRは、モブツ独裁の装置となる、いわば悪名名高き政党だ。このアフリカ型社会主義専制体制を支えてきたのは、自由と資本主義を標榜するアメリカであったというのはあまりに皮肉であり、冷戦のリアルである。

チセケディは1971年、この国がザイールを名乗ったのちも、議員として政権側に身を置く。その後、モブツの独裁体制が強化されて行く中、チセケディは国民議会議員としてのキャリアを重ねていく。

しかし、時とともにモブツとの距離は徐々に隔たれていく。1980年、カルメ国民議長が逝去。法律上の継承権がチセケディにあるにもかかわらず、モブツはアドクペランボ氏を国民議長に指名した。モブツはチセケディを警戒していた。

当然、チセケディは反駁した。この決定的な事件から、同年12月、チセケディはモブツに対し「13人の議員による公開書簡」を送り、決別。野党としてのキャリアを歩み始める。「永遠の野党リーダー」となる端緒はここにあった。

(つづく)

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