goo blog サービス終了のお知らせ 

ぶらぶら★アフリック

アフリカ・プロモーター、ンボテ★飯村がお送りする100%アフリカ仏族ぶらぶらトーク!

祝・ギニア共和国独立60周年記念日〜遠くて長い「真の自由」への道

2018-10-02 08:30:00 | アフリカ情勢
きょう10月2日はギニア共和国の建国記念日である。

しかし今年は例年よりさらにめでたい。なぜなら、ギニアが他のアフリカ諸国から一足先の1958年に独立してから、ちょうど60年の節目にあたる、特別の記念日だからだ。

ギニア人の友人、ギニア関係者諸氏には、最上級のプロトコールをもってお祝いを申し上げたい(←アフリカ的表現)。

ギニアの歴史については、ンボテもこのブログ『ぶら★アフ』で重ねて述べてきた。ギニアの独立は、アフリカの独立と同義、そのくらい重要なこととして捉えられている。その独立にまつわるいきさつから、ンボテも毎年、この日にはこの西アフリカの小さな国の独立が持つ、特別な意味について、想いを馳せる。


50年代後期、独立前夜の仏領アフリカ。フランスは、国防大臣でアフリカ総督のド・ゴール将軍が、仏領西アフリカを新しいアフリカ・フランス共同体に再編することを提唱。

当時、西アフリカの植民地では文明開化政策(civilisation)の推進を経て、本国の国民議会に参政する有力な代議士や、フランス本国との良好な関係を求める有力者がすでに相当数存在していた。そして多くの植民地は、宗主国のフランスとの庇護のもと、友好関係を維持しながら独立する道を選ぼうとしていた。

そんな中、唯一反旗を翻したのがギニアであった。その後、初代大統領となるセク・トゥーレが1958年8月25日に行った演説はあまりに有名である。

(YouTube動画ページへ)


'Il n'y a pas de dignité sans liberté....Nous préférons la pauvreté dans la liberté à la richesse dans l'esclavage'
(自由なきところに尊厳はない。・・・われわれは隷属の中での経済的自由より、貧困の中での真の自由を選ぼうではないか。)

セク・トゥーレはアフリカ全体の希望と喝采をうけた。そして他の西アフリカ諸国に先立って1958年10月2日に独立した。

宗主国を裏切ったとして、フランスはギニア冷遇政策を徹底した。役所の机から、電気線の配線まで、全てを持ち帰ったと言われた。またギニアの体制を揺るがすため、大量のニセフラン札をばらまいたともいわれる。


ギニアは、アフリカの独立と尊厳、パンアフリカニズムの高い理想を掲げて独立した。ギニア共和国憲法の第34条には「アフリカ統一条項」が定められている。曰く、「ギ二ア共和国は、全てのアフリカの国と連合、共同体を構成する権利を有する。またアフリカ統一のために国家主権の一部または全部を放棄することができる。」と。

この精神は大いにガーナの初代大統領、クワメ・エンクルマと通じるところがあり、両国はしばし連合国を形成した。そして彼らはコンゴのパトリス・ルムンバと並んで、アフリカの英雄となった。


しかし歴史の運命は残酷である。セク・トゥーレは冷戦の歴史の中、社会主義に傾倒し、この国を独裁専制した。反体制派や知識人を弾圧し、国富を私利のために独占した。この悪しき体制はクーデターで政権を奪取したランサナ・コンテが引き継いだ。鉄鉱石やボーキサイト、水や森林資源に恵まれた、本来豊かな国。しかし彼の国民は、最貧と圧政の中で困窮の生活を強いられることとなった。


コンテ大統領の専制は2008年まで継続した。同年12月、混乱に乗じた軍人、ダディ・カマラ大尉が政権を奪取、軍事政権が一時成立する。そして2009年、忌々しい「コナクリスタジアム虐殺事件」が発生する。

独立記念日を前にした9月28日、競技場で行われていた市民団体や野党支持者の集会において治安当局が発砲。157人が死亡、1,000人以上が負傷したほか、109人の女性が性的暴力を受けるなど、白昼に蛮行が横行した。この事件はギニア市民を深く悲しみと憎悪に突き落とし、祖国に対する失望と不信を増長するものとなってしまった。

ダディ・カマラはその主犯とみられている。そして同年12月、彼もまた銃弾に伏すこととなった。

この事件以降、ギニアの独立記念日は、コナクリ・スタジアム事件の弔いと事件への抗議、法の執行を求める、騒然とした中で迎えるのが恒例となった。


ギニアが初めてまともな選挙で大統領を選んだのが2010年。危うい選挙オペレーションの中、わずかの差異で勝利したアルファ・コンデ大統領が誕生した。そして2015年、コンデ大統領はエボラ災禍冷めやらぬ中、再選され、今日に至る。


西アフリカの多くの国はフランスの庇護を受けた。その代表的は例は通貨政策であろう。おなじみ、ユーロ固定レートの共通通貨FCFAフラン(フランセーファー)のおかげで、国の実態に反して、多くの国が通貨危機を知らずにやり過ごして来た。対照的なのはギニアで、ホテルに一週間も宿泊したら、支払いにはリュックサックいっぱいのギニアフランが必要である。


アフリカの真の自由と独立に希望を燃やした当初のギニア。しかしその後の歴史はあまりに皮肉であり、リアルである。残念ながらギニアでは、歴史的演説に反し、真の自由も、経済的自由も実現されることはなかった。独立から60年。正義と民主主義への道のりは、まだまだ遠く、長そうだ。

(おわり)


最新の画像もっと見る

コメントを投稿

ブログ作成者から承認されるまでコメントは反映されません。