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カメルーン、英語圏の乱〜ひび割れる多様性の国

2017-10-02 14:30:24 | アフリカ情勢
アフリカのるつぼと評されるカメルーン。多数の部族と多様性がアイデンティティの国が、いま揺れ動いている。

10月1日はカメルーンの歴史上、重要な日である。1961年、前年独立を果たした仏領カメルーンと、帰属をめぐる議論が続いてきた英領カメルーンの一部が連邦制に移行した日だった。首都ヤウンデでは「統合記念碑」のの前で式典が挙行された。そして「連帯と不可分性」が強調された。


他方、南西州、北西州では大きな抗議デモが繰り広げられた。この二州は、2つの言語圏からなるカメルーンの英語圏に相当する。デモの主張は、英語圏二州の「分離独立」だ。

デモの予定を察知した治安当局は集会、デモの禁止措置を発表し、二州には前日から治安維持部隊が展開していた。英語圏の首都とされるバメンダはこの日、緊張の中、人っ子いない「無人の街」と化した。しかし前日夜にはクンボ刑務所が焼き討ちに合うなど、穏やかでない一幕も報じられている。また一部グループは「抗議ではない。アンバゾニ(Ambazonie、彼の名付けた国名) の独立を宣言するのだ。」と述べ、デモを強行しようとした。


なぜこのような事態になってしまったのだろうか。これを知るには、少し歴史を遡る必要がある。

現在のカメルーンの国土の趨勢を決定付けたのは、他の多くのアフリカ諸国と同様、1885年のベルリン植民地再分割会議だ。現在のカメルーン領はドイツ領となった。第一次世界大戦でドイツが敗戦すると、ベルサイユ体制の中で、その領土の東半分が仏領カメルーン、西半分が英領となり、それぞれ信託統治領とされた。

(1920年の植民地分割、veroum.comより)


仏領カメルーンは1960年1月1日にいち早く独立を果たす。その後、英信託統治領のカメルーンは1961年2月に「西カメルーン」として誕生。同10月には西カメルーンとカメルーン共和国が連邦制を形成し、「カメルーン連邦共和国」となる。さらに1972年5月20日に連邦制を廃止、「一つのカメルーン」としてカメルーン共和国が誕生する。カメルーンはこの日を建国記念日に相当する「統一記念日」に定めている。


上述の通り、カメルーンは2つの言語圏からなる国である。バイリンガルの国かというと、ちょっとイメージが違うか。語学圏の違う地域が一国の中にある、という方があっていると思う。スイスやオランダ、ベルギーなんかもそのパターンと言えるだろうか。

しかしその比率は約8対2、英語圏は圧倒的に少数派だ。そしてその地域、北西州と南西州は開発の遅れた、貧しい地域として取り残されている。


英語圏における抗議行動が顕在化したのは、昨年の10月頃からとされる。事の起こりは2016年10月16日。同地域の法曹関係者がスト闘争に突入した。カメルーン司法制度における「英語権」を主張。仏語圏民法体系を放棄し、'Common Law'(慣習法)への再帰を訴えた。

11月21日、こんどは教職員が、激しいデモを繰り広げていく。カメルーンにおけるアングロ・サクソン教育体系に対し、仏語圏体系が押し付けられている、と抗議した。

2017年に入った1月17日、英語圏地域のインターネット・ネットワークが突然カットされる一件があった。これに対し、域外からSNSなどを通じた抗議と主張が続けられた。


これらの問題は、単に語学圏の違いや語学圏ごとの政治、社会の体系の問題だけではない。実際の給与が英語圏では仏語圏のそれを大きく下回っている、という不満が根底にある。開発は遅れ、若年層の失業もより深刻。中央政府は英語圏地域を見捨て、蔑んでいると主張する。

カメルーンの実権は、まもなく政権について35年を迎えようとするポール・ビヤ大統領が握る。彼は安定的な権力基盤を確保するため、カメルーンを南部、西部、北部の三に地域わけ、大統領、首相、国民議会議長の地位をそれぞれに配分するトロイカ体制を組むなど、地域の均衡を意識してきた。


英語圏の乱。ここへきて主張がさらに強まりを見せ、分離独立を訴えるグループが顕在化。独立がまことしやかに語られる事態になりつつある。カメルーンの国家のあり方を揺るがす事態になりつつある。

(おわり)

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