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ギニア・コナクリスタジアム事件から8年目〜民主化へと遠い道のり

2017-09-29 14:00:18 | アフリカ情勢
59回目の独立記念日を10月1日に控えたギニア。この記念日を前に、首都コナクリは毎年のように揺れ動く。それは8年前の忌々しい事件によるものだ。
(コナクリ市内の様子)


2009年9月28日、「コナクリスタジアム虐殺事件」。競技場で行われていた市民団体や野党支持者による集会に対し、治安当局が発砲。157人が死亡、1,000人以上が負傷したほか、109人の女性が性的暴力を受けるなど、白昼に蛮行が横行した。


当時のギニアは混乱のさなかにあった。2008年12月23日、長期政権を引いたランサナ・コンテ大統領が逝去。同時に民主主義と開発とのための国民評議会(CNDD: Conseil National pour la Démocratie et de développement )を名乗るグループが国営放送や要衝を制圧。日付が変わった24日、名も知られぬ将校、ダディ・カマラ大尉が内閣解散、憲法停止とともに大統領就任を宣言した。


ギニアは独立以来、薄幸の歴史を辿ってきた。セク・トゥーレ、ランサナ・コンテの専制・独裁ののち、ダディ・カマラによるクーデターにより軍政が続くこととなった。そしてこの虐殺を迎えることとなった。

事件は国際社会に大きな衝撃を与えた。市民や国際社会、人権団体はギニアを糾弾し、制裁の圧力を加えた。ダディ・カマラ評議委員長に、民政移管による早期退場を迫った。そんな最中の12月3日、今度はカマラ氏自身が銃弾に伏し、国外に移送されることになった。そしてギニア初めての民主的な選挙に向けて情勢は推移した。


コナクリスタジアム虐殺事件の遺族や被害者は、真相解明を求めた。そしてこの黒歴史は、ギニア民主化のためにも不処罰(impunité)に葬り去ってはいけない・・・。しかしギニア当局による捜査は遅々として進まなかった。

2017年3月12日、セネガル政府は、ギニア政府による指名手配を受けていたある人物の身柄を引き渡した。その人物とは、「トゥンバ・ジャキテ」との異名を持つ男。虐殺を指揮したとされるアブバカル・シディキ・ジャキテ少佐である。

もともと軍医の出身で、ダディ・カマラ大尉によるクーデターの後はカマラの親衛隊「レッドベレー」の指揮官となった。コナクリ事件では現場における主犯格とされ、のちダディ・カマラ氏を銃撃(上述)。その後、逃亡していたのだ。

野党支持者や人権団体は、ディアキテ氏公判の早期開催とともに、ダディ・カマラ氏の召喚を合わせて要求している。カマラ氏は銃弾に伏したのち、モロッコに緊急搬送。しばらくしてマリに保護されていたが、さらにその後ブルキナファソに居を移したとされる。2015年にはブルキナファソで、在留ギニア人弁護士から告訴され、虐殺への関与を問われていた。同氏は、逃亡中のメディアからのインタビューの中で「虐殺はダディ・カマラ氏の命令に基づくもの」と答えている。


かくしてコナクリ事件以降、この日はギニアにとって特別な意味を持つものとなった。あれから8年、正義と民主主義への道のりは、遠く、長い。

(おわり)

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