志情(しなさき)の海へ

かなたとこなた、どこにいても世界とつながる21世紀!世界は劇場、この島も心も劇場!貴方も私も劇場の主人公!

ホームレスの少女から売春、脱出、大学院で文学や創作を学び作家になった女性の文章は瑞々しい!

2016-11-24 05:55:29 | ジュリ(遊女)の諸相:科研課題

 11月23日朝8時ごろ、以下の文章を書いている時、突然研究棟の電気が切れた。インターネットも切れた。それゆえに以下の文章をそのままにしていた。その後彼女Rachel Maran のナンフィクションをノートパソコンのバッテリーが切れる間第4章まで読んでいた。ダブリンの街の北に住んでいた彼女は5人兄弟の長女、父はうつ病で母は精神的な疾患を持っていた女性、32歳の父と24歳の母の結婚で生まれた女性。生存した時から崩壊していた家族だと彼女は書いている。健全な家族の崩壊ではなく、当初から崩壊していたその欠如(間隙)から書いている。生活保護を受けながら貧困家庭で、使い古しの靴や服を着て過ごさなければならならかった環境で、常にはじかれていた幼少期が語られる。文章はひきつける。続きを読みたい。

今24日5時41分。昨日午後2時ごろ電気がついてから那覇に戻ってきた。寒気に襲われてずっと暖かい毛布に包まれて寝ていた。その前に二枚の寝袋を脱臭洗剤で洗濯、乾燥機には入れておいた。家で読もうと思った映画論の博士論文や赤ペンの入った論文などを持ってきたが、結局何もできなかった。空っぽの中で次は何をすべきか、などと考えながら、寝ては起きて、朝3時ごろ起きた。パソコンを開いたのは午前5時ごろだから昨日からの空白時間は長い。最近ここ二年半新聞をほとんど読んでないので、沖縄社会の状況を知るのもネットに頼ったままだったが、新聞には目を通さなければだね。誰それの紙面での討論などが聞こえてきたが、あまり興味を引かなかった。さて、暖かい風呂に入ったらラッシュアワーを避けて大学に戻ろう。

大正時代に吉原遊廓で2年間性的奴隷のような環境に閉じ込められていた森光子さんがそこを脱出、吉原の体験を記録し残したナンフイクション『春駒日記』『吉原花魁日記』は衝撃を与えたが、このPAID FORのダブリン在住の彼女の著書はKindleで読み始めたが文章が非常に瑞々しい。小説を読んでいるように惹きこまれていく。同じようにKindleでビル・クリントンの愛人であった女性の手記を読み始めて途中で終わったままのものと比べると、その表現レトリックの差異は大きい。しばらく英文のナン・フィクションを丁寧に読みたい。彼女の本が売れる理由がわかる。どん底からの脱出という衝撃ドラマゆえだけではないことばの表現と貫く考えの魅力だね。

読み進めながら、その表現の魅力を紹介したいのだが、冒頭からわたしの頭の中では辻遊廓に売られた少女たちの人生と重ねて見えてきたのは、新たな発見だった。つまりジュリであることとジュクの一般社会との境界を無意識意識的に主体化されていく少女達の世界と、彼女Rachel Maranが15歳からダブリンの街で売春を始めていった心理状態と、内へ追い詰められる心理が重なると思えた。ただ1980年代から90年代にかけて少女時代をすごした彼女の世界にはドラッグ、コカインなどが登場する。精神や痛みをなえさせるために、身体と精神を遊離させる目的で使用される麻薬の存在がある。酒などもその一つだと言えるけれど、酩酊させるある種の外から得られる物の効果が、増長させたもの、は何?英語の表現に今は魅了されたまま、読み続けたい。このPaid FORはお奨めしたい。

彼女Rachel Maranは性売買の合法化を否定している立場で書いている。一方でアムネスティ・インターナショナルは多くの性売買の現場にいる女性たちを保護したい立場からSEXWORKを労働として其の働く条件の改善を目指していると言えようか。性行為の提供=サービス業と捉える視点とは対立するのは当然だと言えよう。ダブリンの街で同じユニフォームを着た銀行員の女性達と出くわした時の彼女の心理は、嫉妬と憎しみで埋まり、社会で正当な場所を与えられ快活に歩いている女性たちから身をそらしたのである。娼婦=売春婦であることが社会の末端、淵をうろつく存在である事実を原体験でことばは伝えてくる。

自殺した父親、生活保護、別居していた家族、父の死後の所有物の片付けなど、社会の隅で生きていた家族の生活が目に飛び込んでくる。続きは後でー。


最新の画像もっと見る

コメントを投稿

ブログ作成者から承認されるまでコメントは反映されません。