2001年の9・11の翌年、HPを開設した。世界がぞっと身近に迫ってきた。大学の授業形態を変えたのも9・11以来だ。わたしの世界への向き方も変わった。国際学会に行き始めた。思いがけない出会いもあり視線が外に向いてきた。
内外の交差するところにいる私達、沖縄を世界とのリンクにおいて、どう発信できるか、考えてきたこの10年かな?日本の中の沖縄、沖縄の中の日本、アジアの中の日本、沖縄、そして世界の中の沖縄、日本がある。世界のウチナーンチュは世界に沖縄の感性を倫理観を張り巡らしている。
エスニックな沖縄の美はリズムであり、その独特なことばであり、無意識に意識的に創造されてきた見えない見えるもの、共感しあえる、痛みを分かち合える美であると信じたい。あらゆる場における思考の違いは大いに論じ合うべきで、それが思考の闘いなら悪くはない。思念のバトルはいい。しかし大量殺人=戦争は否定すべきである。
うまれながらにして死を包摂する私たちは、大量殺人を犯す必要はまったくない。限りある生を豊かにする志向(努力)だけでいいね。あらゆる場所で力の優位な者たちによる力のない者たちへの差別・収奪は許されない。恵まれたシステムの者たちはシステムの陥穽に手を差し伸べるべきだ。システムのおごりの 醜さ、身近でも気が付かない、おごりのおぞましさが知識人と言われる方々からこぼれてもくる。(大学のフリンジfringeにいるので見えてくる境界)
組織の美と醜もある。個の峻厳な美しさや勇気に常に拍手を送りたい。私有欲が組織に及ぶ醜さも身近にまたある。「あらおかしい」が、ご本人が気が付かないのらしい。徒党性は学問の領域にもあり、自らの派閥を拡張せんとする、「あらおかし」が見られる。それも人間の属性なのだろう。
そそっと立っている男女の精神の美を感じる時、ほっとする。80歳で何かを創造する男女の姿に共感する。すごいと思う。生きているこの空間をキャンパスにし、楽譜にし、パソコンのキーボードに変える人々がいる。わたしも彼らの一人になりたい。
わたしはイオネスコの「授業」が好きだが、知識(人)・宗教(人)・政治≪経済・軍事≫の三つ巴の腐臭を描いている。短い戯曲で言葉のもつ力から宗教、平穏に見える教育現場の暴力を描くが、それらはナチスのおぞましい権力構造と一般大衆の無視(みないふり)の恐ろしさをまた描いている。文化はどの辺に位置するのだろうか。現にある生きている総体=文化表象と言える。
権威や肩書などのラベルに固執する多くの男性たちのこの世の桎梏が哀れにも見えるが、そこから取っ払われた空間に生きる者たちの精神の瑞々しさにひかれる。若いネット上のブロガーや詩人たちの声に魅了されたりする。持てる者たちのおごりの精神から未来は実は何も生まれないのだね。
Stay Hungry, Stay Foolishとスティーブは言ったが、 Stay Thinking and thinking, and pursue some truth in every place. If you think something wrong wherever you are, you should speak out!
わたしは去年3月、ニューヨークのゼロポイントに立った。多くの観光客が押し寄せていた。犠牲者のモニュメントは巨大な池である。水が流れ続ける。水は命の糧、命の母!しかし9・11の真実は追求され続けている。見えてきたからくりは恐ろしい。
3・11の現場に立てない。まだ続いている惨事の最中にある日本ー。わたしは行けないままー。
3・11の真実も秘められた物語があふれてくるようだ。
こなたとかなた、かなたとこなたは一続きの道、空間でありつづける。