
(1982年「沖映本館」で演じられた【多幸山】と旅人の真喜志康忠)
幸喜演出のリアリズムの欠陥は、山という兄のフェーレーを吃音にした事、またフェーレーというキャラを醜い扮装・キャラにしたことである。本来喰えない百姓が仕方なく追いはぎをしているという物語である。サナジで顔を拭くという醜い滑稽な所作などもいらなかった。普通の百姓の雰囲気でフェーレーで良かった。つまり彼らは悪人であり小人である。極端な扮装ゆえにわかりやすさがあったが、それは悪と善を兼ね持つ人間の奥深さをある面で薄めてしまったと考えている。それからその他の百姓の扮装は芭蕉布の色でもいいと思った。動きがもっと軽やかであれが良かった。と批判する点は無きにしも非ずだが、宇座さんはよく演じていた。嘉数さんは二役をうまく演じ分けたが、彼のウチナーグチはいいと上間初枝さんは太鼓判をおしていた。若者たちが芝居を通して流暢なウチナーグチを模範となって舞台で語る、その意義はまた大きいに違いない。
舞台が広い点で演技のリズミカルな面が後半少し削がれているという点も感じられた。間延びは刀の真実が明らかになった時点でフェーレーだった男の息子は逃げるように立ち去るという展開でも良かった。村人にしても全くフェーレー家業について無知であったとも思えない。その辺の村人の欺瞞もあっただろうが、それらも含めてすべてが隠されていたのだろうか、それは少し怪しい。人間の宿業の醜さ、純真さ、美しさ、嘘、悲しさがある。虚構と真実の落差もある。それらがこの舞台では交差していた。それゆにこそまたこのタネ本は長谷川伸の短編ながら、小説以上に面白い脚本(舞台)になった。おそらく旅人の生真面目さがあったからこその物語である。フェーレーとの遭遇と殺害と贖罪の旅、それらが罪とは何かをまた浮かび上がらせる。生存・存在の罪のありかまでまた訴えるものがある。罪を背負うという事、嘘を背負うという事、それぞれの偽善と隠蔽、人はどれだけ己に誠実に生きていけるのだろうか?
山が小心者であったという事が、殺されることになった度胸のいい弟松ゃーと異なる所でもあったと言えよう。吃音ゆえに、という理由づけは分かりいいが、旅人と松ゃーとの出会いの場面で「一夜泊めてくれ」と頼む旅人に「山がいい迷惑だ」と独り言のように言う台詞がある。松ゃーも家族を守る意思を持っている百姓のフェーレーである。吃音の身体性が最後まで山に絡まる。吃音ゆえに差別化の動機付け、兄弟の差異を見せたが、しかし山は村人から大主として慕われてきたということが舞台の最後で明らかになる。吃音は差異として意味を成さなかったのではなかろうか?
沖縄タイムスの芸能担当記者玉城氏が「多幸山」が幸が少ない痛みの山になったというアイロニーを指摘していて面白いと思った。演出に演技指導がつく。今回は平良進さんである。新劇を演出してきた幸喜さんが沖縄芝居を演出する時の【不足の部分】を実際に補うのが沖縄芝居役者のキャリアである。沖縄芝居実験劇場でも真喜志康忠さんは不満を漏らしていた。しかし彼は幸喜&大城の新しい芝居の実験的試みに積極的に協力していった。それはいわば座長芝居を続けてきた康忠さんたちの芝居の世界と新劇の世界の結婚だった。そしてある面でそれは成功し、現在の新作組踊の舞台に生かされていると言っていいのだろう。幸喜さんが築いた舞台の詩学(美)がある。それはアメリカの横柄な沖縄占領政策と闘ってきた幸喜さんの闘い(思想)の反映でもある。
若い伝統芸能や沖縄芝居や組踊を担って、さらに新しい時代の感性の表出に「まい進する者たち」は、また幸喜&大城&真喜志らの世界・情念を引き継ぎながらも次のステップを踏みださないといけない。後退ではなく一歩前に先取りする感性のありかを見たいものだ。批判的に継承していく姿勢が問われている。
今回、音楽は花城英樹と平良大、太鼓は高宮城実人が担当した。殺しの場面のカチャーシなど、良かった。台本に記載されていない民謡や古典は要所でいい味わいを出していた。花城さんには選曲の御苦労についてお聞きしたいと思う。また太鼓がクライマックスや場面の展開で適切な効果音を奏でていたこと、それが芝居の妙味なのだ。若い地方の活躍は目を見張らせる。
幸喜演出のリアリズムの欠陥は、山という兄のフェーレーを吃音にした事、またフェーレーというキャラを醜い扮装・キャラにしたことである。本来喰えない百姓が仕方なく追いはぎをしているという物語である。サナジで顔を拭くという醜い滑稽な所作などもいらなかった。普通の百姓の雰囲気でフェーレーで良かった。つまり彼らは悪人であり小人である。極端な扮装ゆえにわかりやすさがあったが、それは悪と善を兼ね持つ人間の奥深さをある面で薄めてしまったと考えている。それからその他の百姓の扮装は芭蕉布の色でもいいと思った。動きがもっと軽やかであれが良かった。と批判する点は無きにしも非ずだが、宇座さんはよく演じていた。嘉数さんは二役をうまく演じ分けたが、彼のウチナーグチはいいと上間初枝さんは太鼓判をおしていた。若者たちが芝居を通して流暢なウチナーグチを模範となって舞台で語る、その意義はまた大きいに違いない。
舞台が広い点で演技のリズミカルな面が後半少し削がれているという点も感じられた。間延びは刀の真実が明らかになった時点でフェーレーだった男の息子は逃げるように立ち去るという展開でも良かった。村人にしても全くフェーレー家業について無知であったとも思えない。その辺の村人の欺瞞もあっただろうが、それらも含めてすべてが隠されていたのだろうか、それは少し怪しい。人間の宿業の醜さ、純真さ、美しさ、嘘、悲しさがある。虚構と真実の落差もある。それらがこの舞台では交差していた。それゆにこそまたこのタネ本は長谷川伸の短編ながら、小説以上に面白い脚本(舞台)になった。おそらく旅人の生真面目さがあったからこその物語である。フェーレーとの遭遇と殺害と贖罪の旅、それらが罪とは何かをまた浮かび上がらせる。生存・存在の罪のありかまでまた訴えるものがある。罪を背負うという事、嘘を背負うという事、それぞれの偽善と隠蔽、人はどれだけ己に誠実に生きていけるのだろうか?
山が小心者であったという事が、殺されることになった度胸のいい弟松ゃーと異なる所でもあったと言えよう。吃音ゆえに、という理由づけは分かりいいが、旅人と松ゃーとの出会いの場面で「一夜泊めてくれ」と頼む旅人に「山がいい迷惑だ」と独り言のように言う台詞がある。松ゃーも家族を守る意思を持っている百姓のフェーレーである。吃音の身体性が最後まで山に絡まる。吃音ゆえに差別化の動機付け、兄弟の差異を見せたが、しかし山は村人から大主として慕われてきたということが舞台の最後で明らかになる。吃音は差異として意味を成さなかったのではなかろうか?
沖縄タイムスの芸能担当記者玉城氏が「多幸山」が幸が少ない痛みの山になったというアイロニーを指摘していて面白いと思った。演出に演技指導がつく。今回は平良進さんである。新劇を演出してきた幸喜さんが沖縄芝居を演出する時の【不足の部分】を実際に補うのが沖縄芝居役者のキャリアである。沖縄芝居実験劇場でも真喜志康忠さんは不満を漏らしていた。しかし彼は幸喜&大城の新しい芝居の実験的試みに積極的に協力していった。それはいわば座長芝居を続けてきた康忠さんたちの芝居の世界と新劇の世界の結婚だった。そしてある面でそれは成功し、現在の新作組踊の舞台に生かされていると言っていいのだろう。幸喜さんが築いた舞台の詩学(美)がある。それはアメリカの横柄な沖縄占領政策と闘ってきた幸喜さんの闘い(思想)の反映でもある。
若い伝統芸能や沖縄芝居や組踊を担って、さらに新しい時代の感性の表出に「まい進する者たち」は、また幸喜&大城&真喜志らの世界・情念を引き継ぎながらも次のステップを踏みださないといけない。後退ではなく一歩前に先取りする感性のありかを見たいものだ。批判的に継承していく姿勢が問われている。
今回、音楽は花城英樹と平良大、太鼓は高宮城実人が担当した。殺しの場面のカチャーシなど、良かった。台本に記載されていない民謡や古典は要所でいい味わいを出していた。花城さんには選曲の御苦労についてお聞きしたいと思う。また太鼓がクライマックスや場面の展開で適切な効果音を奏でていたこと、それが芝居の妙味なのだ。若い地方の活躍は目を見張らせる。