
(おかぁーさーん、おかぁーさーんと叫ぶ 鶏か)
呟き①
尖閣諸島は生活圏の主張:共生共有化へ:領土権を止揚し生活の立場での互恵関係の平和的樹立へーー戦争を否定する思考が沖縄からようやく発信:内外の知性とのネットワーキングが必要
呟き②
映画カラカラは池澤夏樹のエッセイを読むとトラベルライティングのような映画だということになるのかな?沖縄の自然を媒介にしてカナダ人と日本人が蛇の孵化のように命を生きるエネルギーを取り戻して行くという物語で沖縄の自然のカットに「ああ沖縄はこんなに美しい所なのだ」と、旅人の感性に身を心を添わせる気楽さがあるのだろうか?
呟き③
玉三郎人気はその文化的仕掛けを作った者たちの思惑通りに進んでいるのらしい。5000円の券に徹夜組まで出るということにある面「なるほど、券を早く買わなければ見れない」と思う反面以前真喜志康忠氏が玉三郎と共演した時代との落差に驚く。同じ作品に出たのではなく「道成寺」と「執心鐘入」の競演だったのだろう。玉三郎への丁重な扱いに対して沖縄役者への扱いは格が下だったとお話されていた。今組踊の伝承者と玉三郎が同じ作品で共演することの意味は大きいに違いないと同時に玉三郎さんが「京劇」を含め「新作組踊」に挑まれる姿に氏の芸に対する柔軟性、アジア的なものへの深い思いを感じる。単に歌舞伎の名女形(国宝)というこの間の芸道の実績や社会的人気に止まらないものを氏は秘めておられるということになるね。
従来の新作組踊をさらに止揚させる仕組みを作るのはまた知的戦略家たちということである。戦前太田朝敷や伊波普猷や東恩納寛淳たちが仕組んだ知的構図の現代バージョンということと見た。東京の国立劇場、国立劇場おきなわの知的仕掛けである。大笹吉雄先生のパイプ役も大きな力だったのらしい。それに応えて「聞得大君誕生」を創作した大城立裕氏、全体を監修する幸喜良秀氏の力も大きい。大城・幸喜体制の総仕上げになるのだろう。それが134年目にして沖縄人が初めて日本国家から文化功労賞を授与されるレールが敷かれているのかもしれない。だからどうなの?ではない。日本の文化の最たる象徴は「お能」「歌舞伎」「文楽」「狂言」だと考える者として沖縄の文化のエキスが「組踊」に象徴されていることは否定できない。その現代の新しい弁証法的総合演劇美=詩劇としての新作組踊である。それを玉三郎と若い沖縄の組踊伝承者(舞踊家)が演じるのである。
目標としての玉三郎が登場した新作組踊である。そこから世界への一歩が始まる。アジアでもいい。彼らはオン・ケンセンがシェイクスピアでやった舞台の新たな展開を見せてくれるはずだ。それはあくまで古典組踊に根差した、弁証法的現在の沖縄の総合的芸の美としての新作組踊である。沖縄の芸道を志す役者は琉球舞踊、琉球歌劇・琉球史劇をその身体で表現できる者たちである。狭量に組踊の身体・芝居の身体と分離する必要はない。歴史が分離を拒絶している。組踊役者は歌劇も史劇も詩劇も現代劇も演じられる柔軟さ(チャンプルーの身体)をもっているのが沖縄の身体芸術家たちである。その点狩俣恵一先生のお考えには反対である。ただ固定した三間四方の組踊劇場を持つことは同意できる。(板谷徹氏は組踊は座敷芸が主だとのご持論でしたがー。つまり王府時代の冊封使の前での上演・25作品はあまりにも回数が少なすぎで、圧倒的に座敷芸として親しまれた、とのお考えのようですが、なるほどにも思えます。ただ近代以降の舞台芸術は念頭に置かれていません。あくまでも近世琉球の芸能・冠船芸能についてです!)
4月には沖縄初の薪能が国立劇場の野外で企画されている。ますます日本の伝統芸と沖縄のコラボレーションは深まっていくのだろう。楽しみだ。狂言「昆布売」も。そこから先はアジア的な身体!アジア的な感性とは何か?東西の身体性・感性・思惟の在り様がまた問われていくのだろう?世界のアジア演劇の研究報告をお聞きしているとアジア的身体性・感性・思想・美意識が浮上してくると認識させられた。歌舞である。民族のリズムであり死生観・生死観が微妙な差異を見せる。差異を超えた共有性もある。
アジアの時代、面白くなりそうだね。外交的な面での葛藤を超えさせるものが芸術(身体芸術)の中にある。映像も人間が演じてカメラが編集するので身体性が問われる。
呟き④
そう云えば鷹の一種ミサゴを三羽見た。犬との散歩で見たのだがそのみさご=オスプレイと云うのだと親戚筋の中学校校長が言った。オスプレイのように鷹は上下(垂直)飛行し羽を広げ飛ぶとのことだった。なるほど鷹はオスプレイなのだ!みさごは好きだがオスプレイは飛んでほしくない。みさごに、白鷺に会いたくて今日も散歩して那覇に戻る。
(以上ヤンバルで打ち込む呟きでした!聞得大君の券は早く手にいれなければ?でも3日間の上演である!北京も気になる。どうしょう?)