
ともに琉球王府時代、近世を対象化した博士論文の公開審査の発表に参加した。新しい独創的な歴史観、近世琉球の解釈である。興味深かった。従来の解釈従属的二重朝貢国(豊見山和行)や琉球は日中の狭間(渡辺美季)に対し、総合補完の視点(幕藩体制、中華帝国双方との関係において琉球国が下位に位置・絶対的な権威性は日中にあり、ただし琉日関係、琉中関係とも二項対立として捉えるべきではない。二項対立に収まらないつながりが見い出せる。共謀、強調、協力、依存、互恵、挙動歩調ーー相互補完(進貢貿易薩摩=薩摩・琉球の共同経営)としての捉え直しなどの問題の発言はなるほど聴かせた。
さらに自己演出である。Perfromanceとしての外交が自らの立場性(辺境性・従属性)を発信していた。それは外交戦略のひとつだった、と捉える。面白いと思った。属国=琉球国という自己演出は琉球の外交戦略のひとつで、隠蔽政策や【中国化志向】も演出の一つだったのではとの解釈である。つまり従来の解釈とは異なり小国琉球の立ち位置から見た時の外交政策はそれなりに機知に富み内部のシステムの強化を図りながら国の骨格を確立しながらうまく立ち振る舞ったという結論である。
しかしその近世が近代の帳の中で近代日本の枠組みにすっぽり吸収されていった。なぜ?は問わない。あくまで近世琉球の強固な内政と外交の在り様が主眼である。面白い解釈だと感じたのは確かだ。つまり主人と奴隷の関係において未来は奴隷のものだが、奴隷は常に単に奴隷で搾取だけされるのではなく、主人との関係に相互補完的な関係性を築き自らのアイデンティティーをまた強固にすることも可能だった。国家としての自立性が形をなしていく過程でもあった近世は興味深い。しかし主人と奴隷の関係において主人がまた入れ替わることは可能だった。近代がまさにその様相を示していた。
現在の沖縄の伝統文化のコアになるものが琉球の近世に確立したものが多いという事も含め、なぜそのようなシステムを創りえたか、当時の琉球王府の三司官らの知恵の奥深さは感じる。なるほどである。
麻生伸一さんの【近世琉球外交史の研究】につづいて山田浩世さんは【近世琉球における外交・内政制度史の研究】である。副題としてーー進貢使節編成と王府官人制度の内的連関を中心にーーである。古琉球の時代からの進貢使節の変化と近世への移行の背景、また17・18世紀の士族層を中心とする王府官人制度との関連などがユニークに思えた。構造的な論文だとの評価だった。枠組みを押さえて近世を内と外から捉えている。
「18世紀初頭から近世的王府官人制度は石高にのみ立脚せず、日中との通行関係を基盤とする複合的な報酬制度によって運営され、王府の必要とする施策への対価に渡唐役への就任が結びつき、そこに地頭所の賜与・相続も連動することで、外交と貿易の実務がになわれ国内行政の推進も図られた。外交と内政が一体となった制度が構築されていった。琉球における近世的な社会・国家への転換の特質を見いだすことができた」と結ぶ。
近世琉球外交史の研究がこの領域に至ったという事なのだろうが、必然的に大国を相手に小国琉球が自らを生き延びるために英知を振り絞った政策の在り処を資料に基づいて提起した論文なのだろう。小国として多様な顔を見せた琉球の近世が士族層を中心に抽出される。日本や中国の近世と比べたらどうだったのか、とT先生は聞いた。近代は外から持ち込まれた。しかし近世もまた薩摩によってもたらされた。
麻生さんと山田さんの博士論文から琉球の新たな近世の姿が浮かび上がったようだ。近世こそ、また琉球が国家としての形態、現代にいたる伝統をはぐくんだ磁場でもあったのである。何かと興味深いし、実際の論文を読みたい。お二人とも外交史であり内の政策と外交との関係を見据えている。これが現代に敷衍できるだろうか?大国との対峙は変わらない。すでに日本国の一部として包摂された沖縄だが、米軍基地を抱え世界の巨大帝国アメリカと向き合わざるをえないし、かつかつての宗主国中国の台頭も視野に入れないといけない。はるかにシンドイ現実、世界と丸ごと対峙せざるを得ない現在は、またスケールははるかに異なるのかもしれないが、琉球・沖縄のアイデンティティーの中軸がこのような緻密な研究に支えられているのだと、感銘を受けた。それでもまだ見えない問題提起がなされたことも研究の奥深さを認識させてくれた。謝!
閉会の辞として我部政明先生が【遠きにありて近きは男女の仲、近くにありて遠きは学問の道】などと締めくくった。
しかし、皮肉にも【近きにありて遠きは男女の仲であり、遠きにありて近きは学問の道】でもありえる。つまり学問の対象は何でもありである。それを一貫性の中で論理化できるかが問われる。遠きに感じた学問が身近に感じられるのもその通りなんだろう!
思うに論文指導者の視点や思想性も反映されている!一番肝心なところは取り組む当事者のパッションなのだ!
<写真は鹿児島市内の石田中学校裏門に立つ琉球館跡の碑と掲示板:1月30日は粉雪が舞う日曜日、校内に入れず外から撮った>
さらに自己演出である。Perfromanceとしての外交が自らの立場性(辺境性・従属性)を発信していた。それは外交戦略のひとつだった、と捉える。面白いと思った。属国=琉球国という自己演出は琉球の外交戦略のひとつで、隠蔽政策や【中国化志向】も演出の一つだったのではとの解釈である。つまり従来の解釈とは異なり小国琉球の立ち位置から見た時の外交政策はそれなりに機知に富み内部のシステムの強化を図りながら国の骨格を確立しながらうまく立ち振る舞ったという結論である。
しかしその近世が近代の帳の中で近代日本の枠組みにすっぽり吸収されていった。なぜ?は問わない。あくまで近世琉球の強固な内政と外交の在り様が主眼である。面白い解釈だと感じたのは確かだ。つまり主人と奴隷の関係において未来は奴隷のものだが、奴隷は常に単に奴隷で搾取だけされるのではなく、主人との関係に相互補完的な関係性を築き自らのアイデンティティーをまた強固にすることも可能だった。国家としての自立性が形をなしていく過程でもあった近世は興味深い。しかし主人と奴隷の関係において主人がまた入れ替わることは可能だった。近代がまさにその様相を示していた。
現在の沖縄の伝統文化のコアになるものが琉球の近世に確立したものが多いという事も含め、なぜそのようなシステムを創りえたか、当時の琉球王府の三司官らの知恵の奥深さは感じる。なるほどである。
麻生伸一さんの【近世琉球外交史の研究】につづいて山田浩世さんは【近世琉球における外交・内政制度史の研究】である。副題としてーー進貢使節編成と王府官人制度の内的連関を中心にーーである。古琉球の時代からの進貢使節の変化と近世への移行の背景、また17・18世紀の士族層を中心とする王府官人制度との関連などがユニークに思えた。構造的な論文だとの評価だった。枠組みを押さえて近世を内と外から捉えている。
「18世紀初頭から近世的王府官人制度は石高にのみ立脚せず、日中との通行関係を基盤とする複合的な報酬制度によって運営され、王府の必要とする施策への対価に渡唐役への就任が結びつき、そこに地頭所の賜与・相続も連動することで、外交と貿易の実務がになわれ国内行政の推進も図られた。外交と内政が一体となった制度が構築されていった。琉球における近世的な社会・国家への転換の特質を見いだすことができた」と結ぶ。
近世琉球外交史の研究がこの領域に至ったという事なのだろうが、必然的に大国を相手に小国琉球が自らを生き延びるために英知を振り絞った政策の在り処を資料に基づいて提起した論文なのだろう。小国として多様な顔を見せた琉球の近世が士族層を中心に抽出される。日本や中国の近世と比べたらどうだったのか、とT先生は聞いた。近代は外から持ち込まれた。しかし近世もまた薩摩によってもたらされた。
麻生さんと山田さんの博士論文から琉球の新たな近世の姿が浮かび上がったようだ。近世こそ、また琉球が国家としての形態、現代にいたる伝統をはぐくんだ磁場でもあったのである。何かと興味深いし、実際の論文を読みたい。お二人とも外交史であり内の政策と外交との関係を見据えている。これが現代に敷衍できるだろうか?大国との対峙は変わらない。すでに日本国の一部として包摂された沖縄だが、米軍基地を抱え世界の巨大帝国アメリカと向き合わざるをえないし、かつかつての宗主国中国の台頭も視野に入れないといけない。はるかにシンドイ現実、世界と丸ごと対峙せざるを得ない現在は、またスケールははるかに異なるのかもしれないが、琉球・沖縄のアイデンティティーの中軸がこのような緻密な研究に支えられているのだと、感銘を受けた。それでもまだ見えない問題提起がなされたことも研究の奥深さを認識させてくれた。謝!
閉会の辞として我部政明先生が【遠きにありて近きは男女の仲、近くにありて遠きは学問の道】などと締めくくった。
しかし、皮肉にも【近きにありて遠きは男女の仲であり、遠きにありて近きは学問の道】でもありえる。つまり学問の対象は何でもありである。それを一貫性の中で論理化できるかが問われる。遠きに感じた学問が身近に感じられるのもその通りなんだろう!
思うに論文指導者の視点や思想性も反映されている!一番肝心なところは取り組む当事者のパッションなのだ!
<写真は鹿児島市内の石田中学校裏門に立つ琉球館跡の碑と掲示板:1月30日は粉雪が舞う日曜日、校内に入れず外から撮った>