goo blog サービス終了のお知らせ 

志情(しなさき)の海へ

かなたとこなた、どこにいてもつながりあう21世紀!世界は劇場、この島も心も劇場!貴方も私も劇場の主人公!

久しぶりの大学では高1少女の猟奇的殺人事件や喜納姓(沖縄出身)の殺人事件の話題!

2014-08-05 22:04:35 | 社会時評

                (LONDONのHARRODSで買ったミニチョコには白い鳩のデコレーションがついていて思わず手にした!)

「人を殺したい」と、言った15歳の少女の狂気、と「狂気」で片付けられないわね、と、H先生は言った。私達も同じ年頃にそうした猟奇的な好奇心や、過剰なもの、極限的な残酷さ、などへの関心・恐怖心、両方もっていたよね、と話を切り出した。人を殺していけない理由は人を殺すことが己を殺すことになることを、徹底的に認識させるほかないのだろうか?殺し殺される≪食べ食べられる≫その間の中に、生き生かされている生態系があり、限られた生の活動がある。永遠に死者として生きている存在が億と続くのである。死者たちの累積の上に生命≪活動≫が繰り返されていく。

15歳の精神の破たんを治癒することが不可能だったのか?壊れたものを幾分持ちながら、かろうじて規範の内部と外部を行き来しながらかつ社会的個人を生きている私達である。フィクションの過剰な世界は規範では経験できない無数の物語が増殖している。そのフィクションが実は現実を凌駕できず、現実を追いかけているにすぎないとしたら、--それもありえる。しかし人間の想像力が先かリアリティーが先かは相乗的な関係性なのだろうと推測するだけだが、人間の残虐性に関する限り、15歳の少女の壊れ方(過剰な衝動)はすでに既知のものである。しかし私たちはショックを受け続ける。まさか、12歳が、まさか14歳が、まさか7歳が人を殺すなんてー!人間は弱い動物である。人を殺すことは殺す意図が正当化された時、爆弾を無差別に投下したり、何百人も無差別に銃殺したり、あげくの果ては核爆弾を浴びせて一挙に何十万人も殺してきた人類史である。

猟奇的な市民レヴェルの殺人も無数に繰り返される人類史である。コリン・ウィルソンの殺人に関する本を若いころ読んだが、なぜか人はまた極端な殺人などの犯罪データーやその関連した多数のミステリー小説に惹かれていく。過剰な殺人などの物語は実は溢れている。現実も溢れている。権力と個人の関係性だけではなく、この社会はシュールな物語の迷路だらけなのかもしれない。劇場に例えると、心の劇場やマクロの世界劇場、家庭劇場、職場の劇場、研究所の劇場、あらゆるところで人間が人間以外の物を殺しつくし、利潤を得たり、また見えない刑務所の囲いのなかで人を殺したりもしている劇場(物語)が溢れているということになるのかもしれない。

悲劇の主人公が犯罪者に似ているように、主人公たちは必ず規範を条理【常識】を超えて行く。普通でなない精神や心理作用で、ある見える見えない壁を越えていくのが物語の流れである。例えば有能だった医者が愛人ができ別れ話のもつれの中で、妻と子供たち二人を殺して川に投げ捨てたりもする。愛らしい子供たちは愛を注がれる代わりに命を断ち切られたりする。

父を殺す娘たち、息子たちもいる。母を殺す娘たち息子たちもいる。逆に自ら生み出した子供たちを虐待したり殺す親たちも後を絶つことはない。殺しは生きる日常のコインの過剰なアクションのように、死と共にそこにあり続ける。

15歳の少女について弁護士の父は優秀で裕福な家庭だと、A先生は話した。物質的に恵まれた家庭の御嬢さんだったのだ。しかし彼女の心は乾いて渇いて愛を渇望して得られなかったのだろうか?生きる希望なり夢なり、愛されている安心感が得られなかったのだろうか?愛を求め愛を得られず、破壊願望の中に己の妄想を膨らましたということだろうか?規範の倫理や道徳を超えさせるものがそこに漂っていた。それは誰もが持ち得るく空想領域でもある。殺したい誰かを内に秘めている人間がうようよとこの世に生きていると思うと、ゾンビーのようだが、ゾンビもまた隣に住んでいるこの世でありえるのかもしれない。ただ美を究極的な善を良識を信頼したい思いが勝っているゆえに、残虐な人類史(といっても学んで認知した範囲で)を意識するにしても、しかしかつやはり、美を真実の眼を求めたい。15歳が人を殺したいと口に出すことは異常でも過剰でもない。そした表象事態が溢れているこの世ゆえでもある。しかし、それを実践するのはまた別の枠組みだ。彼女が軍隊にでも入隊して殺すことを目的化して行動する理性の中で、合法化される殺しでもない。友人を殺し弄んだ。快楽殺人に近い。その年齢でジェンダーに関係なく殺意を実践した。すでに彼女にとっては殺すことが、解体することが、最大の謎であり、ときめきだったのだろうか?そこから彼女はどこへ突き進むのだろうか?すでに家族も愛も関係性も破綻している。それを取り戻すルート、そしてそこからのプロセスへの関心が深まっていく。

時差ボケで考えがうまくまとまらない。

ネット情報を見ると多様な声が飛び交っていますね。家族問題が大きいのだろうか?教育的に社会のエリート層に位置する家庭内部の亀裂が大きい要因に見えてきました。愛されない子供の悲劇だったのだろうか?親子関係の闇ですね。関係性の絶対性という言葉がまた浮かんできます。常軌を逸する人間のもつ過剰さがどこからくるのだろうか?ネット情報を見て、怒り、怒り、愛情の飢餓感、不信感、信頼感の欠如、などが感じられました。親ではなく個を生きる親が増えているのかもしれません。子供にとって親≪家庭≫は生存の基盤、愛のぬくもりなのですよね、それが破綻し、破壊されると、虐待になります。家族(家庭)が必ずしも愛の住処ではない矛盾もはらんでいる社会ですね。他人事ではなく、関係性、在り様すべてが問われていくようです。

In England -we looked around Harrods, London's world famous department store before we left there.

Diana’s photo was there!She was killed?!シェイクスピアの歴史劇はイギリス王家の権欲、愛欲、殺人が渦巻いている。

 


最新の画像もっと見る

コメントを投稿

サービス終了に伴い、10月1日にコメント投稿機能を終了させていただく予定です。
ブログ作成者から承認されるまでコメントは反映されません。