志情(しなさき)の海へ

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国家=暴力装置?マイノリティーの可能性は普遍的な形象としての多様な生成へ!

2015-02-18 08:05:01 | ジュリ(遊女)の諸相:科研課題

クリフォード・ギアツのかの有名な『ヌガラ』を真面目にめくってみたら、身近に『国家とは何か』by萱野稔人があったので一緒にめくってみた。

箇条書き『ヌガラ』

模範的中央のまた模範的中央として、王という偶像が外に向け臣下に対して描いたものは、内に向け彼自身に対して描いたものであった。神性の持つ静心の美。

王は政治的行為者でもあり、記号の中の記号であるとともに権力の中の権力でもあった。王を創造し王を君主から偶像へと押し上げたのは王の儀礼である。

権力とは他人を拘束する決定を下す力であり、その表現は強制力で、その基礎は暴力、その目的は支配であるとする権力概念は、16世紀の遺産であるにもかかわらず、現代の政治理論のほとんどがしがみ付く巨岩。

政治とは、結局は統御支配。

宮廷儀礼によりその生命を得た「ヌガラ」

火葬とは、その神髄において国王の儀礼であった。国王の火葬は、特に劇的で華麗で巨大で豪奢だっただけではなく、攻撃的な地位確認を全面的に志向していた。宇宙のイメージとしての火葬塔、葬列、美学的発現、火炎、群衆の興奮、王棺の華美、薪束、生きたまま火炎の中に身を投げる妻たち、僧侶と国王の忠誠―模範的な関係、僧侶の輝き=王の輝き、王とは単に高位聖職者ではなく、世界の神霊的中心(天皇も)。

模範的儀式、模範と模写の位階、顕示競争、宮装的王政、多元的組織、細分的忠誠、拡散的権威、連合的支配、--無媒介的な現実の形成ー宮殿の建設、条約の締結、地代の徴収、通商権を貸与、婚姻、敵を倒し、寺院の落成、薪束を山と積み、宴を催し、神々を思い描き、生きていった男たち(そして配偶者や内通者や地位標識としての女たち)は、彼らが所有する手段で概念化し得た目的を追い求めていた。――自らを模倣する劇場国家の演劇、はそこにあるものだったのである。

んんん、「劇場国家」のことばが独り歩きしているような現象がある。松島さんが「ヌガラ」と琉球近世の劇場国家的要素を比較したいい論文を書いているね。もう少しその中身を検証しなければです。琉球王府の劇場国家的要素はやはり儀礼儀式にあるが、外交手段・国家維持の手段としての冠船芸能、慶賀使・謝恩使の芸能がまたあったのは事実だろう。王の権威のために冊封儀礼は特に重要だった。儒教倫理がどう進展しているか、つまり清王朝への恭順の恣意的表示は重要だったのだ。それらと遊里、ジュリ、芸能がどうかかわるか?その大枠の国家儀礼の中に位置づけられる。バリ島でも女性たちは地位標識とギアツは書いている。つまり媒体である。女性たちは交換の手段(品)でもあった。権力と権力の懐柔に常に存在したのである。琉球の場合も清と薩摩の峡間にあって王府は女性たちを投げ出したのである。

それは変わらない。王妃や多くの妻女たちは、王の権力を支える装置の一部とみなされたのも変わらない。

                   (ヌガラ:王の火葬という国家儀礼により秩序が維持される劇場国家バリ)

ところで、身近に『国家とは何か』があった。すこしめくってみた。若いころ『国家論』など、マルクス・レーニンの書を読んだような気がするが、『ドイツ・イデオロギー』は持ち歩いていたような気がする。しかし国家論などと遠く離れたところにいると思っていたら、演劇のパフォーマティブ性はすべてに敷衍化できることも確かだと思い直した。米軍のラジオ放送を聞いていると軍事的展開にシアターがでてくる。

さて国家暴力が今沖縄の大きなテーマになりつつある。民意を無視して日本政府が辺野古で繰り広げるコンクリ―トの塊を海に投げる行為=国家的暴力であり、その先兵の業者が辺野古新基地建設の基礎的作業に乗り出し、海保が機動隊の姿でカヌーや船で阻止せんと闘っている沖縄の島魂を代表する者たちに暴行を加えているのが現実で、昨今の紙面に大きく取り上げられている。

そこでそうした国家暴力をどう阻止できるのかが、大きな課題になっている。国家=暴力装置も変容してきている。

その本で「国家をなくすことができるかという問題は、暴力の組織化を経由することなく暴力を社会的に管理することは可能か、という問題になる」という指摘が興味深い。←質的に均しく、量的に比較可能な労働と資本、そしてそれらの流れの存立性をあらわす『変換可能な権利の所有」、そうした諸要素の抽象性と普遍性におきかわるような広がりをもった経済モデルを創り出すことができるか、と萱野さんは問うている。

「マイノリティーの特性は、数えられないものの力能を際立たせることだ。多様体の公式。普遍的な形象としてのマイノリティー、あるいはあらゆるものへと生成すること」

国民は常に住人の間からマイノリティーを排除することで成立するが、公理レベルでの闘争はそうした国民をめぐる諸公理にマイノリティーの要求を対置することで、その諸公理がもっている整合性をくずしていくからだ。全体主義的な公理の縮減に抵抗することは、国民のただなかにマイノリティーの実践にとっての場所を開くのである。←この辺が沖縄の未来への可能性かと、思った。論としてはあらゆるマイノリティーとしての女性たち、人種的に阻害されている人々を含めての可能性を模索していると見た。

じっくり読みたいが時間がない。フーコーのセクシュアリティーと権力の関係など、もっと引用したかったがー、興味深い理論書です。一読の価値はありますね。管理されるセクシュアリティー、権力は常に二重規範の性管理・分離を維持してきたのですね。


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