
沖縄外国文学会から送られてきたSouthern Reviewを読んで、フランツ•ファノンの『黒い皮膚•白い仮面』(1952年)が気になった。知念ウシさんの巻頭論文の題名、
フランツ•ファノン『白い仮面•黒い皮膚』再読ー日本再併合50年目の琉球で
が興味深くて、読んだついでに、ネットで他の方々の論文や解釈も視聴した。
まず何故『黒い皮膚•白い仮面』の著書の題名を逆転しているのか、うっかりミスなのか、意図的なのか?
論調は、基地と戦争を押し付けられる軍事植民地に住む琉球人(琉球)は、経済、観光、癒し、移住、文化の面で日本とアメリカに奉仕する植民地にさせられている。と言う点と、日本人(植民者)に対する劣等コンプレックスの強調である。
そこからの出口は、社会構造の変革、アクションだと知念さんは結論づける。
ファノンは黒人ニグロであることの自己嫌悪(依存と劣等コンプレックス)について詳しく論じている。アイデンティティをネグリチュードに希求した指向性がサルトルの論によって覆されるいきさつなど、すさまじい思想的推移に圧倒される。言語の問題は知念さんも触れているが、同化と言語の関係は、明治政府に併合されて以降、接ぎ木された日本語を習得してきた沖縄人は、体感してきた。同化と異化は現在に至る。
ファノンが一時傾倒したネグリチュードは知念さんの場合、琉球、琉球人への固執と同じだろうか。ポストコロニアルの理論から再評価されているファノンらしい。ネーション(民族・ETHNICITY)意識が、独自のアイデンティティ、伝統文化や言語を取り戻す論拠になりえるだろうけれど、人種や民族意識を超えた超国家的な人類、「類」概念もある。
しかし知念さんの論を超える視点が展開されている。大城立裕さんは1980年代から沖縄人のコンプレックスは消えてきたと語っている。自らの歴史や文化に対する自信がついてきたと~。『同化と異化の狭間で』(1972年)の著書がある。現在の沖縄の人間は劣等コンプレックスの塊ではない。むしろ21世紀以降日本そのものがアメリカ宗主国の植民地的属国だという事実があぶり出されてきた。戦後レジームの偽善性ともろさが透けてきた。白い仮面をかぶっているのは黒人だけか?白人もまた白い仮面をかぶっている。日本人も白い仮面をかぶっていると言えるのかもしれない。サルトルは人種が止揚される社会を提示する。その点、植民者としての日本(日本人)は被植民者(沖縄)に対して、必ずしも優位にあるわけではないことも明らかになっている。
確かに日米による二重軍事植民地状況は変わらない。しかしそうした政府の政策、暗黙の沈黙するマジョリティー日本人が沖縄に押し付けている不条理は
日本国家そのものの汚濁(偽善・醜さ・弱さ・悪辣さ)に他ならない。
この状況はますます悪化している。琉球列島全体を国の防波堤にしている現実がある。それを肯定するのが日本の良識であり、その罠から逃れられない沖縄の立ち位置がある。それを突き崩すルートはどこにあるのだろうか。夜中にパトカーや救急車のサイレンが鳴り続ける。

一方、フランツ・ファノンについては、動画でも英語バージョンは詳しく分析、紹介している。
またファノンの残された著書を網羅した論考も読ませた。
